2017年4月 追悼
ライブスチームの工作記であるから本来独り言に入れてもよい内容だが、休止の結果として本編に入れることにした。
2015年11月に非小細胞肺がんであることが判明した嫁は闘病の末に2017年4月1日に亡くなった。正直、癌が見つかった段階で私はまず助かる見込みはないと思ったが、本人はひたすら大丈夫と信じていた。

ライブスチームの工作ができなくなった最大の理由は嫁の病気ではない。個人事業がこれほど多忙だとは想定外だったのだ。増えた業務量はIT化を推進させて何とかしていたが、これに介護が加わったことで決定打になったのである。もちろん子育ても理由である。

ライブスチームを生活の中心に設定して積極的に行っていたのは1999年〜2004年の5年間だった。この期間はあちこちの運転会に遠征していたが、当時は子供がいなかったこともあり、夫婦二人でやりたい放題だった。

古くからのライブスチーマーには顔を覚えている方もいらっしゃるかもしれない。写真は2001年3月22日、動輪舎の試作機C58を運転している写真である。撮影は動輪舎の矢作さんである。

この日は動画も撮影していたが、当時はメディアがminiDVだったため、今は再生するビデオカメラがない。

ライブスチームに乗っている写真は極めて少ないため貴重な写真となった。


私の生活は介護の時間が無くなった分、やや余裕がでてきているが、工作を再開できるほどではない。
正直、何度か完成品を購入してもよいか・・・と考えたが、結局運転会に参加している時間がないので完成品購入まで至らなかった。どうせ場所を取るだけになることは見えている。

私の子供はライブスチームに乗ったことはほとんどない。そのため、父親がライブスチーマーである子供にありがちな「鉄道はもとよりライブスチームに全く興味がない」ということにはなっていない。
倉庫においてあるT5を見るたびにいつ運転するのか、と圧力をかけられるぐらいである。それぐらい運転会に連れて行っていないのである。
子供を連れて遊びに行くとなると、もうすこし実生活に役に立つ経験を習得できる遊びが優先するので、汽車ポッポはどうしても後回しになるのである。


嫁の病気が判明する数か月前、2015年7月に私は自宅から10キロほどの場所に土地を購入した。間口11.5m奥行き30mの長細い物件である。この土地は仕事の資材を置いたり、別の目的があって購入したものだが、直線であればライブの線路を引くことができるので、30m分、オーダーしておいた。これがちょうど二年前の夏である。

仮に機関車が完成してもそれを持ち運んで運転会に参加する時間は取れないだろうし、完成した機関車の調子を見るためにも試運転線は必要になるからである。

そして、この土日を使ってようやく30mの自家用直線レイアウトを作ってみた。ただ単に直線レールをボルトナットで締結して並べただけだが、それを実行する時間さえなかったのだ。レールは鉄製で亜鉛メッキ鋼板どぶ付け仕様である。ジョイナーの穴あけやタップたてが必要だったのでそれなりに時間がかかったのである。

レールを子供たちに運ばせ、ジョイナーを兄弟二人で固定させた後、乗用台車だけ組み立てて転がしてみたが、地盤がコンクリート叩きであることもあり、特に問題なく設置はできた。

子供たちは乗用台車を転がすだけでも大喜びだった。これで8620の試運転線はできたということになる。ちなみにレールは3線式なのでろく工房コッペルも試走可能である。

工作再開はめどが立っていないが、ま、希望は持ち続けるということで。


追伸:この年末年始にライブスチーマーの友人から多数の年賀状をいただきましたが、病院付き添い中であったために返信できませんでした。この場を借りて御礼を申し上げます。