わたし | 「蒸気機関車の運転は夏も冬も大変だったと思うが、しいて言えばどちらがつらかったか?」 |
機関士 | 「室蘭本線に限って言えば、夏だったね。特に戦中は灯火管制で屋根があけられなかったからね。切り通しの登りなんて最悪だったよ。」 |
わたし | 「好きな機関車はあるか?」 |
機関士 | 「キューロクも良かったけど、やっぱりD51だったね。扱いやすさもパワーも申しぶんなかった。」 |
わたし | 「機関士で楽しかった思いでは?」 |
機関士 | 「燃料制限だよ。追分では機関士と助士がどれだけ石炭を使わないで運転できるか競争があって、詰め所にグラフが張ってあるんだよ。
だから、燃料使用量が少ない連中が威張っていると『おまえは荷が軽かったからな』と良く嫌味を言い合っていた。 助士の時代はいい投炭をすると機関士の家で飯食わせてもらうのも 楽しみだった」 |
わたし | 「一番つらかった仕事は」 |
機関士 |
「煙管の掃除だよ。火が落ちていても中はじっとりと暑いんだ。圧縮空気を煙管に押し付けてプシュてやるんだけどしっかり押し付けてないと自分の顔にススがもろにかかるんだ。 もうひとつは戦中機関車を手入れする資材がなかったことだね。油は比較的あったけどウエスがなくてね。ワラをもんで動輪やロッドを磨いたんだよ」 |
この回答は現役で機関車を運転していた人でなければ答えられない質問である。とくに私が興味をもったところは、戦中の話が多かったことだ。私は戦争は全く知らない。追分鉄道記念館の元機関士はみな大正生まれだ。昭和生まれはいない。ということは、20才前後で終戦を迎えた計算になる。そして、蒸気機関車引退とともに、退職を迎えた世代でもある。 私は、最後に一番聞きたかった質問をぶつけた。それは、本来ここ追分鉄道記念館に保存されるはずだったD51241号の話だった。 「追分町鉄道記念館訪問記 その2」(続) |
「あれは・・・、つらかった」初老の元機関士はそう言った。 D51241。この日本で一番最後に営業用蒸気機関車として貨物列車を引いた機関車を、今では見ることができない。営業用蒸気機関車が本線を走った最後の日は、1975年12月24日のクリスマスイブのことだった。「最後の蒸気機関車」を撮影するため、室蘭本線、夕張線には多数のSLファンが詰め掛けた。4本の貨物列車が運行され、トリを飾ったのがこのD51241だ。 D51241が、なぜ選ばれたのか?なぜ、この半端な番号の機関車に栄誉が回ってきたのか?それは最初から分かっていた答えなのだ。D51241は生まれも育ちも追分機関区だったからだ。昭和13年に北海道の苗穂工場で生まれた241号機は最初の配属が追分で、しかも1975年12月24日に至るまで、一度も「追分機関区」を離れたことのない機関車だった。 元機関士は言った。 「あれはキューロクが火を落としてから、一ヶ月くらいたった夜だった。」 「突然だった。火事で扇形庫が燃えている!っていわれて慌てて駆けつけたんだけど、もう火は手がつけられないぐらい大きくなっていた。何とか、241だけでも引き出そうと試みたがだめだった。みんなで黙って燃えていくカマを見ていた」 1976年4月13日、この火事により追分機関区のカマが何台か死んだ。その中には苗穂工場で最後の全検を受けて大切にされていた603号機も含まれていた。私はなぜ火事がおきたのか、と質問しようと思ったが、それ以上何も聞けなくなってしまった。 「つらかった・・・」の一言にやるせない悲しみと重みを感じたのだ。 大切にするために機関庫に入れておいたことが、返って悲劇を生んでしまった。320号機は保存対象機関車ではなかったため、一命を取り留めたのだ。
私はにぎやかな観光客を避けて、「SLの詩」を読んだ。中には「機関車の汽笛が町の産声」という詩が掲載されている。私は、そのパンフレットから追分町が、どれだけ蒸気機関車に特別な思いがあるかをはっきりと読み取ったのだった。私は駅前の橋の欄干に張ってあった「動輪のレリーフ」を思い出していた。 元機関士たちは、「SLを庫に入れる時間が来ました」と観光客に告げ、DLに引かれて320号は庫に戻されていった。しばらくすると観光客はすっかりと姿を消して、静かな記念館が戻ってきた。 ぼんやりと私はベンチに座っていたが、元機関士たちは私に「こっちに来て一緒にお茶でも飲もうや!」と声を掛けてくれ、青い旧型客車「スハ45」に入っていった。お茶とお菓子を食べながら、元機関士たちは雑談していた。月に2回の「イベント」を楽しみにしているようだった。 「明日は、幼稚園の子供たちが絵を書きに来るから、早めに集まってテンダーを洗っておこう」と話をしている。 元機関士が私に聞いた。「兄ちゃんは何年生まれだ?」 私は答えた。「昭和45年です。西暦だと1970年です。」 「若いなあ!でもあんたらの世代はSLは知らないでしょう」といった。私は「ええ。動いているSLは大井川鉄道ではじめてみました」と答えた。機関士たちは私の年齢に驚いているようだった。「昭和45年っていったら、ついこないだじゃないか!」といっている。追分の元機関士たちはみな大正生まれだ。 私は、思い切って「追分町SL保存会」に入りたいと打ち明けた。すると「それは難しいぞ!まず、追分町の町民になることさ」と言った。さらに「この施設は町の教育委員会予算で運営されている。だから無料なんだ」と言った。私はそれに対して返事はしなかったが、何かできることはないかと考え始めていた。 「俺たちがみな死んだって、ちゃんとここは残る。追分機関区のOBにはまだまだ若いのがいるし、永久に保存するって決めたんだから大丈夫さ」 そういって「さて、そろそろ行くか」とOBたちは帰り支度をはじめた。私は「元機関士たち」に御礼を言って、帰っていく姿を見送った。追分町鉄道記念館はまた来たときと同じように静かになった。 私は、「すばらしく楽しかった一日」を振り返り、なぜこの「追分町鉄道記念館」が「すばらしかった」のか考えていた。 それは、元機関士たちの「機関車に対する愛情」がそうさせたのだと理解した。 追分機関区はもうない。しかし、「追分町鉄道記念館」に形を変えて追分機関区は残っている。そこでは時間が止まっているのだ。古き良き「国鉄」の時代と「蒸気機関車」が現役である日のままで。(終) |
2001.9.15 追記 本文の中で記述したD51603号機は、1975年12月24日に本線を走った最後の4台の一台である。現役蒸気機関車として最後の全検を受け、またお召しの機関車並に美しく整備されていたことでも知られていた。この機関車も国立科学博物館に保存される予定であったが、残念ながら241号機とともに火災で焼失してしまった。D51241は動輪と煙室庫が記念碑になり、その他はすべて失われたと考えれらえれていた。 しかし、奇跡的にD51603はひっそりと生きていたのであった。もちろん完璧な状態ではない。機関車のシリンダーから前がそっくりそのまま大阪の鉄鋼会社「共永興業」で保管されていたのである。鉄道友の会の保存機関車リストを見てもこの機関車は掲載されていなかった。誰にも知られることなくこの機関車は27年近く保存されていたのである。 今年夏、京都の嵯峨野駅前に鉄道公園が開設されたが、C56・C58に挟まれてD51603は公開されている。私が確認したときには、まだナンバープレートもついていなかったが、焼失直後と同様のペンキ書きナンバー、破損した補助灯から判断しても、それはまぎれもなくあの603号機であった。 歴史的に見ても、最後の現役蒸気が残っていたことはとても良かったことだと思う。燃えてボロボロになった機関車をそれでも保存しようと考えた共永興業には本当に頭が下がる。京都を訪問する機会があればぜひ一度見学していただきたい。きっと603号機の最後の栄光と不幸を同時に感じることができるはずだ。 その他603号機について、JR苗穂工場にナンバープレート、三笠鉄道記念館に主動輪とナンバープレートが保存されている。 もうひとつ、「記念館訪問記その1」で記述した車掌車はその後運び出されて現役に復帰し、現在C11171号に牽引されてすずらん号の一員となっている。末永く元気な姿を見たいものだ。 |