追分町鉄道記念館訪問記

1999年8月27日、私は北海道勇払郡追分町にある「追分町鉄道記念館」を訪問した。8月といってもすでに秋の風が吹いていた。予備知識を用意していなかったこともあり、地図だけを頼りに追分町を訪問したのであった。

JR追分駅前の駅前広場へ通じる橋の欄干には「蒸気機関車の動輪」をモチーフにしたレリーフがはってある。それは、追分町が鉄道の町であったことをそれとなく主張していた。もちろん今でも「石勝線」「室蘭本線」の分岐駅であることは変わりないが、ここには「D51」を主力機とした大型機関区があったのだ。

にぎやかな東口から西側に抜ける歩道橋がある。階段を上るとその長さに驚く。ずいぶん長い。これはかつて追分駅に存在したおびただしい数の「留置線」や「機回し線」をまたぐために作られたものだ。しかし、今は歩道橋の下を見てもただの原っぱしか見えない。

歩道橋を歩いていると、この「追分機関区」がいかに大きな機関区であったかがはっきりと認識できる。恐ろしく広い敷地だ。その原野となった跡地の隅に「追分町鉄道記念館」と書いてある小さな建物が確認できた。目的の場所だ。

鹿公園と呼ばれる鹿を放し飼いにしている追分町の数少ない有名地を通り過ぎると、公園に隣接された「追分町鉄道記念館」に着いた。青い旧型客車のスハ45がおいてある。他にも貨車や車掌車がおいてある。格子のはまった窓から中をのぞくと、すぐ間近に蒸気機関車の給水ポンプがみえた。「D51320」だ。中が暗く、よく見えない。

敷地を見渡すと、たて看板があり、

「中を見たい方はこちらまでご連絡ください。01452−5−2083 追分町教育委員会」

と書いてある。「2週目と4週目の金曜日は1時から開館します」とも書いてある。今日は金曜日で、しかも時計は午前11時半だった。私は、昼食を食べるために近くにあるコンビニエンスストアに行き、お弁当を購入し鉄道記念館にもどった。公園もかねているため都合がいい。天気も良い上、とても静かだ。

ベンチでうとうと昼寝をしていると、突然白いワゴン車が公園に乗り入れてきた。7〜8人ほどの人が乗っている。車が止まると初老の男性が降りてきて、建物の中に消えていった。

しばらくすると、突然、建物の電動シャッターが上がり始めた。シャッターのまえからさらに30メートルほどレールがのびている。記念館から「D51320」が出てくるのだ。私はシャッターの前に立ち、中をのぞいた。先ほど来た初老の男性たちが機関車の足回りに油をさしている。ウエスで機関車を磨いている人もいる。機関車の後部に連結されたDLがアイドリングをしている。前照灯が光っている。

私は「こんにちは」と近くで「クロスヘッド」に油をさしていた男性に声を掛けた。「やあ、もうすぐ出すよ」と答えてくれた。年季の入ったネイビーブルーのズボンに水色のシャツ、帽子には「国鉄」のマークが入っている。

「追分機関区」のOBだ。ブレーキエアを作るためにしばらく時間がかかるという。DLとD51のブレーキホースは繋がれており、これはD51の元空気だめにもエアが入るという証明だ。

私は、運転室の中に入り、シートに座った。とにかくきれいだ。砲金の部品はピカピカに磨かれており、懐中時計、時刻表もささっている。ブレーキ圧力計が3キロを指している。私は窓についている「北の蒸気」特有の「バタフライスクリーン」をかたかたやりながら、下で作業している初老の元機関士に声を掛けた。

「もう動かしますか?」

するとこんな答えが返ってきた。

「出すけど、乗ってていいよ!」

私は興奮した。火が入っていないとはいえ、動くD51の運転台にのった経験のある「昭和45年生まれ以降の人」はほとんどいないはずだ。

「パアン」という色気のない汽笛がなった後、一瞬ガクンとショックを感じD51320が動き始めた。DLのアイドリングが大きくなる。外の明るさに比べて建物の中は暗い。まぶしい外の光がだんだん近づいてきた。確かに動いている。ドレインコックからもれる「シューシュー」と言う音が少しだけ聞こえる。後ろのDLが制動に入る。圧力計の針が動く。そして機関車はとまった。時間にして30秒ほどの経験だった。

「追分町鉄道記念館訪問記その1」(続)


「追分町鉄道記念館訪問記 その2」

ほんの一瞬の出来事だった。しかし、火が入っていないにしろ、動く蒸気機関車に乗ったことは確かだった。私は、カメラを機関車の手すりにぶつけないように慎重に機関車を降りた。

外からD51320を眺めた。各地で復活した蒸気機関車は過剰とも言える装飾と手入れにより、現役のときに見られた「産業用機械」の面影は全くない。しかし、この320号は手入れがされているとはいえ、塗装も昔のまま、装飾もなしということで現役引退時の姿をそのままとどめている。

機関車の出庫した記念館をよく見てみる。最初からD51が入庫することが決まっていたこともあり、建物の大きさは、機関車収容限界ぎりぎりに作られている。D51が入っている間はゆっくりと中を見学する広さはない。しかし、機関車が出た後は、ゆったりとした空間があり、博物館もかねた「記念館」を観察できる。

まず驚いたのは、ピットがあったことだ。動態保存ではないのでアッシュピットは不要だが、きっちりと作ってある。これなら、軸箱の給油も簡単に行うことができる。建物の外観はトタン張りであまりぱっとしなかったが、中から見ると、見事な木造建築できっちりと作られている。

さらに、展示品もめったにお目にかかれないものが取り揃えてある。蒸気機関車専用の工具、ゲージ等をはじめ、予備の部品、追分機関区所属だった機関車のナンバープレート、機関士・機関助士講習用テキストまでさまざまだ。

私は気がついた。ここは本当に規模が小さいが、機関区とほぼ同じ環境が整えてあるのだ。追分機関区はすでにないが、こんな小さな記念館にちゃんと施設は残っている。私は、元機関士にそのことを尋ねてみた。

「その気になればこの機関車はいつでも火が入れられるよ。シロクニの3が復活したときもここの部品を使いたいといってきたんだけどね・・・断ったよ」

ここには、必要な部品はおおよそそろえてあるという。蒸気機関車の部品はすでにほとんど手に入れられない状況にあり、動態保存蒸気は公園などに保存してある静態保存の機関車から部品を流用している状況にある。しかし、ここのD51320はこの機関車のために必要な部品はすべて用意してあるのだ。まるで動態保存が約束されているようである。

しばらくすると、バスに乗った観光客らしき団体がどっと押し寄せてきた。道内の人たちのようで年齢はかなり高齢だ。観光客から矢継ぎ早に質問されても、元機関士たちは丁寧に説明し、答えている。結局この日は記念館とその外の線路を4往復もして、魅力ある動輪の動きを見せてくれた。

私も観光客に混じって、以前から聞いてみたかったいくつかの質問をぶつけてみた。

わたし 「蒸気機関車の運転は夏も冬も大変だったと思うが、しいて言えばどちらがつらかったか?」
機関士 「室蘭本線に限って言えば、夏だったね。特に戦中は灯火管制で屋根があけられなかったからね。切り通しの登りなんて最悪だったよ。」
わたし 「好きな機関車はあるか?」
機関士 「キューロクも良かったけど、やっぱりD51だったね。扱いやすさもパワーも申しぶんなかった。」
わたし 「機関士で楽しかった思いでは?」
機関士  「燃料制限だよ。追分では機関士と助士がどれだけ石炭を使わないで運転できるか競争があって、詰め所にグラフが張ってあるんだよ。 だから、燃料使用量が少ない連中が威張っていると『おまえは荷が軽かったからな』と良く嫌味を言い合っていた。
助士の時代はいい投炭をすると機関士の家で飯食わせてもらうのも 楽しみだった」
わたし 「一番つらかった仕事は」
機関士 「煙管の掃除だよ。火が落ちていても中はじっとりと暑いんだ。圧縮空気を煙管に押し付けてプシュてやるんだけどしっかり押し付けてないと自分の顔にススがもろにかかるんだ。
もうひとつは戦中機関車を手入れする資材がなかったことだね。油は比較的あったけどウエスがなくてね。ワラをもんで動輪やロッドを磨いたんだよ」

この回答は現役で機関車を運転していた人でなければ答えられない質問である。とくに私が興味をもったところは、戦中の話が多かったことだ。私は戦争は全く知らない。追分鉄道記念館の元機関士はみな大正生まれだ。昭和生まれはいない。ということは、20才前後で終戦を迎えた計算になる。そして、蒸気機関車引退とともに、退職を迎えた世代でもある。

私は、最後に一番聞きたかった質問をぶつけた。それは、本来ここ追分鉄道記念館に保存されるはずだったD51241号の話だった。

「追分町鉄道記念館訪問記 その2」(続)


「追分町鉄道記念館訪問記 その3」

「あれは・・・、つらかった」初老の元機関士はそう言った。

D51241。この日本で一番最後に営業用蒸気機関車として貨物列車を引いた機関車を、今では見ることができない。営業用蒸気機関車が本線を走った最後の日は、1975年12月24日のクリスマスイブのことだった。「最後の蒸気機関車」を撮影するため、室蘭本線、夕張線には多数のSLファンが詰め掛けた。4本の貨物列車が運行され、トリを飾ったのがこのD51241だ。

D51241が、なぜ選ばれたのか?なぜ、この半端な番号の機関車に栄誉が回ってきたのか?それは最初から分かっていた答えなのだ。D51241は生まれも育ちも追分機関区だったからだ。昭和13年に北海道の苗穂工場で生まれた241号機は最初の配属が追分で、しかも1975年12月24日に至るまで、一度も「追分機関区」を離れたことのない機関車だった。

元機関士は言った。

「あれはキューロクが火を落としてから、一ヶ月くらいたった夜だった。」

「突然だった。火事で扇形庫が燃えている!っていわれて慌てて駆けつけたんだけど、もう火は手がつけられないぐらい大きくなっていた。何とか、241だけでも引き出そうと試みたがだめだった。みんなで黙って燃えていくカマを見ていた」

1976年4月13日、この火事により追分機関区のカマが何台か死んだ。その中には苗穂工場で最後の全検を受けて大切にされていた603号機も含まれていた。私はなぜ火事がおきたのか、と質問しようと思ったが、それ以上何も聞けなくなってしまった。

「つらかった・・・」の一言にやるせない悲しみと重みを感じたのだ。

大切にするために機関庫に入れておいたことが、返って悲劇を生んでしまった。320号機は保存対象機関車ではなかったため、一命を取り留めたのだ。

「だから、俺たちは仕方なく残骸から、記念碑を作ったんだ。」といって一冊のパンフレットを私にくれた。パンフレットには「おいわけ 今も耳に残る汽笛の響き SLの詩」と書いてあった。

私はにぎやかな観光客を避けて、「SLの詩」を読んだ。中には「機関車の汽笛が町の産声」という詩が掲載されている。私は、そのパンフレットから追分町が、どれだけ蒸気機関車に特別な思いがあるかをはっきりと読み取ったのだった。私は駅前の橋の欄干に張ってあった「動輪のレリーフ」を思い出していた。

元機関士たちは、「SLを庫に入れる時間が来ました」と観光客に告げ、DLに引かれて320号は庫に戻されていった。しばらくすると観光客はすっかりと姿を消して、静かな記念館が戻ってきた。

ぼんやりと私はベンチに座っていたが、元機関士たちは私に「こっちに来て一緒にお茶でも飲もうや!」と声を掛けてくれ、青い旧型客車「スハ45」に入っていった。お茶とお菓子を食べながら、元機関士たちは雑談していた。月に2回の「イベント」を楽しみにしているようだった。

「明日は、幼稚園の子供たちが絵を書きに来るから、早めに集まってテンダーを洗っておこう」と話をしている。

元機関士が私に聞いた。「兄ちゃんは何年生まれだ?」

私は答えた。「昭和45年です。西暦だと1970年です。」

「若いなあ!でもあんたらの世代はSLは知らないでしょう」といった。私は「ええ。動いているSLは大井川鉄道ではじめてみました」と答えた。機関士たちは私の年齢に驚いているようだった。「昭和45年っていったら、ついこないだじゃないか!」といっている。追分の元機関士たちはみな大正生まれだ。

私は、思い切って「追分町SL保存会」に入りたいと打ち明けた。すると「それは難しいぞ!まず、追分町の町民になることさ」と言った。さらに「この施設は町の教育委員会予算で運営されている。だから無料なんだ」と言った。私はそれに対して返事はしなかったが、何かできることはないかと考え始めていた。

「俺たちがみな死んだって、ちゃんとここは残る。追分機関区のOBにはまだまだ若いのがいるし、永久に保存するって決めたんだから大丈夫さ」

そういって「さて、そろそろ行くか」とOBたちは帰り支度をはじめた。私は「元機関士たち」に御礼を言って、帰っていく姿を見送った。追分町鉄道記念館はまた来たときと同じように静かになった。

私は、「すばらしく楽しかった一日」を振り返り、なぜこの「追分町鉄道記念館」が「すばらしかった」のか考えていた。

それは、元機関士たちの「機関車に対する愛情」がそうさせたのだと理解した。

追分機関区はもうない。しかし、「追分町鉄道記念館」に形を変えて追分機関区は残っている。そこでは時間が止まっているのだ。古き良き「国鉄」の時代と「蒸気機関車」が現役である日のままで。(終)


2001.9.15 追記 

本文の中で記述したD51603号機は、1975年12月24日に本線を走った最後の4台の一台である。現役蒸気機関車として最後の全検を受け、またお召しの機関車並に美しく整備されていたことでも知られていた。この機関車も国立科学博物館に保存される予定であったが、残念ながら241号機とともに火災で焼失してしまった。D51241は動輪と煙室庫が記念碑になり、その他はすべて失われたと考えれらえれていた。

しかし、奇跡的にD51603はひっそりと生きていたのであった。もちろん完璧な状態ではない。機関車のシリンダーから前がそっくりそのまま大阪の鉄鋼会社「共永興業」で保管されていたのである。鉄道友の会の保存機関車リストを見てもこの機関車は掲載されていなかった。誰にも知られることなくこの機関車は27年近く保存されていたのである。

今年夏、京都の嵯峨野駅前に鉄道公園が開設されたが、C56・C58に挟まれてD51603は公開されている。私が確認したときには、まだナンバープレートもついていなかったが、焼失直後と同様のペンキ書きナンバー、破損した補助灯から判断しても、それはまぎれもなくあの603号機であった。

歴史的に見ても、最後の現役蒸気が残っていたことはとても良かったことだと思う。燃えてボロボロになった機関車をそれでも保存しようと考えた共永興業には本当に頭が下がる。京都を訪問する機会があればぜひ一度見学していただきたい。きっと603号機の最後の栄光と不幸を同時に感じることができるはずだ。

その他603号機について、JR苗穂工場にナンバープレート、三笠鉄道記念館に主動輪とナンバープレートが保存されている。

もうひとつ、「記念館訪問記その1」で記述した車掌車はその後運び出されて現役に復帰し、現在C11171号に牽引されてすずらん号の一員となっている。末永く元気な姿を見たいものだ。