2010.4.24 同窓会

私は高校を1989年3月に卒業した。
2009年1月に卒業20周年ということで、この年卒業した全生徒を集めた同窓会が行なわれた。一年近く前になるが、この同窓会は生まれてはじめて経験した同窓会だった。

私が高校を卒業した1989年、日本経済は最高潮を迎えており、1985年のプラザ合意以降の時代を高校生・大学生で過ごすことができたのはとても幸せだった。私は現役で進学したのでタイムラグもなかった。バブル崩壊は1991年秋なので、万一浪人していたら就職活動はかなり厳しいものになっていただろう。

私の卒業した高校は以前独り言で成績表を公開したとおり、とても進学校と呼べる学校ではなかった。その代わり、色々な能力を持った学生が集まっており、中には天才的な友人もいた。私は軽音楽部に所属しており、年数回のライブ活動のための練習にいそしんでいた。アーティスティクな人間も多く、年上の先輩にはミュージシャンになった人、漫画家になった人もいた。
個性的な学生が抑圧されることなく高校生活を送っていた。私と一緒にバンドを組んでいた後輩もプロベースプレイヤーとしてバンドデビューし、98年まで活動した。

3年生になると理数系クラスと文系クラスに別れるため、理数系クラスはほとんど男子クラスになる。その恩恵を受けた文系クラスは男子比率と女子比率が逆転し、女子が男子よりも多いクラスがほとんどになる。それが理由かどうかわからないがカップル率もかなり高かった。

私も幸い?大学中盤までお付き合いができた女性と幸せな高校生活を送り、高校生活を思い出すときに男友達のことしか記憶にないという悲惨な状況にならずに済んだ。このときに付き合っていた子はもともと地元の子ではなく、両親の転勤にともなって私のいた高校に入学し、高校卒業と同時に地元の東京にもどったため、その後別れた後の行方は誰も知らない。結果、連絡先がわからず同窓会にも参加していなかった。

そのことは予想できたのでどうということはなかった。もちろん、残念だったが。

残念だったのは私の高校生活を説明する上で外すことができない友達が2人もこの世を去っていたことだった。
420人近くの同級生の中で3人死亡しており、連絡がつかない人が4人。連絡がつかない4人のうちの1人は私の付き合っていた子だった。幸いにも同窓会の参加メンバーの中に年賀状をやり取りしていた友達がいて近況を知ることができた。

連絡がつかない残りの3人の内の1人は私のギター仲間だった。彼も父親が転勤族だったので実家が引越しを繰り返し、行方がわからなくなったようだ。あるときは私の家、あるときは彼の家でフライングVのエレキギターを引きまくった。

亡くなった友達の1人は高校で知り合ったわけではなく、小学校低学年のころに通っていたスイミングスクールで知り合った奴だった。遠くからバスでプールまで通っていた。小学校高学年、中学時代を飛び越えて高校で再会した。3年間同じクラスで、となりの席になる確率も高く、実際高校時代にたくさん録り溜めた写真の2枚に1枚には彼が写っている。

いまどきの高校生はケータイで学校生活を録りまくっているのだろうが、私の時代には学校にカメラを持ち込むものは少なく、変わり者の私は毎日学校にコンパクトカメラをもって行きしょっちゅう仲間を写真に録っていた。これらの写真はとても貴重な記録になり、誰にプレゼントしても喜ばれる大切なデータになった。
大学時代は地元に帰ったときにたまに会う程度だったが、私が社会人になって名古屋へ転勤し、会社の寮の近くのコンビニで偶然再会し再度付き合いが始まった。奴はフラワーショップを開くために名古屋の専門学校に通っていたのだ。偶然もここまで来ると奇跡である。彼はその後地元に戻り、高校の同級生だった女性と結婚し(つまり私の同級生でもある)、きちんとフラワーショップを経営し、ある日前触れもなく自ら命を絶った。

何をやらせても天才的にうまく、繊細な感情を持つ男だった。

もう1人、亡くなった友達は私のバンドのメンバーだった。彼はキーボード奏者だったが、もともと他のバンドに所属しておりYMOなどのテクノミュージックを好んで演奏していた。私もテクノは好きだったので話をする機会が多く、2年生の終盤間近に一緒にバンド活動をした。キーボードはもちろんのことドラムもうまく、小学生のときにリコーダーで全国一位になったこともある奴だった。理数系クラスに所属していたのでクラスが一緒になることはなかったが、音楽仲間だったので付き合いは深かった。時効だから書くが高校生同士で知人宅に集まり酒盛りしていたメンバーの1人だった。

私は彼の才能に完全に参っていた。

私が知っている彼の歴史はそこまでだったが、彼は浪人して理数系の大学へ進学し、教職免許を取り地元に帰ってきて教員になっていた。彼のことだ。最高の教員だったに違いない。教壇に立ってわかりやすく授業を行なう姿を予想することは簡単なことだった。
そしてある強雨の午後、我が高校のすぐ近くに新しくできた環状線の交差点で、右折しようとした車と接触して事故死したのだ。

同窓会の会場は同級生の1人が就職したホテルで行なわれていた。そのホテルに就職した同級生は順調に出世しており、彼の口利きで会費が安くなったということだった。
当時のYMOバンドの残りのメンバーが追悼の演奏をしていた。私の前に次々といろんな友達が挨拶に来て「よう、元気そうだな。おまえ今なにやってるんだ?」と声をかけてきた。私はおまえこそどうなんだよなどと精一杯頑張ってつとめて変わらぬ自分を演じてみた。
天井からぶら下がる無数のシャンデリアに間接照明の陰影が複雑に絡み合って眩しいぐらいだった。その光の渦にまかれて私は自分が今どこにいるのかだんだんわからなくなってきていた。

高校時代の記憶はこれまで生きてきた記憶の中で大切に封印してきたものだった。同窓会は封印を解き、記憶の中の友人たちを一気に現実の38歳へ引き戻し、大切に封印してきた記憶はきれいに上書きされてしまった。


会場の眩しさと比べて私には参加した同級生のほとんどが昔ほど輝いていないように思えた。リーマンショック直後だったからかもしれないし、年相応に老けた容姿がそうさせたのかもしれない。本当に輝いている友人は仕事が忙しくて参加できないだけなのかもしれない。若い頃と比較するのは間違っているのかもしれない。もしかしたら同窓会という夢のような言葉に期待をかけ過ぎたのかもしれない。

わかっている、わかっているけど、大切な何かが一瞬にして失われてしまったのだ。私は予定していた二次会を急な用事ができたと断り、地下駐車場に止めてあった車に乗り込んで深いため息をついた。

それは私にとって、とてつもなく辛いことだったのだ。

 


2010.7.29 ホームページ開設10年を迎えて(その1)

ほんとうに信じられないことであるが、8月で本ホームページも10年を迎える。10年ひと昔というが、思い出してみると、HPを取り巻く環境だけでも大変な変化があった。

まず、ホームページの位置づけである。
個人のホームページはブログに移行し、新規開設されている個人用ホームページはすっかり少なくなっている。

ホームページを製作するにはいろいろ面倒がある。少なくともFTP等のツール、htmlのタグについて最小限の知識は必要になる。
ホームページは世界で初めて個人の考え方や意見をお金をかけずに発表できる最初のツールであった。C to Cが叫ばれ、産業革命ともいえるビジネスモデルの変化が到来した。

2002年ごろから「掲示板」ブームがおき、どこのサイトにも設置されるようになり、その書き込みの内容が社会的に大きな事件を引き起こしたりした。

掲示板はhtmlやftp等の手間をかけず、簡単に意見を発表できる場になった。しかも匿名で。当然、猫も杓子も書き込み、当然のごとくその中から問題や事件が発生した。法整備が技術革新に追い付かなかった典型的な例である。

その後、ブログが登場し、掲示板に書き込む程度の労力で自分の主張をできる場が提供された。
掲示板は衰退し、多数はブログに移行した。仮にブログ開設者に「掲示板に書き込みしたことがあるか」を質問すると2007年ごろまでにブログ開設をした人に限って言えばほとんどイエスになるのではないかと思う。

ブログはいまだ主流であるが、ブログが残した最大の功績は掲示板への書き込みからブログ開設への動機づけにあると思う。
ブログは日記形式の書き込みを基本としているため、情報は混とんとしており目的としている情報へのアクセスが悪いので私はあまり好きではない。
実際、ネット検索でブログの記事にヒットするとがっかりするという閲覧側のデータもある。

さらに、この「独り言」の位置づけである。開設した時代には少数だったが、その数は次第にふえて、いまではすでにツイッターでだれもが呟いている。一個人が意見を述べるにはこれ以上のものはないと言えるだろう。

次に、ハード面の変化である。2000年からはME、XP、VISTA、7とOSが更新され、CPUの処理能力、HDの容量、モニターのサイズは格段に大きくなった。これにより、昔からのホームページを今閲覧すると写真が小さく、解像度も低いという問題が発生している。

たとえば、このライブスチームに挑戦というHPはトップページは罫線を利用したレイアウトをベースにしているため、モニターのサイズに関係なく、いつでもモニター中央に適正に配置される。

しかし、それ以外のページはブラウザの設定やモニターの設定に左右されるため、左右のマージンが適正にとれず、とても見にくくなっているはずである。特に、横長のモニターを使用している人にとっては苦痛だろう。
今回はこの独り言の更新に合わせて、独り言のページはすべて罫線を使ったレイアウトへ変更した。幾分見やすくなっているのではないかと思う。

ライブスチームに挑戦のページもこのレイアウトに変更する必要があるが、ページ数が多いので一体すべてを終えるのにどのくらい時間がかかるか想像がつかない。

OSの環境変化はライブスチームに挑戦の連載を難しくしている。私が使用しているCADは開発した会社がすでに存在せず、新たなインストールをすることができない。そのため、CAD作業のみ別の古いパソコン上で行っている。新しいCADに乗り換えればよいだけであるが、能力を習得している時間が取れないのでやむを得ない。更新するネタがあっても、それをアップロードする時間が以前よりも必要になっている。

10年でこれほど環境が変わるとは思わなかったが、今後新しい技術革新が発生するたびにそれに対応するシステムと自分の柔軟な対応力を維持していかなければならない。マイクロソフトとアップルの関係が逆転する可能性は十分にある。ソフトウエアはクラウドへ移管していくだろう。

どこまで維持できるかわからないが、自分の能力が許す限り続けていくつもりだ。


2010.8.8 ホームページ開設10周年を迎えて(その2)

開設当初、8620の製作記が10年を超えるとは考えてもいなかった。2000年当時、「機関車製作に15年かかりました」などという話を聞くと、自分には関係のない話だと思っていた。なぜなら、私は製作期間を短くするために半加工キットを選択したからである。

実際、これほど生活環境に変化がなければボイラーが届いた2006年中には完成していたはずである。エアーテストもうまくいっていたこともあり、ブレーキ回りのやり直しを考えても十分完成させることができた。

コッぺルに関してはもっと可能性があり、海外へボイラーを外注すれば8620よりももっと早かっただろう。これは今でも同様であるが、図面に英語で説明書きを入れる等の手続き的なものが面倒なだけだ。

なぜ、10年経ってしまったのかというと、製作者本人の時間の優先順位に変化があったことが本当の理由だろう。2004年以降は本当に1分、1秒の時間が惜しく、仕事・勉強に集中していたからである。暇になったら工作を・・・・と気が付いたら2007年になっており、しかもその年に長男の誕生という大きなイベントがあった。

一難去ってまた一難。その後は独立開業となり、それが落ち着いたところに次男の誕生である。いつまでたっても時間は作れない。

「40歳になるまでに、自分の確固とした地位を確立し以後迷わない」という目標を立てたのは33歳ごろだった。そのためには勉強が必要であり、34歳から具体的な目標を設定してチャレンジを始めた。
ありがたいことに、今年7月に40歳になり、33歳当初に目標に据えたステージには何とか到達できている。迷いはないかと言われれば・・・・・ないことはないが!

以前、この独り言で暇を作るには相当なリスクを背負う必要があると書いた。
いまだに異論はないが、当時の私はまだ「リスクを背負うことが可能であった」ということだった。たとえば、今暇を作るのは簡単なことで、事業を辞めて、家族を捨てればよいのである。ライブなどいくらでもやれるだろう。独身者であれば何でもリスクは背負えるし、夫婦ふたりでも理解ある嫁なら可能だろう。

しかし、私はそんなことは望んでいないし、順位をつけると趣味はもはやかなり下位順に落ち着くのである。

30代、40代は仕事・子育てに奮闘していることが当たり前であり、それがその後の人生の大きな糧になる時期である。昼間っから趣味三昧ではその後の人生も知れたものになるだろう。

むしろ、趣味をやる時間がないほど周りがそれを与えてくれる・・・たとえば仕事や知人との付き合いや子供と遊べる・・・ことに感謝しなくてはならない。

ライブスチーム8620は一体いつ完成するのか。完成度でいけばボイラーも搭載され、エアーテストも完了している。すでに80%は完成していると言ってよいだろう。しかし、100%の完成までは相当な時間がかかると断言する。

2020年まではかからないと思うが・・・・あきらめるつもりは全くないし、このHPをみてライブを始めた人もいるので、責任を考えてもキチンと完成させなければならない。

いつになるか見当もつかないが、「工作つづけます」という宣言をしたということで・・・。


2010.8.30  知覧

鹿児島県南九州市には知覧特攻平和会館がある。東京の靖国神社や広島の平和祈念公園と比べても知名度は低い。

私は2004年のお正月に訪問した。
毎年、お盆になると政治家の靖国参拝の問題がニュースになるが、なぜ国会議員や大臣は知覧へ行かないのだろうと不思議に思う。知覧へ大臣が訪問しても靖国ほど問題にならない。

知覧には意識改革をできるだけの何かがある。国の政治を直接操作できる国会議員であればなおさらである。

少なくとも、私は知覧特攻平和会館を訪問する前と後では生き方が変わった。また訪問した人にそう発言する人も多い。右だ左だ検閲があったの何だの・・・という人は間違いなく知覧特攻平和会館を訪問した人ではない。どうこう言う前に訪問することだ。

百聞は一見に如かずである。

私の友達の一人に20代前半の若い青年がいるが、彼はバイクで九州を旅する途中に偶然特攻平和会館を訪問し、その後の生き方が変わったと言う。

小泉純一郎は総理在任中に訪問し、予定時間を大幅に上回って滞在し帰って行ったという。

なぜならそこで見て感じるものはとてつもなくスケールが大きいものであるからだ。

詳細を書いてもしょうがないので書かないが、とにかく南九州にいくなら知覧しかない。海外旅行へいくのものよいが、最後は自国のことをどれだけ知っているかが海外でも必要になるのである。若いうちに知覧へ行き、何かを感じてほしい。修学旅行で行くには最高の場所だ。

私が知覧で感じたことはこれしかない。

 

 

 

 

 

 

 

本当に申し訳ございません。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとかします。


2010.10.30  サーバー移転

それは一通のメールから始まった。

本メールは20101018日時点で

 ・インフォシーク iswebライト
 ・インフォシーク iswebライト 広告非表示オプション

をご利用の皆さまへ大切なお知らせとしてお送りしています。

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 平素は、Infoseek をご利用いただきまして誠にありがとうございます。  インフォシークでは、2001年より提供している

・インフォシーク iswebライト
・インフォシーク iswebライト 広告非表示オプション

を、10月末日をもって終了させていただきます。
 
サービス終了日が近づいていることをお知らせするとともに、長年ご愛顧いただいたみなさまに、ご迷惑をおかけすることを深くお詫びします。

 ※サービス終了に関するお知らせ

http://plaza.rakuten.co.jp/usersupport/diary/201008250000/

 今後も「インフォシーク iswebベーシック」(有料)にて、ホームページを継続していただける場合は、専用の移行ツールをご利用くださいませ。

 ※ ご注意ください ※

 ■移行手続きが可能なのは1031()までです。
 
■ホームページデータの移行について

「インフォシーク iswebベーシック」(有料)にて、ホームページを継続される場合は、専用の移行ツールをご利用ください。

 ※移行手続きに関するヘルプを参考にしてください

http://portal.faq.rakuten.co.jp/app/answers/detail/a_id/13880

 ※サービス終了、データ移行についてのお問い合わせは下記URLページより受け付けております。

 お問い合わせの際には、ご自身のiswebID(又はURL)のご記入を必ず お願い申し上げます。

 

これって・・・18日告知で31日終了。まるで以前勤務していた会社の人事異動とおんなじじゃないか!と驚いたが、これまでinfoseekは無料で50MBのサーバーを貸してくれていた。

今では驚くことではないが、2001年前後では驚異的な容量だった。このようなサービスは他になかったし、infoseekはもともと検索エンジンの会社だったと思う。

10月はホームページ更新を予定していたので一気にやってしまおうと考えたが、その直後に大量の仕事が舞い込み、またもや連日の徹夜になってしまった。

仕事がひと段落してすぐに無料サーバーを捜したが、アダルト系のHPを扱っているサーバーは容量もかなりあり、広告も掲示されない。自分はライブスチームに挑戦がアダルトサイトの「フェチ」あたりにカテゴライズされるのは名誉なことだと思うので(笑)これでもよいかな・・・と思っていた。

実際、ライブスチームに挑戦はアダルト向けである。

ま、しかし社会人として名前を掲載している以上は体裁を考える必要があったので無難にヤフー関連にした。

同時に、すべてのページを一つにまとめてリンクを組みなおして移転した。管理する側はとても楽である。ページビューについてはライブスチームに挑戦の連載はすでに変更が終わっており、コッぺルプロジェクトも少しずつ変更していこうと思う。

10年お世話になったTOKAIは基本20MBで、5MBごとに500円とられるのでばかばかしくなったのである。

しかし、現在までですでホスト側42MBなので余裕は8MBしかない。動画のリンクを組みなおす必要がありそうだ。再度の引っ越しが考えられるが、工作がそれほど進展するとは思えないので・・・・・大丈夫かな!


2010.11.24  敬語

私の友達の一人は自分の嫁のことを「社長」と呼んでいる。

我々はそれに対応して彼のことを「御社」と呼んでいる。


2011. 1.23 英語

どうせ時間がないと思っているが、それでもわずかな空き時間を利用して今年は英語を勉強しようと思っている。

今後のビジネスマンは英語・・・・うんぬんという理由からではない。少なくとも、私の仕事は今後も英語はまず間違いなく使うことがないし、使ったとしても中学生レベルの英語で十分である。法律系の仕事は英語が必要になることはごく一部を除いてめったにないのである。

それでも志をもって勉強をしようと考えたのは、基本的に英語が好きだからである。

もうひとつは、今後はボイラーを英国に外注することに決めたので、そのためのメールのやり取りやそのほかの資料を読みあさるために必要だからである。目的としてはこちらが主である。

ライブスチームを自作するにあたり、一つ結論づけたことは、「最初にボイラーから作るべき」ということである。ボイラーがなければ完成は無理なので、私のコッぺルのようにただの大きな置物を不必要に金をかけて作るだけになってしまう。時間のロスも大きい。

英国に外注というスキームを身につけることライブ自作の最大の問題点を最初に解決することができる。発注から納品まで時間がかかるので、その間木型製作やそのほかの基本的作業を進めることもできる。

英語版ビジネスメールの作法も一応わかったので、後は勉強するだけである。

ライブスチームは本当に奥が深いと思う。設計から英語まで勉強をしなくてはならないのだから。


2011. 5. 1 夢の超特急

まずは、この度の東日本大震災におきまして被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

先日、東北新幹線が全線開通した。震災発生から50日で復旧である。映像で見た東北新幹線の被災状況はかなりひどいものだったが、すでに一部の徐行区間を除いて正常運転している。
阪神大震災の時にも81日で復旧したが少なからず土木建築の業界に首を突っ込んでいるものとしては信じられない早さである。

それも新幹線である。水平・垂直・強度が極めてシビアであり、いい加減な施工は許されない。

復旧工事もさるこながら、これだけ地震大国でありながら新幹線は自然災害も含めて事故らしい事故はまったくない。曲線・トンネルが多く、しかも270キロ近いスピードで毎日相当な本数が走っているのである。
中越地震の際には200系新幹線が脱線した映像をみたが、それでも人身事故は起きなかった。考えてみれば驚くべきことである。

私のDNAには新幹線は絶対に安全で事故など起きないと刻みこまれているが、実際開業からいままで事故は起きていない。

幼いころから新幹線に乗り続けてきた私にとって「夢の超特急」はいつの時代もスーパースターだった。子供が生まれて新幹線を見に行く機会も増えたが、子供を山車にして実際は自分が見に行きたかったのである。
東海道本線東静岡駅は私の家の最寄り駅だが、ここは在来線と新幹線が並走して走る上高架線ではない。新幹線は台車まで完璧に見ることができる。限界速度で走るN700系は機能美にあふれ本当に美しい。

そして新幹線を見るとき、私はいつも祖母を思う。これに乗れば数時間で広島へ行くことができるのだと。
東北地方に知人や親類を持つ人も同じ思いに違いない。新幹線は日本人にはなくてはならないものであり、遠く離れた地を思う心のよりどころでもある。新幹線がいつもと同じように当たり前に走ることは平穏な日本の象徴である。

国鉄が残してくれた最大最高の功績、安心安全確実な新幹線は今後もそうあってほしい。そして自分の子供たちが大きくなっても変わらず「夢の超特急」であってほしいと願っている。


2011. 8.10 経済優先か人命優先か

今回は書きたいことを書こうと思う。3月11日に発生した地震と津波、その後の原発事故により、日本人はみな自分に何ができるかを考え行動している。私には何ができるのか・・・と考えた結果、まず放射線の勉強をした。そしてテレビ、新聞、雑誌、ネット、PODCASTの情報をすべて検分し、JOC東海村の事故の内容とその後、チェルノブイリの事故の状況とその後を調べてみた。それらの報道機関と資本関係まで踏み込んで検分したつもりだ。
その結果を発表してボランティアとしたい。

結論からいえば、日本はかなり危険な状況にあるということだ。特に福島県の子供たちの5年後、10年後が心配でならない。もちろん静岡も安全ではない。福島県の郡山や千葉県流山、柏市はかなりの放射性物質が降り注いでいる。チェルノブイリの事故の子供たちへの影響は深刻で、5年後から10年後に甲状腺がんが多発している。発症まで時間がかかることが特徴である。
数年後にがんが発症し、裁判を起こしたとしても「相当因果関係が認められない」という理由で負けることはすでにわかりきっていることである。自分や家族は自らが目いっぱい勉強し、行動することでしか守れないのである。

政府が発表している放射線値はすべてガンマ線のみの数値である。放射線には少なくともアルファ線、ベータ線、ガンマ線、エックス線、中性子線等複数の線種があり、それらのごく一部の数値を発表しているだけである。3万円やら5万円程度で購入できる線量計では通常ガンマ線のみ、ちょっと上級種でもベータ線が測定できるだけである。これらの線量計では政府発表との差はそれほどでないだろう。
特に、アルファ線は放射能力が弱いため、いったん体内に取り込まれると放射能力の強いベータ線やガンマ線と異なり、体を貫通することができない。そのため細胞に深刻な影響を与える上、ホールボディカウンターなどの放射線測定機で測ることができないのである。これほど怖い物質はない。

1ミリシーベルトという単位は人間の体の細胞核に平均一本の放射線が通り抜けることを基準にした単位である。つまり、数が多ければ多いほど細胞核が破壊されるということである。「20ミリシーベルト以下は安全です」などという安全基準を設定するためのものではない。たとえば「30uの土地に地雷が10個までなら安全です」と言っているようなものだ。「安全基準を設定しろ」と言っている人は単位の基準を理解していないということが分かる。数値は少しでも小さいに越したことはないのである。

それに加えて、原発関連のニュースが極端に減っていることが気になっている。西日本では原発事故などどこ吹く風だろう。原発事故直後は放射線量を表す単位まマイクロシーベルトがほとんどだったにもかかわらず、最近はミリシーベルトで単位が切りあげられている。10ミリシーベルトは10000マイクロシーベルトである。ごまかしにもほどがある。私自身、すべての線種を計測できる線量計(70万ぐらいする)を購入しようと考えて予算的にあきらめた。

震災後に発生した原発事故の対応を見る限り、この国は国民の命よりも経済を優先してあらゆる対応をしているとしか思えない。原発を業としている、あるいは恩恵を受けている企業の収益を守る対応が優先されている。政治家は自分が政治家であり続けるためにはそれらの組織票を無視するわけにはいかない。そしてその政治家は自分たちが選挙で選んだ政治家である。

問題を提起すべき側のテレビ等のマスコミは電気事業連合会を通して毎年800億円近くの広告料を得ている。大切なスポンサー様を不愉快にさせる報道などできるわけがない。

私も経営にかかわる人間としてその気持ちがわからないわけでもないが、自社の収益が人命より優先されるということがあってはならないと思っている。金に魂を売るほど落ちぶれているとは思っていない。しかし原発関連企業にそのような考え方をしている人は一人もいないようである。

そもそも、福島第一原発の三号機は水素爆発ではない。一号機、二号機の水素爆発との違いは映像で確認できるので証拠がある。三号機は使用済み核燃料プールの水が抜け落ち、再臨界したために爆発したものである。ウラン237やウラン239などを含むのウラン核燃料がたっぷり降り注いでいる。実際燃料棒を構成するパーツの破片が発見されている。ましてウラン237、239はアルファ線しか発しないので線量計は反応しないのである。

5年後、10年後にこの事故を振り返ったとき、ここで書いたコラムが外れることを心から祈っている。


2011.9.30 ライブスチーマーの高齢化問題

2005年〜2010年までのライブ休止期間を経て、最近あちこちの運転会に再び顔を出しているが、掲題の「ライブスチーマーの高齢化問題」を感じざるを得ない。
ライブと出会った1999年は私はまだ29歳だった。周りのライブスチーマーは50代が多く、みなエネルギッシュで熱く、あこがれの存在だった。「10年かけて完成させた・・・」などと長期にわたる工作を乗り越えて楽しそうに運転していたものだ。
動輪舎がファインスケール国鉄型5インチを世に発表し衝撃を与え、今ではライブを始めるには最高の環境が整っている。

それから10年を経て運転会で再開する顔はさすがに年を取っている。(もちろん自分もだが・・・)数年ぶりの運転会参加であるが故のギャップが冷静にそう感じさせるのである。10年前と比べてライブスチーマー人口はかなり増えたと思うが、私は今がピークでこれからは減少傾向になると考えている。実はそのことは2005年ごろから感じていたことでもある。

WEB上のライブ関連の情報は莫大に増えたが、最近は2004年ごろまでの「ライブを始めたいがどうしたらよいのでしょうか」というメールが極端に減っている。しかもそれらのメールを頂く人は大抵は私よりも年上である。

あと10年経つと私は50代になる。ライブスチーマーは70代が多くなるだろう。その世代の主流である5インチ国鉄型ライブは100キロを余裕で超える重量があり、運搬の問題に加えて長時間の運転も苦痛になるだろう。さて、いつまで継続できるか・・・である。

ライブの運転会でごくまれに見かける私より下の世代は、基本的に蒸気機関車ではなく電気機関車が主流である。蒸気機関車であればOS製が多い。どちらも国鉄型(蒸気機関車であれ電気機関車であれ)ではない。
これは当然のことで、私の世代ですでに現役蒸気機関車を見たことがない。私でさえ特異な存在なので、その下の世代が見ているわけがない。当然電気機関車の世代であり、蒸気機関車は海外の蒸気機関車と同じ位置づけで存在している。そもそも私より下の世代は国鉄を知らない。

そこで、私はとても心配していることがある。仮に20年後、現在展開している庭園鉄道は誰が管理し、その運営はどうなっていくのかである。

「ライブスチームのすそ野を広げる」という考え方は特定の世代に広げるという考えでは先が思いやられる。世代を超えて上下に広げていかなくてはならない。

正直、現存しているライブスチームメーカーが後30年継続できるとは思わない。メーカーが少なくなると出回る製品が少なくなるので、情報は一段と減り、新たなライブスチーマーが生まれにくくなる。

そうなると、ライブは結局自作でしか作れなくなるだろう。走らせる人がいなくなれば庭園鉄道も意味がなくなり、本当の意味で「子供の遊具」になるだろう。蒸気機関車はライブの世界からも引退することになる。ライブスチームよりも電気機関車のほうが製作は簡単なので、新幹線やEF500やらのJR電機が幅を利かせているかもしれない。

私はまだキットも含めて自作の機関車を何一つ完成させていない。
ようやく自分の目標を達成したと思ったら走らせるところがないという問題が発生しそうである。

長期的に継続できるレイアウトがあるとすれば、自家用レイアウトである。少なくとも自分が興味を失うまでは運転できそうだ。

ライブスチーム界にはみんなで楽しまなければ面白くないと主張する人が圧倒的である。

しかし少なくとも私に関して言えば無人島で一人で工作したり、運転したりしても十分楽しめてしまう人間だ。趣味とはもともと孤独で、極めて自己中心的なものなのだ。


2011.9.30 地元の誇り

静岡市は模型の町である。静岡市民でそのことを知っているのは全体のわずか数パーセントだろう。しかし、世界中に存在するプラモデラーはそのことを知っている。

静岡市には世界が誇るタミヤ模型、青島文化教材、バンダイ、フジミ模型の本社がある。隣町の焼津市まで含めればハセガワ模型もある。世界を代表する模型メーカーがこれだけ狭いエリアにあることが信じられない。倒産した会社まで含めれば今井科学も静岡市である。完成品も入れて良いならミニカーメーカーのエブロも静岡市である。プラに限らずで論じるなら木材模型メーカーウッディージョーも静岡市である。

プラモデルや模型に興味が無い人には関係が無いかもしれない。しかし、地元が誇るべき産業を知らないでどうするのか?それは興味を超えて知らなければならないことだと思う。

最近、静岡市もそのことに気がつき始めたのか、小さなアクションがあった。それは以下のリンクを見ていただければありがたい。

http://hobbysquare.jp/index.html  静岡ホビースクエア

静岡駅南口から歩いてすぐである。雨にぬれることなく会場に入ることができる。静岡市に出張の際にはぜひお寄りいただきたい。すべてのメーカーの代表作が展示してある。

特筆すべきことは、だれでも自由に、しかも無料で使える工作室があることだ。ショップで購入したプラモデルを作ってもよし、ミニ四駆を走らせてもよし。さらにはウッディージョーが提供?している木材加工の端材を使って工作しても良いのである。

必要なものはすべてそろえてある。

先日子供を連れて行ってみたところ、展示模型以上に工作室が楽しいようである。木工ボンドで手を汚しながら何かを作っている。子供は基本的に何かを作ることが好きなのである。

私はこの静岡ホビースクエアが大好きだ。できる限りたくさんの人に知ってもらいたいと思っている。


2011.11.13  物が多すぎて・・・

私ははっきりいってコレクターである。CD、本、プラモデル、ミニカー、鉄道模型、車、バイク、楽器・・・・。車はポンコツばかり4台(一番新しい車で平成9年)。バイクは2台、ギターは7台。CDと本は数える気にならない。
これらは一気に購入したものではなく、子供のころから買い集めてきたものをしっかりと残しているのでこうなってしまったのである。CD、本・プラモデル・鉄道模型・ギターはまさしく子供のころから蓄積である。

なかなか物が捨てられない性格なのだ。
しかし、これだけ物が多いといい加減うんざりする。置き場所がない上、どこにあるのかを完璧に把握することが困難である。

たとえばCD。先日ストレイキャッツのCDを聞きたいと思いついたが、CDを探し出すのに30分かかった。ジャズのCDでは購入したことを忘れて同じものを複数買ったことがある。

それでもアパート暮らしの時はまだよかった。「やむをえない」という理由で処分しなければならないことがあったからだ。
しかし、一戸建てになってからはもう収拾がつかない。実家に保管していたものも建て替えを機に我が家へ移転させざるを得ず、これも物が増えた理由である。真剣に置き場所に困っているのだ。

処分しようと思うことはある。しかし、手に取るとそのものを得た時の感動がよみがえり、結局捨てられない。

先日、私の古くの知人がこのような話をしていた。

「なんで地震が怖いのか?を考えていたら一応結論が出たよ。
たとえば飛行機に乗っているとすごく揺れるよね?直下型震度7ぐらい平気で起こるよね?下手すれば落ちて死ぬし。車だって揺れるよね?これも下手すれば死ぬし、地震よりも飛行機よりも確率は高いわけだ。
つまり人間は体が揺れることが怖いわけではないんだよ。じゃあ何が怖いのかって?それは地震で大切な
「もの」が壊れることが怖いということなんだよ。」

確かに。とても納得した。私は家族の写真データのみ銀行の貸金庫に保管している。これは・・・まあ安全だろう。仮にそれ以外のものが津波にのまれてなくなってしまったとする。

たぶん、私はそれほど落ち込まないのでは・・・という自信がある。

私は自分が集めたものは勝手な思い込みで「相当な骨董価値がある」としている。
ストラディバリウス(歴史的なバイオリン)の所有者はお金を出してそれ購入するが、購入者は皆「次の世代に伝えるべきもので私が一時的に預かっているもの」と位置づけている。

つまり、歴史遺産である以上、破損したり、紛失してしまったりすることが「自分の責任において発生した」ということがあってはならないのである。

私の集めているものはストラディバリウスとはほど遠い「他人から見たらゴミそのもの」だが、本人は歴史的遺産として「次の世代へ・・・」などと思いこんでいる。だから「自己の責任において破損・紛失した」のでなければ問題はないのである(笑)


2011.12.21.  税収不足の要因では?

税収が不足している。バブル崩壊後税収は下がる一方で再び消費税の税率引き上げは避けられないだろう。一方、多くの消費税増税反対者が主張する、税率を上げると消費が落ちて、結果的に税収は下がる」という主張も間違いないだろう。消費税を3%から5%へ変更した後の税収を見れば明らかである。

私は消費税率はもっと高くて良いと考えているが、より不景気を加速することは間違いがないだろう。

私は経済学者ではないが、一人の納税者として税収不足の大きな要因を感じている。
それは他国と違い日本には「高額納税者を尊敬する土壌がない」ということである。
長者番付は本来「日本国の為にこれだけがんばってくれた人たち」という意味であるはずが、まるで極悪人一覧のような扱いになり、現在では公表されていない。

納税は日本国憲法の国民の三大義務、「労働の義務」「納税の義務」「教育を受けさせる義務」の一つである。つまり、この三大義務を実行していない人は日本国民としての権利がないのである。

しかし、この三大義務を果たしていない人がいかに多いか!IT革命以降の過剰労働者市場は下落の一途で、今後も改善されることはないだろう。IT革命は人がいらなくなった革命なのである。

「労働の義務」が不可能になると「納税の義務」が果たせなくなり、最悪の「教育を受けさせる義務」が果たせなくなる。今の日本では納税を果たすことは難しくなっているのである。

そこで私は提案をしたい。お金がかからず、実行が可能である税収増のスキームである(笑)。

納税者を尊敬する土壌を作るよう、国税庁および税務署職員を徹底研修するのである。公共広告機構を通じてCMを出すのもよいかもしれない。さらに法の下の平等にひっかからない程度の納税者特典を設けるのである。納税が当たり前であった右上がりの経済はもう不可能である。当たり前でないことをやっている人に対して特典を設けるのはあたりまえだ。

たとえば所得税の納税累計一覧を提出し、累計納税額に応じて「将来介護サービスをより充実して受けることができる」ようにするとか、「遺族年金が割り増しして受けられる」等である。
ま、この二つは社会保障と税の一体化ができなければ難しいことであるが。納税者番号や、国民総番号制はメリットのほうが大きいのである。

日本には納税者を優遇する制度がないばかりか、絞りあげて取れるところから取るということを国税庁は基本方針としている。そんなやり方では新しい企業家は海外へ出ていくだろう。会社を起業して上場できるような人は世界を相手にしているので日本を出ることは他県で仕事をする程度のことである。

私は個人事業主だが、金より時間のほうが価値があると考えている。最低限に生活できるレベルの収入があれば後は時間を取って趣味や遊びをしたいと考えている。だから必要以上に仕事はしないし、稼がない。そんな時間があれば旋盤を回したいのである。

しかし、余計に納税することで将来何かしらのメリットが受けられるとなれば話は別である。必要以上に稼ぐという選択肢が生まれるのである。そして税収は増えるわけだ。

税務調査が「献血」ぐらい社会貢献したと感じられるようにすれば良くなるのではないか。税務調査後にジュースがもらえて「お疲れさまでした」とか。

僕だったらこんな国税庁CMをつくるかな。

 

はたらく?」と聞くと

 

 ・・・・ 「はたらく」という

 

 

「納税する?」と聞くと

 

 ・・・ 「納税する」という

 

 

「教育を受けさせる?」と聞くと

 

 ・・・ 「教育を受けさせる」という

 

 

 

 

こだまでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いえ、義務ですから!」

 

ここで音楽が流れる:  魔法の言葉で楽し〜♪ 納付がぁ〜 ♪ぽぽぽぽーん ♪

 

 

AC〜♪ 公共広告機構です。by国税庁

 

 

 

 

あほくさ。


2012. 2.16 上田毅八郎の箱絵アート集

プラモデルを作ったことがある人なら、名前は知らなくとも上田毅八郎氏の絵を見たことがない人はまずいないだろう。
昨年2月に初版が発売され、ちょうど一年経つがこの本・・・というか「アート集」は圧倒的な説得力にあふれている。この作品を見たときに感じたことだが「大空の侍/坂井三郎」と同等の説得力を持っている。

上田毅八郎氏は大正9年生まれで現在90歳。現在も絵を描き続けている。20歳で兵役につき、その後3年8カ月間に6回、船を撃沈され利き腕の右腕を負傷し、戦後は左手で絵を描き続けて現在に至る。

この作品集は箱絵をただ単に並べただけの美術書ではない。それぞれの絵には上田氏本人の解説、さらに数ページごとに上田氏のコラムがちりばめられている。それぞれが作品を引き立てており、まさしく「アート集」にふさわしい内容となっている。ただの「画集」ではない。

ほぼ同時期に発売された小松崎茂氏のボックスアート集も購入したが、読み物としての魅力がある分、アート集としては上田氏に軍配が上がるだろう。なんといっても上田毅八郎氏は文章能力にたけている。コラムが素晴らしいのだ。実経験を元に解説しているので何度読んでも圧倒される。

すこしでもその文章を公開したいところだが、上田毅八郎氏に限っては一字一句省略しても伝わらなくなってしまうので、ぜひアート集を購入して確認していただきたい。

 

草思社 :上田毅八郎の箱絵アート集 〜 戦艦大和から零戦まで


2012.4.4 中国人ビジネスマン

私のような国内特化型のような仕事をしていると外国人ビジネスマンと一緒に仕事をするチャンスはほとんどない。前職も、その前の前職もやはり国内特化型ビジネスだったので、同じく外国人ビジネスマンと話をする機会はほとんどなかった。

私は基本的に出不精だが、世界中の人とコミュニケーションを取りたいと思っている。だから学生時代は英語をたっぷり勉強した。もはや使い物にならないぐらい忘れてしまっているが!

しかし、昨年末中国人ビジネスマンと初めて仕事をする機会があった。仕事というよりは相談に乗ったという程度だったのだが、「不動産購入に関わる手続き・税について」がテーマだった。

不動産を取引すること自体、日本人でもよく理解できないのが現状である。不動産購入時の決済などは買主も売主も大抵実印と印鑑証明書をもって銀行へ行き、たくさんの書類に署名捺印してわけもわからないうちに完了しているという印象だ。

彼は移転登記をした司法書士に購入した不動産についていろいろ問い合わせをしたのだが、納得できる解答をえられなかったらしく私を紹介されたのであった。

初対面の印象は、「ハンサム」だった。背は高く180センチ近くあり、流暢に日本語をしゃべる。英語はほとんどしゃべらないらしいが、日本に配属される前に日本語研修はたっぷり受けてきたということだった。

彼は鞄から購入した土地の登記簿を取りだし、その内容について私に聞いてきた。まず驚いたのはかなり「謄本を読めている」ということだった。「謄本を読む」というのは通称で、移転登記や設定登記の流れを良く理解し、そこからキチンと情報を得ているという意味である。銀行マンでもキチンと「登記簿を読める」人はいないが、彼は非常にその点で非常に優れていた。

また、彼から中国には不動産を維持するための税金がないということを聞いた。日本では購入時に不動産取得税、維持には固定資産税がかかる。私は取得税は県税で固定資産税は市町村税なので、不動産に係る税金は国・県・市町村でそれぞれ別個で課税されるのだと説明した。

中国には所有権の概念がないということは知っていたが、事実上使用権の売買を行っているのでそれに係る税金がないというのは意外だった。

まあ、そんな話をしながら「たまいさん、お昼でも食べに行きましょう!」と誘われて会社近くのとんかつ屋へ行った。座敷に通されたが、彼は自分の脱いだ靴をきちんと揃え、上座を理解していた。

とんかつをつつきながらいろいろな話をしたがとにかく楽しかった。ご両親から大切に育てられた人間であることは明白だった。「日本の若い人たちはあまり実家に帰ったり、連絡をまめにしたりということは少ないようですね」と言っていた。「家族の結びつきが少ない気がします」と。

「昔の日本人はそうでもなかったんだけどね・・・」というような切り替えししかできなかったが、その後彼は電話をくれるようになった。日本語で会話ができるので気兼ねがないのである。

私は近年日本人がなぜ輝くことができないのか理解できた気がした。彼は日本に来て二年になるが、日本の文化を理解し、相手を尊重していた。同じことを私は海外でできるだろうか。看護師の免許を取るために日本に来てチャレンジしている外国人は試験を日本語で受けている。

日本の大学の講義は日本語で行われている。少なくとも、これを英語で行うようにならなければ留学生は集まらず、また日本人学生が海外へ出ていくことは不可能だろう。

学生時代、ベトナムから来ていた留学生がいたが彼もすばらしかった。「たまちゃん、次の民法なんだけどさ、悪いけどバイトあるから出席簿だしといてくれないかな?」などと会話ができるやつだった。

私は彼を紹介してくれた女性司法書士に「素晴らしい人を紹介してくれてありがとう」と言ったら、「彼の前任の担当者もすごかったんですよ。当然、日本で引き抜かれて今別の会社にいますけど・・・」

なるほどね。

消費税・原発再稼働・災害対策・・・問題は山積みかもしれない。しかし、日本の歴代首相で「教育」を最優先課題として取り上げてきた政治家は安倍晋三たった一人である。国家100年の計は教育しかないと実際に外国人ビジネスマンとの出会いで良く理解できた。

職がない?そんなことは断じてない。ないのは能力である。


 

2012.7.5  終戦の時はどちらにいらっしゃったのですか?

以前、私は仕事で戸籍や登記簿を見る機会が多いと書いた。

戸籍は当然として、登記簿を見るだけでも、所有者の年齢は推測できる。
私は明治生まれ、大正生まれ、昭和一桁生まれと推測できる人々に会うときには必ずある質問をする。「終戦の時はどちらにいらっしゃったのですか?」という質問だ。

大抵の人は、それまで私と初対面であるにもかかわらずきちんと話してくれる。経験上「必ず」である。その回答で得られるものは生きた経験に基づくものであり、書籍や写真から判断できるものをはるかに超えている。

ある女性は
「私は陸軍の通信基地で働いていました。今の××自動車学校のところに通信基地があったのよ。」

またある女性は
「いまじゃぁ一等地だってみんな言うけど、あの角の土地は空襲の被害にあった遺体を集めておいてあったところですよ。」と答えてくれたりした。

少し前になるが、ある若い銀行員から、彼の祖父の土地の仕事を紹介された。「うちのじいちゃんは大正生まれで耳が遠いので説明は大変かもしれませんが、よろしくおねがいします」ということだった。私は事前に大正生まれと聞いたので今回はどんな話をしてくれるのだろうと楽しみにしていた。

初めてお会いした時に感じたことは、背がとても高いということだった。私よりもはるかに高く、すらりとしており、およそ年齢を感じさせない方だった。
美容院を何店も経営しており、すでに若手(仕事のできる社員へお店を任せている)に世代交代をさせている最中であった。一通り仕事の手順を説明した後、お茶をすすってからいつもの質問をしてみた。

「Sさんは終戦の時にどちらいいらっしゃったのですか?」

Sさんは答えた
「終戦の時には・・・鹿児島県のイズミというところにいました。ええ、そうです出水と書いてイズミと読むところです。私は航空機の整備兵でした。たまいさんはご存じかどうかわかりませんが、出水は海軍の特攻隊の基地でした。」

わたしは知っていると答えた。そして零戦のことは研究しているのである程度知っていると答えた。

「零戦もやりましたが、中心は銀河でした。あれはとても良い飛行機でした。しかしあの基地は特攻隊の基地でしたから出撃した飛行機はもうもどりませんでした。」

わたしは知覧へは行ったことがあるが出水のことは知らないので特攻隊員の話をよろしければしていただけないかとお願いした。

S氏はゆっくりと丁寧に話を始めた

「たまいさん、特攻隊の人たちはね・・・男の私から見ても本当にほれぼれするぐらいカッコ良い人たちでした。こんな元気でカッコ良い人たちが明日死んでしまうのかととても信じられませんでした。特攻隊員には出撃の前日には良い食事がでます。でもみんな箸をつけないで僕たちのところへ持ってくるんですよ。『僕たちは栄養をとってもしょうがないから・・・若い君たちがしっかり体力をつけないとね』って笑って食べ物を持ってくるんです。それも一人じゃないんです。皆そうするのです。私はとても悲しかったです」

私は数年前に見た「僕は君のためにこそ死にに行く」という映画の鳥浜トメさんの言葉を思い出していた。「それはそれは美しか若者たちでした」という言葉である。

私はそこで話を切り替えてみた。「Sさんはとても背が高く色男だから、きっと女にもてたでしょうね?」

Sさんは答えた
「実は当時出水に付き合っていた女性がいました。とても良い思い出です。死ぬまでにもう一度出水に行ってみたいと思っているのですが、なにぶん年をとってしまったのでむづかしいでしょうね・・・」

私は(その時点では5月頃だった)
「3月には九州新幹線が全通します。静岡から一度の乗り換えで九州へ行くことができるのです。飛行機と違ってやや時間はかかりますが寝ていればすぐについてしまいます。以前と違って出水ははるかに近くなるのです」と答えた。

Sさんはとてもうれしそうにうなずきそうですかと答えた。私はS氏の孫である銀行員にこの話をしなければならないと思った。

そして、毎度の「終戦の時はどちらいいらっしゃったのですか」という質問の後で訪れる親密感を感じていた。
終戦の話をした後はその前とお互いの距離感がとても近くなるのである。私は遅くまで話をしてくれたS氏にお礼をいってその日は帰ることにした。S氏も話をしたことで満足だったようだった。

後日、私はS氏の孫である若い銀行員に祖父との仕事の打ち合わせ結果を報告した後、彼に聞いてみた。

「ねえ?おじいちゃんが終戦の時にどこで何をやっていたか質問したことがある?」と。

彼は聞いたことがない、と答えた。そこでS氏から聞いた経験談を一通り話をした。彼はそれを聞いてこのように答えてくれた。

「たまいさん、私はじいちゃんが九州にいたことは少し聞いていましたが、飛行機の整備兵だったことは初めて聞きました。実は、私は10月に結婚するのです。お互いの家族とともにどこかへ旅行へ行くことを計画していましたが、九州にすることにしました。私が必ずじいちゃんを出水へ連れて行きます。約束します。」

私はとてもうれしかった。やはり彼はS氏の孫だった。そして若い彼におじいちゃんにはもっといろいろな話を聞くとよいとアドバイスをした。

S氏の話を聞けるのはそれほど長くないのだから。


2012. 8 4. 500円玉貯金のススメ

雑貨屋へ行くと「10万円」たまる貯金箱とか「30万円」たまる貯金箱が売っている。私はこの手のものが得意である。

10万円は2回成功させており、ちょっと時間はかかってしまったが30万円はもうすぐ完了する。

きっかけは25歳の時に担当していた銀行から頒布品でいただいた10万円たまる貯金箱だった。成功させて換金する時に定期に入れさせるという魂胆である。形状は250ml缶ぐらいの大きさで、プルトップがついていた。
私はこれを会社の机の上において「課長、預金キャンペーン対策でこれに取り組みます」「よろしい」という会話の後に始まった。当時の私は金融機関の社員だったので本来こんなことはあってはいけないのだが・・・当時はそういう時代だった。

同じフロアの社員は私の缶を見ては「絶対に続かない」とほざいていた。私が短気なことを知っているからである。これもあり、何とか成功したかったのであった。

500円玉貯金を始めると、財布からお金を取り出すときに妙な計算をするようになる。たとえば、630円の買い物をするときは「1130円」を支払い、お釣りは500円玉をもらえるように計算するのである。この癖は今でも治らないので私の財布には常に500円玉があったりする。

たまに「すいません、100円玉しかないので・・・」とちゃらちゃら100円が渡されるとむかついたりする。
忘れられないのは1800円の高速料金を支払う時に2300円だしたら「300円はいらない」小銭を返されたことだ。ETCが普及する前の話である。
「おまえあほやなぁ・・・おれが500円玉のお釣りがもらいたいということぐらい簡単にわかるやろう・・・」と心の中で呟きながら「はい・・・・」と2000円だけ出したりしていた。たぶん、料金所のおっちゃんは「こいつあほやなぁ・・・1800円だといっているのに2300円だすんだからなぁ・・・」と思っていたことだろう。

会社の貯金箱は順調に続いていき、ついにある日、500円玉が「がっちゃ」と引っ掛かる日が来た。どういうことかというと、貯金箱の入り口はスリット状なので、コインを縦に入れざるをえない。しかし満タンに近くなると既存のコインが邪魔をして縦にコインが入らなくなるのである。

その瞬間は残業中だった。私は向かいの席にいた同期の社員に「おい、S、みろよ」と500円玉がスムーズに入らないところをパフォーマンスした。Sは「おーーー」といって「おれも始めよ」と翌日S銀行の貯金箱をもらってきた。

そんなわけで最初の貯金箱は無事に成功した。11万円近く入っていたと思う。
ちなみに私は大変性格が悪い人間なので、同期のSが始めた貯金箱に夜な夜な大量の10円玉を入れておき、換金した時にがっかりするという悪戯をしていた。

S:「おれは500円しか入れていないのに、だれかが10円玉を入れていてさ・・・8万ぐらいにしかならなかったよ・・・どおりではやく貯まったと思ったよ」

私:「困った奴がいるよなぁ・・・ま、いいじゃないか。タダでお金をもらったんだからさ・・・」

S:「お前じゃないよな?」

私:「え!おれが?まさか・・・」

などという会話があったりした。

500円貯金は現在両替手数料がかかるので非常に非効率ではある。しかし、いくら入っているかわからないものを換金する瞬間はまさしく「エクスタシー」である。

ちなみに、私の母は50万円の缶を何回か成功させている。抜群に重くなった「50万円たまる缶詰」を床でごろごろ転がしながら「すこしでも隙間をなくしてたくさん入るようにしたいのよ・・・」と自重で変形しかけた缶を大切に保管していた。

私は間違いなくこの人の息子だと思ったものである。


2012.9.5 人生の転機

自分の身に降りかかる事件の中で、その時には最悪に感じたことが後に大きなチャンスだったことに気がつくことは誰にでもある。

私は人生で二度、命を失いかけた。一度目は小学校二年生の時である。友達と駄菓子屋で買った組立式の紙ヒコーキを飛ばしていたとき、集合住宅の軒に引っ掛かった友達のヒコーキを取りに行き、二階から転落したのだ。
当時は三人で遊んでいたが、転落後私はずいぶん長い間記憶を失っており、目が覚めた時には私は一人で、大変な眩暈と格闘しながらふらふらで家に帰った。
なぜ落ちたのかというと、(これはその後10年ぐらいたった時にふと記憶がよみがえったのであるが)一緒に遊んでいた友達の一人が、ヒコーキを取りに行った後、腰窓から部屋に入るためにまさに窓に足をかけた瞬間、私を「ばあっ」と脅かせたのである。

私は後ろにのけぞりながら転落し、おそらく後頭部から硬くしまった土の上に転落した。私は父からどうして落ちたのか何度か聞かれたが、当時は理由がわからなかった。突然失った記憶がよみがえったのは高校生の時であった。よみがえった記憶はとても鮮やかであり、私は転落しながら見つめていた友達の顔を今でもはっきりと思い出すことができる。

脅かせた友達は、「物干しざおが落ちてきて頭にあたった」証言した。もう一人の友達は「二階から落ちた」と証言した。脅かせた友達は正直に事実を伝えるわけはない。もう一人は真実を知っていたが、真実を喋らなかったのだ。

この時の後遺症は片頭痛で残り、20代前半まで症状はでていた。今考えればかなり危険だった。落ちた場所は本当に踏み固められた固い土の上だったからだ。問題の友達は中学でクラスが一緒になったが妙に私にやさしかった気がする。今となっては納得できる話だ。

二度目は26歳の時である。当時私は残業が激しい会社に勤めており、自転車で会社へ通勤していた。市営駐輪場が閉まる時間は23:30だったが、残業は毎日それよりも遅い時間までかかっていたので、先に自転車を取りに行こうと走って駐輪場へ向かったのであった。駐輪場の入り口へ走って駆け込もうとした瞬間、近くにいた酔っ払いの集団が私の足を引っ掛けて転ばせた。
私は全力疾走していたので、当然スーツは破れ、ひどく体を打ちつけた。「おいっ」と振り向いて文句を言おうと立ち上がったら今度は二人がかりで「なに?やるの?」といきなりぼこぼこにパンチを浴びせられたのであった。

そのころはちょうど3月の異動の時期で街には酔っ払いがあふれている時期であった。酒に酔っていた二人は私の頭を地面に強く押さえつけ、ちょうどラグビーボールをけるような感じで顔面を蹴り上げた。右目の視力はもともと悪かったが、極端に落ち始めたのはこの事件が絡んでいた。
その後二人は馬乗りになり、私の首を固く締めあげたのであった。

よっぱらいは手加減を知らないので、力任せに首を絞め続けた。この時ばかりは「もう駄目だ。おれはこんな路上で名前も知らない連中に殺されて人生を終えるのだ・・・無念だ。」と思った。

幸いにも集まっていたヤジ馬が「おいっ、それ以上やると死ぬぞ」と(首を絞めていた人を突き飛ばしたらしいが・・・)大きな声で声をかけ、首を絞めていた男と、押さえつけていた男は手を緩めて走って逃げた。私は寸でのところで命拾いをしたが、すぐに警察が来て事情徴収されたのち、その日の内に一人が逮捕された。翌日にはもう一人も逮捕された。

翌日には新聞にも事件は載ったが、小さい記事にもかかわらずかなりの無事を確認する電話がかかってきた。

一度目の経験は自分が幼すぎたため、大きな転機には結びつかなかった。しかし、二度目の経験はその後の人生に大きな変化を与えた。人はいつ死ぬかわからない。だからこそ、次に命を失いかけた時に「まあ・・・こんなもんでよかろう。」と思える人生を送ろう・・・と、それまでの保守的だった生きかたをアグレッシブに方向転換をしたのだ。頭では分かっているが、現実に直面するとそれがいかに身近であるかを思い知らされる。

その二年後、私は会社を辞めて、さらにその会社もやめて今につながっている。大きな迷いが出た時にはこの経験を思い出し、「死ぬときに後悔しないやり方」を選択するようにしている。

二度目の事件は当時の私をいろいろ苦しめたが、結果人生を振り返ってみると切り離すことができない大きな転機だったことは間違いがない。今では、加害者に感謝すらしている。

今は最悪の状況であっても、それは人生に必要な経験で起こるべくして起こっていると受け入れなければならない。そして少しの反省と、目いっぱいの努力をすることでのちに大きな糧となるはずだ。

 


2012.10.22 知りすぎた男

私は過去、Nゲージのレイアウトを3回作ったことがある。

初めてのレイアウトは中学一年生で制作したが、完成度80%ぐらいで音楽へ傾倒したため、その後廃棄処分した。

二度目は平成7年頃で、600×900よりもやや小さいレイアウトを製作した。カトーのフレキシブルレールを直接板へ固定してあまりこだわらずに作ったのである。

なぜ製作したかというと、当時私の実家は長く空き家になっており、定期的に手入れと庭の草むしりをする必要があったためだ。実家から80キロほどの距離に住んでいた私は、たまに実家の手入れをするために戻っていたが、なにぶん空き家なので滞在中は退屈だった。その時間を埋めるためにレイアウトを製作した。

空き家だったので製作途中で放り投げて帰ってしまってもだれも文句を言わない。実家へ行くたびに少しずつ仕上げて完成させた。このレイアウトは今も実家にあるが、子供がミニカーを走らせてぼろぼろにしてしまったため、もはや見る影もない。曲線半径が小さいため、大型の車両は走行できない。

このレイアウト完成に気を良くした私は続けて600×900のターンテーブル+扇形機関庫の機関区セクションレイアウトを製作した。丁度、TOMIXから手動のターンテーブルが発売されていたのでこれを購入してレールを固定し、多数のグリーンマックスのストラクチャーを組み立て、ウェザリングし、さあいよいよ配置・・・・というところで平成10年頃、製作を辞めてしまった。一番面倒な配線・ストラクチャーを終えていたのでやろうと思えばすぐにでも完成したのだが、会社を辞めることになったり、ライブスチームと出会ったり・・・で放置せざるを得なくなったのだ。

永く実家に放置されていたが、平成16年に実家から引き揚げるよう要請があったため、我が家へ引き上げ、ついでに再開したのである。

このころにはヤフオクでアクリルケースをオーダーできる時代になっていたので、作った後のホコリ対策も簡単にでき、レイアウト以上にりっぱな家具調の台を作り、レイアウトの下にNゲージコレクション、上はレイアウトで、その上にアクリルケースが載るずいぶん立派なものとなった。

ストラクチャーは転車台、扇形機関庫、工場、引き込み線、詰め所、倉庫、信号所、という鉄道施設ばかりだったのでそれを適当に並べて完成させた。このレイアウトは私の寝室においてあり、扇形機関庫にはC51からC62まで並んでおりなかなか壮観である

近年、Nゲージに路面電車ブームがあり、昔では考えられないほど小さな半径の曲線レールとポイントが発売されている。これをもとにA3ほどの小さいレイアウトを作れないものか・・・と考えていた。

パーツをそろえ、街コレを買い集め、ストラクチャー製作にかける時間を最小限にしたが・・・・・レール配置は問題なく決まったものの、いつまでたってもストラクチャーの配置と道路位置が決まらない。機関区などの鉄道施設のセクションレイアウトは敷地?の大半をレールと鉄道施設が占めているため、まちづくりはわずかな部分しかない。

鉄道とそれを取り巻く都市計画がうまくいかないのである。

原因は不動産に長く携わってしまったことにある。たとえ模型とはいえ、法令上の制限が頭をよぎってしまうのである。

たとえばこのような悩みだった。

「えっと・・・道路は最低4mないと接道義務の問題があるから・・・(電卓をたたく)・・4000÷150で26.6mmか・・・・道路終端は転回路がないとまずいな・・・・この建物は斜線規制に引っ掛かるな・・・ここに工場はないでしょ!用途地域からは許されないね!・・・こんなところにトンネルとつくると崖条例に引っ掛かるな・・・側溝は・・・・ここに踏切を作ると囲撓地になるから将来建築不可になるな・・・・」

といつまでたってもきりがないのである。模型だからどうでもよいとわかっていてもついつい考えてしまうのである。知識がない頃には楽しめたものが、今は悩みの種になってしまう。
そもそもレイアウトは仮想の街を模型化するので、都市計画そのものではないか!自分が地方自治体の首長になった気持ちで取り組まなければ・・・などと余計に考えてしまう。

何も知らなければ簡単に作れたものが、知ってしまうとこだわりが邪魔してうまくいかなくなる。こんなA3のレイアウトでさえこれでは、もう大型のものはつくれないだろう。

レイアウトプラン集などを参考に造るしか方法はないようだ。


 

2012.11.20  NゲージC56

先月末、鉄道模型メーカー「KATO」よりNゲージのC56が発売された。

過去、C56はマイクロエース、トレインショップ、乗工舎から発売されていた。マイクロエースのC56はデブッチョ・腰高で、まるで別の形式だった。どこからどう見てもC56には見えない。
乗工舎のC56は素晴らしいできばえで非の打ちどころがないが、価格がHOクラスでとても手が出ない。モーターをテンダーに乗せているため機関車・炭水車間にシャフトが見えることも興ざめである。

そこに出たのが真打、「KATO」のC56である。C56はボイラーが細く、短く、しかもテンダー機関車である。機関車本体にモーターを収めるのはどう見ても難しいと思うが、KATOは見事にやってのけた。

エンジンドライブでありがならキャブには人が載せられる。しかも第一動輪上からボイラー下が抜けているため、シルエットも美しい。当然ファインスケールで完璧だ。動輪スポークが抜けているのは言うまでもない。

模型屋で実物を見てから購入しようと思っていたが、結局予約でほとんどが売れてしまい、私は裏技で手に入れたのであった。

どこからみても完璧で、神がつくったものとしか思えない。私はこのような製品を作り上げたKATOの設計担当を深底尊敬する。

Nゲージといえどレイアウトにすると大きく、場所を取るので小型機関車は需要が高い。この美しいNゲージC56をぜひ入手していただきたい。


 

2013.1.20 無情・・・・

私はゲームセンター世代である。家庭で簡単にテレビゲームができる現在と違い、70年代後半はおこずかいを大量にもらえる子以外はなかなかゲームはできなかった。

そのころから私を苦しめているテーブル箇体ゲームがある。「パックマン」である。パックマンはスーパーファミコン等からソフトが発売されているので、現在でもプレイしようと思えばプレイできるのであるが、どうも昔のゲームセンターにおいてあった「テーブル箇体」とはモンスターの動きが異なり、パターンが違うようである。

ある日、ヤフーオークションに「画面が映らないがゲームはできる」という破損品のテーブル箇体パックマンが出品されていた。

18000円だったが、完動品だと20万ぐらいするので「いっちょやってやるか!」と落札した。こわれているので安かったが送料が5000円以上かかってしまった。

品物がとどいてからまずチェック。3つあるヒューズのうちの一つが飛んでいるので、これを交換。再起動するとまた切れる。原因はここにありそうだ。
鍵が紛失しているのでメンテナンスハッチが開かない。これを鍵ごと外してハッチを開放した。

ちなみに、私は電気関連は全くおんちだ。だが、この手のものは大抵が接触不良なので、基板をチェックしていけばおのずと理由はわかるだろうと判断していたのである。

基盤をチェックしながらハーネスを外していく。アースが外れていたのでこれを修正。画面はつかないがゲームはスタートした。ゲーム基板は問題なさそうだ。

パソコンで言うビデオカードと思わしき基盤を外して起動するとヒューズは飛ばない。ということはここが原因と判断。

ビデオカードをチェック。古いトランジスタと液漏れしたコンデンサーがある。これを更新することにした。
しかしながら古い型番であり秋葉原のパーツショップから高い送料を払って部品を取り寄せなければならなかった。パーツよりも送料が高い。インターネットのおかげでパーツ番号を入力すると代替品番号までわかる。楽な時代になったものだ。

はんだごて片手に部品を一つ交換しては再起動、ヒューズがとぶ。これをひたすら繰り返した。

年末、家族が実家へ帰っている間、パーツを順番に更新していき、さんざん時間とヒューズ代を費やしたが症状は良くならず、私には無理と判断した。

年明けに、単なる「物体」となった「テーブル箇体パックマン」を処分することにした。ゲーム基板を取り外し、後は近くの最終処分場へ持ち込むのである。私は車にパックマンを積み込み、最終処分場へむかった。

係の人に処分場所を案内してもらい、指定の場所へ車を進めた。そこは破砕処理場であった。

「すいません・・・これを処分してもらいたいのですが・・・」

「重そうだね。めんどうだから一緒に破砕機まで運んでくれるかね?」

「(いきなり破壊かよ!と思いつつ)・・・はい・・・」

と係員と一緒にテーブル箇体パックマンを車からおろし、同時に破砕機のベルトコンベアへ載せた。パックマンは悪あがきをすることなくベルトコンベアを進んでいき、猛烈な音を立てながら機械に吸い込まれて死んでいった。

この箇体は製造から30年ぐらいは余裕で経っていただろう。基盤の下から子供のころよく見たキリンビールの王冠(裏コルク)がでてきたからだ。一体いくらのコインを吸い込み、何人を虜にしてきたのだろう。

ま、最後にゲームをプレイしたのは僕だったけどね。最善を尽くしたんだ。

別れってこんなものさ・・・・

 


2014.1.11 ソフトクリーム

どうでもよい話だが、私はソフトクリームにはこだわりがある。味の問題ではなく、食べ方にこだわりがあるのだ。
たいていのソフトクリームをイメージすると、下記の絵のようなイメージだろう。私はコーンからはみ出しているもっとも特徴的な「ツイスト」部分が気に入らないのである。

もっと気に入らないのはコーンではなく、紙カップのソフトクリームであり、私に言わせればこれはソフトクリームではない。

要は、私にとってコーンと一体化した部分こそソフトクリームたる部分であるわけだ。

ソフトクリームのツイストの部分はかなり量が多く、これを食べきるのは至難である。店によってはちょっと傾けただけで、ツイスト部分が落ちてしまうほどねじりあげるところもある。「どうだ、うちのソフトはほかのよりも量多いよ」とさりげなく主張している。

先のとおり、私はコーンと一体化した部分のみが好きであるため、このねじりあげの部分を食べるという「苦業」は「よいことは後からやってくる」というばあちゃんの提言を実感できる苦しみでもあった。
運がよいと周りの誰かから「ちょっと分けてくれる?」という提案があり、この苦しみを若干和らげることができた。しかし、コーンの部分は食べてほしくない。

これらのこだわりをよく理解しているソフトクリーム屋?がある。「ミニストップ」である。ミニストップは昔からソフトクリームにはただならぬ取り組みを行っており、どれもとてもおいしい。しかもここのソフトクリームはほかと違ったすばらしいサービスがあるのだ。

それは「持ち帰り」を指定するともれなく添付されるソフトクリームのふたである。ふたはもち手部部分のコーンよりもややグレードの落ちるコーンを使用している。「店内召し上がり」を指定するとついてこない。
「ふた」がつくと、ソフトクリーム全体がコーンで覆われて大変好印象である。

私はミニストップのソフトを買うときには「持ち帰り」を指定しておきながら店内で食べる。食べ方はまずふたの部分を上下ではなく水平に移動させてツイスト部分を持ち手部分のコーンから切り離し、さも小さなソフトクリームと大きなソフトクリームのようにしてしまうのである。

この食べ方であれば最初からクリームとコーンが一体化した味を楽しめる。さらにはねじりあげ部分を食べている間にコーンがクリームに侵されてサクサク感がなくなるという最悪の出来事を避けることもできる。

クリームがコーンを犯してしまうというのは最悪の出来事である。散々苦労してねじりあげ部分を処理したあと、肝心なサクサク感が味わえないのである。これでは代金を捨てたのと同様である。

ミニストップのソフトクリームにはもうひとつよい点がある。もち手部分のコーンの底がとんがり形状ではなく、平になっており、さらに裏側にはメッシュ状の補強がされている。食べている途中に舌でクリームを底へ押し込んでおけば最後の一口はメッシュ状のコーンにクリームがバランスよく配合された極上の味が楽しめるのである。

さすが、ソフトクリームを最優先課題として?取り組んでいるミニストップである。まったく他の追従を許さない。


 

2014.2.23  永遠の0

このタイトルは現在映画上映中なのでたいていの人は何のことかわかるだろう。
2012年11月25日に私は著者である百田尚樹氏の静岡県立美術館の講演会に参加した。毎月開催しているプラモデルの会の仲間たちから誘われて参加したのである。

現在、百田尚樹氏は時の人であり、テレビにも多数出演されている。また「海賊と呼ばれた男」も本屋大将を獲得したりとその才能はますます輝いている。百田尚樹氏は同じジャンルの本は書かない。これはかなりチャレンジングな取り組みである。私は今後も彼の作品を楽しみにしてる。

百田尚樹氏の講演はとても楽しく聴き応えがあった。よい作品を生む作家はやはり話も上手である。百田氏の講演会に参加するチャンスがあれば是非行くことをお勧めしたい。

今回、このコラムを通じて伝えたかったことがある。

百田氏は静岡県立美術館の講演の後、サイン会を開催した。「百田氏のサイン会を行いますのでサインをご希望の方はお並びください」と同時に会場の参加者が全員殺到し、このような経験がすくない私はノロノロと動いて、結局一番最後であった。

この分では途中で打ち切りになるだろう・・・と感じていた。

百田氏はサインをするだけでなく、かならず少し会話をして握手していた。一人ひとり必ずそうしているので時間はかなりかかっていた。しかし、何時間過ぎても百田氏は変わらぬペースでサインをし、丁寧に会話をし、そして握手をしていた。

私の番になったときには2時間以上が過ぎていた。百田氏の予定時間も大幅に過ぎていた。そして私はかばんから1/72と1/48のタミヤ零戦21型を取り出し、「先生、作る時間もないでしょうが・・・受け取ってください」と1/48の21型を差し出した。「おっ、21型ですな。宮部久蔵最後の搭乗機!」と。

そして1/72のプラモデルの箱にさらさらっとサインをしていただいた。さらに「本にもサインをしましょう!」一人一回のみのサインであったにもかかわらず、それぞれにサインをいただいた。

講演を行った後(講演だけでもかなりハードである)、何時間も椅子に座り続け、サインをする仕事は並大抵ではない。気持ちがあっても簡単にできることではないのだ。私には無理である。

百田氏はとてもサービス精神があり、つねに自然体であった。好印象という言葉は百田氏のためにあるものではないかとも思った。それに・・・講演の内容はさすが関西人といわんばかりの笑いにあふれるものであった。

最後になるが、ニュースで話題になる人物は良くも悪くもネットで好き勝手にさらされるものである。フェイスブックを通じて実名投稿になっているものの(掲示板に比べれかなり改善されている)、会ったことも話をしたこともない人についてどうこう意見を述べる人間を私は信頼できない。
どんな評判があろうが、自分で話をしてみることが大切である。私の経験上、そのように良くも悪くも表舞台に出ている人はたいてい魅力的で愛すべき人間であることが多い。

何年か前に民主党の仙石官房長官と会う機会があった。例の事件からしばらくのときだったが、人波に邪魔されて近づけなかった私はiphone片手に一緒に写真を写していただけるチャンスをうかがっていた。
仙石長官は遠くでモジモジしている私を見つけて「一緒にとりましょうか!」と声をかけてくださり、「皆さんスマートフォンになっていますね。私はiPADは持っているのですがまだスマホではないのです」とお話をしていただいた。とても感じのよい方であった。

すばらしい人間に出会うチャンスを評判だけで判断することはまさしく「永遠ゼロ」となるだろう。


 

2014.4.20 レンタルレイアウト

つい最近、静岡市にもレンタルレイアウトなるものがやってきた。ポポンデッタによるものだが、静岡市にはこれまでこのようなものがなかったので、早速行って見た。

Nゲージは小学生のころ祖母に買ってもらったものがあるので、それをかき集めて一まとめとした。そして、近年購入した373系特急ふじかわ、20系客車、C62東海道仕様、EF65500番代新製品を持ち込んだ。

これが楽しいのなんの。30年ぶりに動かしたキハ20系はまったく問題なく動き出し、同様に58系気動車も調子よく走り回った。そして夢にまで見た20系客車をEF65500に牽引させた。昔できなかった大型レイアウトで好きな編成を運転することを実現できた瞬間であった。

しかし、C62東海道型に20系を引かせようとしたところ、新しい車両はケーディカプラーとなっており、連結ができなかった。最近は最初からアーノルドカプラーがついていない物があるのだ。情けないことに交換の仕方がわからなかったのでお店の人にやっていただき何とか事なきを得た。

Nゲージの車両は購入するだけですぐに飾ってしまうのでナンバープレートなどはついていない。しかし大きなレイアウトで走らせる分にはまったく気にならないのである。

私は通常のプラケースに車両を保管しており、その半分はガレージに展示してある。1時間という限られた運転時間では個別にケースからだして並べているのでは時間が足りなくなる。実際、C51本省型にオハ30系を引かせようとしたが、時間切れで運転できなかった。やはり、ブック型ケースのほうが持ち運びも、車両を並べる手間もかからない。

二度ほど訪問した後、私は181系の車両セットを買い増しした。大人となった今ではNゲージの車両セットを購入することは決して高価なものではない。本当は151系が良かったのだが、在庫の関係で似たところを選んだのだ。ボンネット特急はすでに消滅してしまったが、レンタルレイアウトの新緑?をバックにクリームとレッドの美しい車体が走る風景は筆舌に尽くしがたい。黒岩保美さんのデザインが一番映える瞬間である。

新規購入した181系はカプラーが密着連結器タイプのもので、これも連結・開放がうまくできずにお店の人に御世話になった。特に開放は車両をそれぞれ別の方向へ引っ張ってはずすため、壊れるのではないかととても心配になった。そのかわりに非常に実感的である。

ライブスチームは運搬、運転どちらも大変な重労働だが、Nゲージは非常に楽である。一度も行ったことがない人はぜひお勧めしたい。


2015.3.11  車内販売

ニュースで報道されているように、車内販売は近い将来廃止になるだろう。
採算が取れないならやむをえないと言いたいところだが、大変重要なことを見落としているのではないかと私は感じている。

私が現在まで一番長い時間乗車していた鉄道車両は0系新幹線だが、0系新幹線には冷水器が設置されており、それでのどを潤すことが可能だった。ついこの間まで新幹線車両には自動販売機が設置されていたが、JR東海ではこれも廃止になった。

何が言いたいかというと、停電や災害時のことを考えているのだろうかということである。最近ではめっきり減ったが、それでも不可抗力で列車が遅延したり、災害により車両に閉じ込められることはかつて珍しいことではなかった。
在来線の車両を含めて最近の車両は窓が開かないか、あるいは開いてもわずかな隙間だったりする。新幹線車両は機密構造になっている。非常用電源で換気ファンぐらいは回るようだが空調はとまってしまう。

外気温38度で停電になり、かつ車内販売も自動販売機もない場合、水分を取ることができず、かなり深刻になるのではないか。

私は子供のころから列車で長旅をしてきたので、昔は車内販売でお茶を買っていた。現在でも乗車前には必ずペットボトルを買ってから乗り込むようにしている。これは経験からそうしているのである。

採算は短期的には重要なのだろうが、鉄道の絶対条件は安全性である。航空機は事故が発生した場合は命がないのでこのような問題はない?が、高架線を走る気密構造鉄道車両はかなり深刻になるだろう。

安全第一でお願いしますよ。


2015.3.11 履歴書は手書き?

就職活動で使用する履歴書は手書きであるべきか、PCで作成するべきか、これについて一言書こうと思う。
ホリエモンは「手書きの履歴書は採用候補にいれたくない」と発言してこれが端緒になっているようだ。私はホリエモン派である。この議論については何度もネットで取り上げられているが、多数派は「手書き」である。

私からすれば手書きなどバカバカしくて全く「わけがわからない」が、もう少し多数派について俯瞰的に見る必要があるのではないかと思う。

手書きが多数の理由として以下が挙がっている

1.実際の採用担当者にヒアリングした結果、手書きを有利とする会社が多数
2.字から人となりがわかる
3.大学のキャリヤセンターなどから「手書き」を進められている。
4.採用担当側ができない社員を採用した時の言い訳。

これらは確かにそうなのだろうが、私から言わせればそもそも手書き履歴書を有利に採用する会社に将来性があるのか疑問である。

「手書き」で「人ととなり」を見ている会社はおそらく体質の古い昭和的な会社だろう。これについて言及した記事は皆無である。また学生側に就職活動のノウハウを教える大学のキャリアセンターの講師が就職のプロ(採用のプロという意味ではない、採用されるプロという意味)であるとは限らない。

つまり、体質の古い、重厚長大企業の採用担当の意見をもって「手書き派」が多数といっているのではないか。

私が採用する側であれば、こんな学生が現れれば面白いと思う。

履歴書にCD-R等のメディアが添付されており自己PRや特技を動画で見ることができる
履歴書にQRコードがついていてそれにより自己PRなどを確認できる
履歴書にスマホをかざすと自己PRなどを確認できる
そもそも履歴書を持ってこないで、フェイスブックを見るように指示される

等である。特に、中高年の中途採用者がこのような型破りの履歴書を持ってくるとその段階で私は採用するだろう。フェイスブックはその使い方でも人となりがわかるものである。投稿の公開範囲、友達の内容、書き込み・・・いくらでもPRになるだろう。

仕事は真剣勝負である。採用は一番最初の同期対決であり、当然他の候補者はライバルである。他を圧倒するには既存の戦い方では到底出し抜くことはできない。中途採用者であればなおさらである。少なくともこのようなことができる人はITに精通しており、失敗をおそれない積極的な人材であると想像できる。

逆に手書きで履歴書を書く人についてはこのように想像できる

一字間違えるたびにいちいち履歴書を書き直すほど、時は金なりの感覚が欠落している。
字がきれいということを訴えたい
多数派のやり方に従う消極的なタイプである

まあ、こんなところだろう。

実はつい先日、私はある会社の顧問として採用されることになり履歴書を提出した。履歴書を出すのは15年ぶりぐらいだったが、当然PC作成で写真はjpg.を貼り付けたものだった。おまけに年齢を44歳にもかかわらず35歳と間違えて書いて提出したのである。なぜ間違えたかというと、ネットでダウンロードした履歴書のフォーマットにあらかじめ入力されていた年齢が35歳だったからである。

面接は役員全員と社長(女)だったが、面接時に「たまいさん、年齢が生年月日から計算すると間違っていると思われるのですが・・・と社長から聞かれて初めて間違っていることに気がついたのである。

私はとっさに「生年月日から44歳ということはすぐにわかると思いましたので、35歳ぐらいによく見られるという意味で書きました」と答えた。

社長と役員全員大爆笑になり、「たまいさん、35歳はいくらなんでもやりすぎで40歳ぐらいでちょうど良いのではないですか」と場はかなり和んだのである。

要は履歴書の間違いといえどもPRのひとつなのである。大学のキャリアセンターの講師が実際に就職活動をおこなって内定をとりまくるなどということがあるだろうか?私はそう思わない。もっと率の良い仕事をしているはずである。

私がもし大学のキャリアセンターの講師であれば毎年超難関といわれる会社から超ベンチャーまでくまなく就職試験にチャレンジしてその結果から傾向と対策をフィードバックするだろう。そこまでしてようやく講師は務まるはずである。

履歴書を手書きで書くべきかどうかはそもそも採用側の会社の体質が大きく影響してくると思う。将来性がありこれから伸びていく会社は手書きの履歴書を有利に扱うことはまずないだろう。

何を目的としてその会社に就職するのか?それを考えることが履歴書を手書きで作成するかどうかの判断となるのである。


2015. 4. 5  老朽化のため・・・

「老朽化のため解体します」、「老朽化のため廃止します」建築・鉄道の世界ではよく聞かれる言葉である。地方公共団体の活動では特によく聞かれる言葉である。

老朽化!私の短い人生経験の中でもこの言葉がでてきたときには要注意である。大抵「他に理由があるのだがとりあえず『老朽化』ということにしておこう」ということがほとんどだからである。たとえば採算がとれない、邪魔だから取り除きたいという本音を隠すために、いかにも皆が納得しそうな理由として取り上げられている。

法隆寺が老朽化しているから解体するか?1400年以上まえのものだぞ!奈良の大仏が老朽化で解体されるか?現在の建築確認基準にも適合していないぞ。なぜ解体しない?

極端な例ではあるがそういうことである。私は「老朽化のため・・・」という言葉が出てくると「よっしゃぁ、真実の探求・・・」と気合が入る。

だれでも理由を聞くと納得しそうな魔法の言葉というものはいくつか存在する「老朽化のため」「安全上の問題で」・・・etc

ネットはあてにならないとよく言われる。余計な情報がかなり混じっていることは確かだが、核心に触れる情報が多数あることは間違いない。この都合が悪いので「およそ過半数は納得しそうな魔法の言葉」をつかって真実をゆがめているのである。

新聞・テレビはまず間違いなく真実を発信していない。これだけは間違いなくいえる。自覚があるかは別として、真実ではなく誰かにとって都合のよいストーリーを発信している。

一例を挙げると新聞の記事を見てほしい。事件事故などには必ず「警察によると」とか行政事件では「○○市によると」などと書いてある。新聞記者が自分で足で歩き回って聞き込みをして報道しているわけではない。警察発表をそのまま記事にしているのである。新聞も似たようなものだ。
だから原発事故のときのような戦前の大本営発表になるのである。たぶん、新聞にはこう書いてあったと思う。「経済産業省によると・・・」か「東京電力によると・・」とか。

私は新聞をとっていない。とっていたが全く役に立たないので辞めたのだ。ただ、新聞は役に立つのでたまに取っていないことを後悔することはある。

おそらく、私たちが勉強してきた歴史も同じなんだろう。
「ま、こういう感じでまとめておきましょう」ということが有史以前からあったんだろうね。


2015.10.26 石炭の将来

この数年、工作が全く進捗していない理由は、実機の保存メンテナンス活動にエネルギーを注いでいるためである。このホームページの最初の連載ページに書いたとおり、「蒸気機関車は本物が一番で模型ではその魅力は伝えられない」という思いはいまでも全く変わっていない。ライブスチームは魅力的で、「かなりいいいせん」行っているとは思うが、やはり本物と比較するとどうにもならない。

たとえ朽ち果て、誰にも見向きもされず荒廃が進んでしまった機関車でも、本物は本物であり、そこにはたくさんの人の思いや歴史が刻まれている。これはライブスチームでは得られないものである。残念だが、ライブスチームの工作はほそぼそと続けていくが、ヘビーライブスチーマーに戻ることはもうないだろう。プラモデルやそのほかの趣味と同一線の熱意程度で続けていく予定である。実機の持つ重みはやはり他では代替できなかった。

さて、つい先日、世界保存鉄道協会の総会が行なわれたので世界中の保存鉄道の第一人者の話を聞いてきたが・・・・驚愕の事実が判明した。なんと、後数年で地球から石炭が消えるというのである。今はまだ石炭はそれほど高価ではなく、普通に購入することができるが、英国では来年から2023年をめどに炭鉱閉鎖をおこなう。中国は2020年ごろをめどにしているようである。いずれにせよ、地球温暖化に歯止めがかからないこともあり、近い将来地球規模の大胆な政策で石炭は手に入らなくなる。

石炭火力発電所は石炭が手に入らなくなれば自動的に閉鎖になる。安価な燃料が手に入るから石炭火力発電が稼動する・・・という考え方のようだ。
すでに英国の鉄道雑誌では、黒煙が煙突から出ている写真は掲載されないようになっている。イメージを悪くするからだ。もともと英国では黒煙を上げる蒸気機関車は恥さらしであり、無煙炭が当たり前に使われている。英国のライブスチームも同様である。ウェールズ炭のような高カロリーの石炭を使用することが前提になっており、設計の段階で煙管はかなり細いものが使われている。

実際、パネルにあそボーイが爆煙を揚げて桜吹雪を走る写真が出たとたん、会場から笑いがでていた。美しい桜の咲き誇る春に爆煙を揚げて蒸気機関車が走ることにあきれたような笑いが出たのである。日本人はあたりまえに見てきた写真である。これがワールドスタンダードなのだと強く感じた瞬間であった。

会場には日本人よりも外国人が多く、同時通訳が行なわれていた。英語、日本語、スペイン語が選択できた。専門用語が多いので同時通訳も大変だったと思うが、特段理解に問題はなく、かなり良い線をいっていたのではないだろうか。

パネリストは発電所で使用する石炭量と保存蒸気機関車が使用する石炭量をグラフにして資料にまとめ当局へ採掘継続を訴えたようだが、どうも分が悪そうである。すでにバイオ燃料やガスを使用することも視野に入れている。

実機とは異なるが、私はライブスチームでいろんな種類の石炭を使った。園芸屋で購入した太平洋炭は煙管がタールでべたべたになりかなり厄介だった。
 数年前に現役の蒸気機関車に使っていた酸化した豆炭を炊いた。質は最悪で黄色い不完全燃焼ガスをたくさん吸ったその日の夜、私は気道閉塞を起こし、あと少しでこの世を去るところだった。もともと呼吸器系が弱く、小さい頃から喘息と激しい咳き込みに苦しんできた私はこれがきっかけでライブスチームの運転をやめてしまった。2013年の6月のことである。

私は蒸気機関車は何を炊いても良いと考えているが、深刻な話であることは確かである。撮り鉄の人たちは機関車乗務員に「ここで爆煙をお願いします!」のような投書をするらしいが、これだけははっきりいえるだろう。

今のうちに完璧な写真を撮っておいてね!


2018.7.21  TALKIN' ABOUT JAZZ  Part12

本年2018年8月4日、5日に開催されるストリートジャズ・静岡 IN&OUT 2018のパンフレットに寄稿をした。ライブスチーム中断後の状況を説明できていると思うので、独り言に追加することにした。以下、寄稿文である。


 去年の春、私の嫁は44歳でこの世を去った。おおよそ病気などするタイプではなかったが、どうにもならない病気を患ってあっという間に死んでしまった。丁度、知り合ってから20年だった。

 市川海老蔵の記者会見を私は病院で見ていた。病状についての質問に対し、海老蔵は明確に回答することを避けていたが、同じ立場の私にはすぐにわかった。「ああ、麻央ちゃんは助からないのだな、君はそれを受け入れたんだな」と。小林麻央がこの世を去ったのは嫁の死から2ヶ月後だった。
 私が今、こうしてストリートジャズのパンフレットに駄文を書きこんでいるのも、元をたどれば亡き嫁の影響だった。

 僕と彼女が知り合った時、私は750枚近くのレコードとCDをもっていた。彼女は400枚近いCDをもっていた。合わせて1150枚前後のCDを持つことになったが、一枚も重なることはなかった。本当に一枚も、だ。
 彼女はワールドミュージックをバックボーンとしていた。その中にブラックコンテンポラリーとJAZZがあったのだ。彼女はブームになるはるか以前からフラメンコの世界に足を踏み入れていて、それを仕事にしていた。
 「棚から一掴み」ではないが、彼女のCDの中から私は「PORTRATE IN JAZZ」を見つけ、JAZZの世界に入ったのだった。そして当然のごとくDotCoolに足を運ぶことになり、皆がそうなるようにストリートジャズに参加することになった。1997年のことだ。
 私は当時ポップソングを自作自演していたこともあり、充実した音楽機材をもっていた。そこでストリートジャズのライブ盤を収録し、ディスクにする担当として初参加となったのだ。だから私の家には1997年、1998年、1999年の三年分のマスター音源がある。2000年以降は著作権の問題が大きくなり、加えて土日も仕事の会社へ転職することになったのでそのまま引退となってしまった。
 しかしJAZZからは引退できない。私は毎年ストリートジャズをサポートし続けることでJAZZとつながっている。そして、ストリートジャズは今年で26回目の開催となる。

 

 写真は1999年のステージである。・・・私の記憶が正しければ・・・初めてグランドピアノになり、ステージに屋根が設置された年だった。これで夏場の不安定な天候にも対応できるということになったが、屋根はブルーシートで作られた非常に簡素なものだった。強い日差しを遮る代わりにジャズメンの写真はどれも顔色が青かった。非常に手作り感の感じられる、と言えば聞こえは良いがチープなステージだった。そして開催は土曜日1日だけであった。

 2000年にはイベント会社から調達した鉄骨の屋根が設置され、土日2デイになった。現在開催されている基本形ができたのは2000年からだった。
 毎年、開催資金集めに大変な労力が費やされているが、ストリートジャズは進化し続けている。In&Out、両替町特設ステージ、私の時代にはなかったものが今は定番となっている。限られた予算で進化させることができるのは、たくさんのジャズを愛してやまないボランティアスタッフ・・・いや、ジャズと関係がない人もかなり・・・いるからである。転勤で遠くへ移住しても8月になると必ず会場で顔をみることができる。1997年から変わらないスタッフも多数在籍している。
 一時、本当に開催が危ぶまれる時期もあったが、ジャズ愛好会の林三景氏より聞いた話を私は忘れることができない。
 「あの札幌雪まつりだって最初はたった数個の雪だるまから始まったんだぜ?それを毎年継続して開催していくと最終的にあれぐらいのイベントになるんだよ。2デイを1デイにしてもいい、とにかく継続して開催することが大切なんだ」 規模を縮小してでも継続する・・・結局一度も縮小したことはなかったが・・・そして今年は26回になった。

 27歳だった私も48歳になった。そして、ストリートジャズから学んだ一貫した継続性を起点として私自身、15歳の時に決意をした夢を実現させるために昨年大きな投資をした。それは実物の機関車を手に入れ、保存鉄道会社を設立することだった。
 私の子供の頃の夢は国鉄職員になることだった。しかし国鉄分割民営化により子供の頃から目標としていた職場は消えてなくなってしまった。高校2年という将来についてまじめに考えなければならない大切な時期に目標を失ってしまったのだ。
 ちなみに、なんでそのままJRに勤めなかったのだ?という質問に答えるのであれば答えは簡単だ。「JRは日本国有鉄道ではないから」である。
 
 私は消滅してしまったのであれば、自分で作るしかないと国鉄に一番近い会社を作ってそこの社長になろうと考えた。
 そして昨年ついに小さな鉄道会社が設立された。その名も足久保鐵道株式会社である。レール敷設総延長25m、保有車両は25tC型の蒸気機関車が一台。しかも今のところ動く予定はない。法人設立はともかく、2017年7月25日に大阪南港からトレーラーに載せられてわが社初の蒸気機関車が静岡市にやってきたのである。15歳の決意を47歳にして達成したわけである。
 足久保鐵道株式会社は物も、人も運ばない。鉄道や鉄道車両を愛する人の夢を運ぶ鉄道会社である。





  会社設立前は、誰に話をしても想像の範疇を超えているらしく、「ふーん⤴」とため息のような馬鹿にしたような返事が毎度であった。しかし、死んだ嫁は「いい年して馬鹿なことはやらないで」と言っていたが、おそらく彼女は私が達成することをわかっていただろう。結果を見とどけることはできなかったが。

 こうしてJAZZフェスのパンフレットに保存鉄道会社設立の顛末を書くことは場違いな感はあるが、私にとってJAZZも保存鉄道会社も似たようなものだ。
 どちらも私たちが永遠に失ってしまったものを再現しているからである。JAZZが最も輝いていた1950年代は永遠に帰ってこないし、1960年代に最大数となった蒸気機関車も永遠に帰ってこないのである。

 ストリートジャズ・イン・シズオカは静岡市の夏を代表するイベントに成長した。私も保存鉄道会社で日本を代表する会社に成長させたい。そしてその要は一貫性をもってスウィングすることである。

 さあ、人生は短い。やりたいことがあるならさっさと殻を突き破ってスウィングしようじゃないか!今年のフェスも熱くなるぜ!

 

〜最後にこの駄文は愛すべき静岡ジャズ愛好会の仲間たちと亡き玉井千春に捧げたい。 〜

 


 

2018.9.27  行動こそすべて

ライブスチームを始めてまもない頃、ある尊敬する大御所のライブスチーマーからアドバイスを受けたことがある。それは

「自分のやりたいゲージで、やりたい機関車から一番最初に作りなさい」

というものだった。これは「5インチD51を製作するためには習作というべきものを何か作ってからでないとまともなものにならないだろいう」という私の意見に対してのものだった。大御所は5インチ8.4分の1、C55、C62を完成させている。

 現在でも5インチD51・・・というか国鉄型D型機はあまり見かけることがない。これは固定軸距離が長いため、走る場所を選ばざるを得なくなることが大きな理由だと思われる。
私はそのアドバイスに対して内心「そりゃあ、大御所ぐらいの天才ならそれはできるだろうが・・・」と思っていた。
 大御所は続けて「違うゲージ、例えば、1番ゲージ、3.5インチ、5インチとステップアップしても工作機械の容量も異なるし、技術も違ってくる。だから一番効率よく、お金をかけずにやるには自分の一番やりたいゲージ、やりたい機関車を作ることが一番大事なのだ」ということもおっしゃっていた。

今、私はライブスチームを長期休業して実物の機関車を動態化すべく奮闘している。私はこのHPを始めたとき、「はじめの一歩」でこのように書いている。

「蒸気機関車は実物が一番で、模型ではその魅力を伝えることはできない」

 私にとって、ライブスチームという素晴らしいものに出会っても、やはりこの一番最初の言葉を変えることはできなかった。ライブスチームをもってしても、実物の蒸気機関車の魅力には到底及ばなかったのだ。これは私の中での話である。

 白馬村に保存されているC56150号機は、ブレーキ機構をすべて動態保存機に提供し、ほとんど「はく製」のような状態になっている。この機関車はどう頑張っても動態化することは不可能である。しかし、私は解体になる前に引き取ろうとそれこそ全身全霊を傾けて取り組んだ。

 かなり良い線まで行ったのだが、厚生労働省の外圧でダメになってしまった。夏草に覆われ、赤茶け、無残な姿をさらす150号機は惨めだった。この機関車は小海線のスーパースターだった機関車である。私は150号の前で半日彼を眺めて会話をすることができた。

 私はやはり本物の鉄道車両が好きだったのだ。どんなに頑張ってもこれを超えるものは存在しなかったのである。
そして、ライブスチームを休止し、本物の鉄道車両を受け入れて保存鉄道会社を立ち上げるという突拍子もない行動も、いざ始めてみると目標は達成できるのである。

もちろん、当初の「北海道の原野を、復元した国鉄大型蒸機で驀進する」という壮大な目標には届かなかったが、規模を小さくしたものの何とか形になっている。

 そして、今から16年前に受けたアドバイスを思い出したのである。「自分の一番やりたいゲージ・機関車から始めなさい」である。
そうか・・・。私は最初から1067mm、1/1の蒸気機関車をやりたかったんだな。16年前に言われたとおりにしていればもう少し、早く達成できていたかもしれないな・・・と。

 そして、人生においても同じではないかと気がついた。人生でも、やりたいことを一番初めにやるべきであると。
 やりたいことをやって生活する。これはホリエモンも同じことを本に書いている。ホリエモンだけでなく、大きな成功を収めた人は同じことを言う。
 私は後2年で50才になってしまうが、それでも今気が付いてよかったと思っている。残りの人生は長くないが、その分、経験でカバーできる時間は残されている。

 やりたいことを将来やるために我慢して堅い会社に勤めたり、やりたくない仕事をやる。これははっきり間違っていると私は主張したい。私自身がそうだった。そもそも将来があるかどうかは神様しか知らないし、やりたいことをやらずにある日突然死んでしまう可能性は誰にでも平等にあるからである。

加えて、「やりたいことをやる」為に必要なものは「能力」ではなく、「行動力」である。知識があり、頭の良い人は行動力に劣る人が多い。私が見てきた成功者は必ず考える前に行動に移す。どんなにリスク対策を考えてもリスクはついて回るし、想定もできない。行動こそがもっとも尊く、成功を手にする秘訣である。

自由主義経済が限界を迎え、先進国ではベーシックインカムの導入が始まっている。やりたいことを思い切りやっていくことができる時代がもう少しである。私はそれが楽しみでたまらない。


2021.5.26 誰も見ていないとしても

コロナウィルスの影響は私にも大きな影響を与えている。これまで特別な営業戦略を立てなくても仕事は問題なく取れていたが、取引先も仕事がないとなると私も当然に影響を受ける。これまで何度も従業員を・・・と考えてきたが、私一人で継続してきたことが影響を最小限にしてくれた。
私自身の出費を抑えればなんとか生活はできる。仕事がない分、いろいろやりかけたことを処理してきたが、事務所に長く置いてある段ボール箱を開けてびっくり。2017年に短期集中プロジェクトとして外注したバッテリーロコの作りかけが入っていたのである。

正直、すっかり忘れていた。模型は事実上引退しており、優先度はとても低くなっている。もともと短期集中プロジェクトで設計していたものであるため、すぐに完成できそうに感じた。

CAD図面を見直して、修正すべきところを修正して工作にとりかかった。一旦始めるともう止まらない。仕事は後回しで昔と同じように寝る時間を惜しんで制作した。細かいところにはこだわらなかったこともあり、わずか三週間で完成である。工作の進捗に応じてフェイスブック、ツイッターでアップしていたが、このすでに歴史の一部となっている?古いホームページも更新することにした。

実は、2017年5月の原稿は7割程度作ってあった。それすらも忘れていたのである。

現在検索エンジンを使ってライブスチームの情報を得ようとしてもなかなか良いものが出てこない。「ライブスチームに挑戦」は2004年、グーグルのワード検索ではおそらく1番だったと思われる。ま、「昔は美人だったのよ」という話である。

私自身も昔から続いているホームページはあまり見なくなっており、たまに思い出したように仲間のページを徘徊する。数年前にジオシティーズがHPサーバを辞めてしまったので、かなりのHPがネットの世界から消えてしまった。

ボンゴフレンディの修理情報などはこの手のページが頼りだったが、時すでに遅しである。フェイスブックやツイッター、ユーチューブもいつかはサービスを終えるだろう。ネットの世界では「情報が消える」ということもまた良しなのである。

昔からページを見ていただいている方にはすでに鬼籍に入られた方も少なくない。そのような方々はHPの更新をとても楽しみにされており、私も期待に応えようと頑張ったつもりである。久しぶりにHPの記事を書いたが、写真の編集やテキストの構築はSNSと比較して大変である。SNSは手軽だからこそ発展したのだろう。

私のHPをどの程度の人が継続してみているか私にはわからない。しかし、仮に誰も見ていないとしても工作が進む限りは更新していくつもりである。