2006.1.21 お金教育

たった一つの会社の不祥事をきっかけに東証が取引を停止するという前代未聞の出来事が起きた。9/11のテロの時でさえ、東証はきちんと取引を行なっていたというのにである。ただただ驚くばかりである。

私の仕事柄、お金についての相談や税金についての相談は切り離すことができない。そして毎度気が付くことがある。

日本人にはお金教育が足りない。小さなお金にはこだわるくせに、大きなお金の動きに気が付かないし、目が行かない。たとえば、車を購入するときにデーラーに対する値引きは厳しく行なうくせに、オートローンの金利に目が行かないというようなことである。不動産で言えば、坪単価いくらに対して注意を払うにもかかわらず、銀行で借り入れる金利に対して注意を払わない。それに付随してくる特例にも興味がない。

「月々、いくら以内で収まればよい」的な考え方で結局値引きや割安で購入したものをわざわざ金利でペイしてしまっている人がいかに多いか。金利0.1%でいったいどれだけ支払い総額が増えるのか全く知らない。その額を知ろうともしない。「月々このぐらいなら・・・」という月払い感覚で終わりにしてしまう。しかも月々の支払いをベースに平気で35年ローンを組んでしまう。

他に、税金の控除を上手に利用できない人も多い。所得税は申告しなければ割り引きはもらえないのである。建築坪単価にはこだわるくせに、住宅ローン控除に対して興味を持たない。

だから、私はできるだけ自分の顧客には総合的な支払いはどうなのかということを中心に提案をする。

先日、嫁さんが「マンガ女のお金の超常識/渋井真帆原作」という本を買ってきて読んでいた。自らそのような本を買ってくることに成長を感じたが、驚いたのはその内容である。
実によく書けている。というか、資本主義社会の日本人として当然知っているべき当たり前のことをきちんと分かりやすく説明している。女性向けということでマンガもそれらしく描いてあるが、この本は一読の価値がある。

個人的な意見で言わせていただくと、これは学校教育で教科書として取り入れるべき本である。

今までの日本人は経験論で生きていくことができた。つまり、成功のパターンを親から学び、学校から学び、ある程度中流の生活が約束された。
しかし、今はよい大学をでても就職できるわけではないし、よい会社に入社しても統廃合や不祥事で消えてなくなるかもしれない。さらには年金制度もどうなるか分からない、と中流生活を得ようとしてもそのパターンが読めないのである。当然ニートも増えるだろう。あたりまえだ。どうしたらよいか分からないからだ。経験論からしか物事を語れない親をもった子供も不幸である。

お金のことを小さい頃から勉強することが「悪・汚い」という印象を持っている人が多い。マンガではこの考えがいかにリスクのあることなのかを最初の章で説明している。

はっきり言おう。これからの時代、お金を勉強しない人は間違いなく(経済的に)死ぬことになるだろう。本の中では「資本主義社会に生きながらお金のことを知らないということは海にいるのに泳ぎ方を知らないのと同じこと」と説明している。全くうまいことを言ったものだ。今後はすべて自己責任になるのだ。

資本主義社会に生きる人間は、「自分」という会社を経営しているのと同じことなのである。納得できる人も、納得できない人もまずはこのマンガを購入して読むことをお勧めする。すばらしい内容である。
たった1260円の本を購入して人生幸せになるなら安いものだ。

 


2006.2.22 日記(その1.)

男として、かっこ悪いことは書きたくないのだが、またひとつカミングアウトしようと思う。

実は私は日記をつけていたことがある。その日記は1991年2月28日に始まり、1992年11月7日で突然終わる。そして93年2月17日に一日だけ追記している。
1991年2月は私が20歳のときである。なぜ、こんなくだらないことをはじめたかというと、来るべき就職活動で小論文や作文の問題を出されたときにきちんと対応することができるように文章力を訓練するためだった。もうひとつは新聞社や出版社に勤めようとしていたことも理由だ。国語が大の苦手だったことは以前の成績表で理解いただいていると思う。

ひとつのことを毎日やり遂げるというのはとても大変なことで、実際私は反復・継続・単純を苦手としている。しかし、この日記は一日も欠けることなく1992年11月7日まで継続できた。この日記を継続できたことは今考えても奇跡に近い。なぜなら、日記というものは情報と記憶が新鮮なうちに書き出すことに意味があるため、かならず毎日日記を書く時間を確保しなければならなかったからだ。「毎日書く」は自分で作った最も重要な目標だった。

「学生だから時間はあるし簡単でしょ?」と思うかもしれない。しかし実際は全く逆だった。学生だから大変だった。日記をつけるなら今の方がよっぽど楽だ。

たとえば、私は1991年3月は志賀高原でスキースクールのバイトをしており、タコ部屋で寝泊りしていた。一ヶ月近くのタコ部屋生活でいつ日記を書く時間を確保できるのか?また運良くオネーチャンをアパートに連れ込んだ夜はどうすればよいのだ?堂々と書けばよいというかもしれない。しかし、同級生同士、強烈な足の引っ張り合いをしているなかで「日記をつけている」という事実は絶対に連中に知られるわけには行かなかった。まちがってもオネーチャンの前で「ぢゃあ、これから僕は日記を書くから見ないでね。」なんていった日には凍り付いて二度と部屋には来ないだろう。

ちなみに、タコ部屋生活の時にはトイレの個室で、オネーチャンが来ている時には買い物に行かせて、そのあいだに書いた。志賀高原のスキースクール寮のトイレはとても寒かった。

これらの日記は、ハードカバーの美しく立派なダイアリーに汚い字で書き付けていた。ハードカバーのダイアリーは高価で、手元にある一冊には池袋東武デパートの値札が残っており、1400円になっている。1400円投資することで、「せっかく買ったんだから書くっきゃねーな」と気合を入れたのである。

記入する内容にはレギュレーションを設けており、「1.客観的出来事、2.ニュース、3.感情」の三項目を網羅するように書いた。2.のニュースは書き落としがちだったが、それ以外は大体記録できている。

たとえば、1992年5月17日。この時期は就職活動期間の真っ最中で、私はバブル崩壊後の一期生である。けっこう厳しかった記憶がある。

5/17、極めて不健康な一日。めずらしく朝に起きて損保関連の本を読み続けた。どういうわけか集中力十分でよく内容を理解できた。昼にお茶漬けをたべてさらに読み続けた。天気が悪かったので洗濯物が全く乾かなかった。シーツまで洗ってコインランドリーで乾燥させた。夜、Mさん※から久しぶりに電話があってずいぶん長く電話をした。M電機とSガスの一次面接の話をすると「今の段階で連絡がないようならもう落ちているよ。あんなもの2週間とか言っていてもまあ1週間が勝負だな」と言われて、電話を切った後不安になった。ひょっとすると、自分はひとつも内定が取れないのではないかと思った。しかしMさんは「そのうちうるさいぐらい内定をもらえるから安心しな」といわれた。その後はもう本に集中できずに夜はさっさと寝た。深夜F-1グランプリを見たが、鈴木亜久理は予選を11位と好位置でスタートしたにも関わらず、スピンをして結果11位で終わった。もったいない!チームメイトのミケーレアルボレートはまたも5位入賞でポイントを獲得している。フットワーク無限はなかなか良い車のようだ。ナイジェルマンセルがついに前人未到の開幕5連勝を達成した。

※Mさん・・・独り言「幽霊」「限りなき戦い」にでてくるM君と同一人物。

とこんな感じで書いている。私自身、この日記を読み直したのは初めてで、偶然開いたページがこの記事だった。なかなか面白いではないか。1992年5月17日は少なくとも埼玉県では天気が悪かったことは確かである。「お昼にお茶漬け」というのも貧乏学生っぽくて好印象だ。
ちなみに鈴木亜久理は今年、純日本チームを設立し、監督としてF−1に戻ろうとしている。チームメートのミケーレ・アルボレートは2001年4月26日、ルマン出場予定だったアウディR8のテスト中の事故で惜しくも亡くなっている。このような地味な日のことはすっかり忘れていた。

記憶力には自信があるほうだったが、読み直してみるとすっかり忘れていた事実がいくつもある。就職活動中の体験は貴重であり、いつどこでどの会社の面接を受けて、誰と話をしたか克明に記録してある。莫大な量なのでちょっとずつしか読めない。

なぜ、突然11月7日で終わってしまうのか?これはまた次回。

 


2006.3.17 日記(その2)

11月7日の日記は途中で書き終わっている。書いている途中でそれ以降書くことができない何らかの理由が発生したのだ。

これについては自分自身が一日だけ追記した2月17日に説明していた。

93/2/17、久しぶりに日記を書く。11月7日の日記は途中で終わってしまっている。ふと思い出したように日記を書くのは楽でいい。11月7日の日記は一週間近く遅れた上に、すでにおぼろげになっていた記憶を元に書いていたのである。しかも、これを書いているあいだにまたMが帰ってきた。これでは日記をつけることができない。」

こうしてみると、誰か他人に読ませることを前提に書いているかのようである。実際、客観的に書こうという気持はあった。

結局、追記したとおり某女性がアパートに出入りするようになり、日記を書くことができなくなってしまった。それに加えて就職活動も終わり、トレーニングとしての日記も意味を成さなくなっていた。

しかし、この日記は私にとってかけがえのないものになった。ほとんど読み直していないが(莫大な量なので多分死ぬまで全部を読み直すことはないだろう)、学生同士の微妙な駆け引きや、付き合いのあった女性に対する気持ち、歴史上の重要な出来事と自分の生活のリンクが確実に、且つ正確に取り出せるのである。
当時、この日記はあくまでトレーニングであり、誰かに読ませることは想定せずに書いていた。感情については丸出しで書いている。書く必要のない極めて個人的なことにまで書き付けている。あまりに個人的な情報の蓄積だが、これまで部屋にだれでも読める状態で転がしてあった。

最後に書いた日から今年で15年、あっという間だったが、それでも実際に15年という年月は短くない。人生70年と仮定すれば21%近くの時間だ。

私にとってこの日記の存在は何か。

今後何年過ぎようが、この日記がある限り、私はいつでもバブルでむせ返っていた1991年に帰ることができ、懐かしい友達や若気の至りに満ちた20才の自分自身に会うことができるのである。

 


2006.4.20 脳力革命

任天堂DSの影響か脳力トレーニングが流行っているようだ。私もこの分野については色々な文献を読み漁っている。というのも、現在の私の最重要課題は来る資格試験を確実にクリヤーするということだからだ。

今年は早々に子供が生まれて、しかもこういうときに限って仕事も増えるのである。睡眠時間と勉強時間は削らざるを得ない。おかげさまで機関車の工作はもはや不可能というレベルまで来ている。しかし、時間が減ったからといって、子供が生まれて大変だからといって試験は待ってくれない。

時間が減るなら効率を高めようということで、私も脳力革命プロジェクトを計画した。平成12年以降、毎年何かひとつ国家資格を・・・と決めて勉強をしているが、脳力は必ずしも難しい勉強をしているから活性化するというものではないようだ。毎年試験を受けていると自分でもその事実を受け止めざるを得ない。20代後半は数回読めば頭に入ったものが、なかなか入らない。何度やっても解答できるようになり、もう大丈夫と次へ進むとすぐに忘れる。ただでさえ平均以下の脳みそはすでに腐敗が始まっているようだ。

ある学者はこういっていた。「人間の脳力が最も発達するときは言葉と数字の概念が理解できたときである。つまり1歳から1歳半のころである。革命的な脳の発達は遺伝子レベルでプログラミングされており、単純な計算および音読をすることによってプログラムが再起動するのである。単純な計算・音読は年齢を問わず確実に脳を活性化させる。」

そうか・・・。法律の勉強していることは脳の活性化にならないのだな。ならばということで私も最新兵器を投入することにした。

それが写真の兵器である。セガトイズが出している携帯脳力トレーナーという。セガが直売しているものは白か黒のようだが、私のものは昭和ノート株式会社(ジャポニカ学習帳の会社)がOEMで販売しているものだ。だから緑色で製品の上に「ジャポニカ」と書いてある。

大きさは40mm×80mmでとても小さく、私はスーツのポケットに忍ばせてトレーニングしている。モードは3種類あり、ひとつは足し算・引き算・掛け算がランダムに出てきたものを100問解答するトレーニングモードというものである。全問正解したものだけが記録される。

もうひとつは次々と出てくるランダムな数字の1番目と3番目の数字を次々に足して入力するチャレンジモードというものである。たとえば1,5,8,9,3・・・・と出てきたら9,14,11と入力する。これはとても難しく50問連続正解しなければそこで終了してしまう。画面上の数字は常にひとつしか表示されないので、足し算をしながら数字も記憶していかなければならない。

そして最後は10桁の数字を最長60秒以内で記憶し、数字を入力するメモリーモードである。これもすごく難しい。

難しいが楽しいのである。ボタンが小さく押しづらいので誤入力もあるが、脳力革命が目的なのでスコアーを求める必要がない。

このトレーニングを始めて私の勉強の効率は飛躍的に上昇した。結果というよりも、脳のコンディションがつかめるようになったのである。たとえば、朝目覚めて寝ぼけたまま100問の計算を行なうと、集中しても3分ほどかかってしまう。私の場合は2分20秒前後でいつも解答できるので、脳はきちんと働いていないことが判明する。
10桁の記憶が抜群にできるときはやはり勉強をしていても頭によく入る。10桁の記憶の調子が悪いときは勉強をやめて別のことを行うようにするのである。

どうしても脳の調子が悪いときに勉強しなくてはならないときは、100問計算を5セットぐらいやると活性化してくる。

つまり、顔色や体調とちがって外観で見えない脳のコンディションを数値で教えてくれるのである。こいつは便利だ。毎朝体温計で体温を測るように脳力を測ることができる。

今、私の人生を左右する脳力革命はこのようにして行なわれているのである。

 脳力トレーナー http://www.segatoys.co.jp/brain_trainer/index.html

 


2006.5.20 理想的な葬式について

35歳を過ぎて少し考えたことは、「これで人生の半分は既に終えたのだ」ということだった。
私の世代は飽食の時代であり、電磁波やら添加物をたくさん吸収して育っていることも考えると70歳まで生きていれば幸せなほうだろう。
医療技術の進歩はめざましいものがあり、私が70歳になる頃には平均100歳を超えているかもしれない。ただし、生物として極自然な「歩いていられるかどうか」を基準に考えると70歳が精一杯と予想する。
とすると36歳は水泳で言うとターンして残り半分が始まったところである。あと34年生きるとしても「けっこう短いな・・・」という印象だ。6年でライブを一台作り上げたとしても残り6台。6台目のエアーテストに差し掛かったところで死を迎えるぐらいになる。

計画は早い段階に進めた方がよいものができるということもあり、私なりに理想的な葬式を考えてみた。
結婚式もそこそこ面白くまとめたつもりだが、葬式にはもっとこだわってみたいものだ。生前葬に極めて近く、且つ本人が死んでいるというのが理想だ。

まず、ぜひ準備しておきたいモノは遺影の写真である。
そのためというわけではないが、私は中学生3年の生徒手帳以降、全ての証明書写真をきちんと残している。しかもそれらはスキャナーで読み込んであり、いつでも葬儀に使えるようになっている。幸いにも資格試験を受けるときには証明書写真を撮るので、それらもスキャナーで読み込んでいる。
年代別に並べてみると、我ながら顔の変化が面白い。幼い頃は顔の縦横比が横1.2:縦1.0だったものが20歳に近くなると縦1.2:横1.0になり、30代になるとまた昔の比率に戻っていく。私はナルシストではないと信じているが、楽しいものは自分のものでもネタにしている。
これらをデジタルデータにして遺影に年代別にならべ、数分ごとに写真を変化させる。棺おけの窓からのぞく実物の糞じじいの顔のやや上に坊主頭の15歳の写真があったらまず来賓は笑うだろうな。

できれば、お葬式のスピーチを動画で残しておくのが良い。お寺のオーロラビジョンにはこのような映像が流れる・・・・

葬儀屋: それでは故人の最後の挨拶がございます。ご覧ください・・・・
私(故人) ゴホ、ゴホ・・・・エヘン。 
アー、本日は・・亡きわしの葬儀のためにわざわざお集まりいただき感謝しております。
生前は・・・、ずいぶんお世話になりました。思えば・・・
中略〜
というわけで、簡単な食事と酒を用意しておいたので、おくでゆっくり食べていきなされ。
三途の川で待っておるぞ。
葬儀屋: 故人の最後の挨拶でした。
故人はどうしても最後は自分で挨拶をしたいという強い意向があり、はなはだ斬新的ではございますが、このような形式を採用しました。
故人の最後の意思を尊重できたのではないでしょうか。
ブチッ! 突然、遺影の電源が入る・・・
私(故人) ああ、そうじゃ。大切なことを言い忘れておった。
わかっているじゃろうが香典は最低30000円おいっていってくれな。
葬儀屋: ・・・・・・・・
来賓代表:

というのはどうだろう。ちょっと楽しい葬式ではないか。

まあ実際にこれを実行しようとしてもなかなかうまく行かないだろうな。なんたってデジタルの時代だからね。

多分、うちの嫁さんか、息子が私が昔から録り溜めた「葬儀用ベストセレクト〜プロモクリップ集」というDVDを再生機器に入れたとたん、

 

 

 

 

 

 

ポーン♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オヤジ!こんな古いファイルは再生できねーよ!」

 

で終わるんだろうな・・・・きっと。

 

 


2006.7.22 ことわざ

昔からよく言われる「ことわざ」だが、最近とても気になっている。「ことわざ」には根拠がないものがほとんどだと思っていたが、ことわざのとおりに生活するよう心がけると、いろいろなことがとてもうまく行く。
「いそがばまわれ」やら「驕れるもの久しからず」などは特にそうで、自分の周りにいる人も含めて観察しているとまさしく「ことわざ」のとおりになる。

そして私は考える。「実はとても科学的な統計に基づいたものではないか」ということだ。以前ロン・クラーク著「50のルール」を紹介したことがあったが、これも「アメリカ版:ことわざ」的な内容に近い。

「昔から言い伝えられてきたこと→莫大な人の検閲を経ている」ということになり、「大数の法則」に基づいているかもしれない。

ことわざを勉強して、謙虚に従うことは幸せな人生を送るための近道かもしれない。

 


2006.7.22 不動産の傾向と対策(その1)

このホームページは趣味のものなので、あまり仕事のことを書いても仕方がないとは思うのだが、私の持っている情報と知識が世の中のためになるならたまには良いかと考えて、今回は不動産ネタにした。

ライブスチーマーには土地持ちが多いようなので、多少とも参考になるかもしれない。

仕事上、「不動産を購入しようと考えているのですが今後値上がりしますか?」と聞かれることはほとんど毎日といっても良いほどである。そのとき、私はいつもきっぱりこのように答える。

「99%値下がりするでしょうね。繁華街の一等地でなければね。」と。

するとお客様はみな不思議そうな顔をする。不動産を商売にしている人間が「値下がりすること間違いない」といっている事実がそうさせるのかも知れないし、あるいは、「景気が上昇傾向にあるのに、なんで下がるなんていうのかしら。東京ではバブルのようだといっているのに」という情報によるものかも知れない。

「東京都内ではバブル」は間違いないし、確かに価格が上昇しているところもないわけではない。しかし、日本のほとんどの不動産は圧倒的に値下がりしている。99%といえるかどうかわからないが、東京都心および6大都市圏のごく一部の上昇率が底上げしている以外全面安の状況である。

ではひとつ例を挙げよう。平成9年の全国平均地価公示価格(新聞で発表されるもの)を100として、平成18年現在の指数はいくつだろうか。
全国平均値でおよそ70である。バブル崩壊が平成3年でそれから6年経った数値を基準にしても30%値下がりしている。下落率トップは千葉県である。

土地の下落の原因はとても多く、全てを語るのは無理もあるが一番簡単な解答は「需要が減っている」ことに他ならない。それを構成している原因は

@少子化
A核家族化の終焉
B増えすぎた集合住宅
C土地の維持費の高騰
D金融資産の多様化

あたりだろう。

上昇している土地の「原因」もバブルの時の上昇とは内容が違う。現在の6大都市圏のさらにその市街地の価格の上昇は、個人の売買によるものではなく、不動産証券化等機関投資家によるものがほとんどである。実際、上昇したところは住宅用地ではなく、商業地域である。

そもそも、「住宅用地」に資産価値などなかったはずなのだ。「土地神話(持っていれば必ず上昇する)」という根拠のない解釈によって不動産は価格を維持していたのである。

(続く)


2006.8.23 不動産の傾向と対策(その2)

なぜ、住宅用地はこれまで価格を維持できていたのか。それは先ほどのもっとも単純な解答の逆である。つまり「需要があったから」である。
しかし、自分の周辺を見ていただきたい。たとえば、私自身、自宅を持っている。そして私と嫁の両親もそれぞれ家を持っている。その両親のさらに両親も家を持っている。みな二人暮しである。

死んだらどうするか。「そのまま持っていれば良いではないか」と思うかもしれない。しかし、これは後から述べるが、今後、更地の不動産の維持費はかなり高騰することは間違いない。結局使用する見込みのない土地は売却せざるを得なくなる。前回のAの事例である。

住宅用地でいわゆる「良い土地」というと、「南向きの角地」・「地型が良い」・「駅から近い」などが揚げられるが、残念ながら「住宅が欲しい」という人間が減れば、確実に価格は下落する。

有史以来、初めて人口が減るということはとても大きな事件なのである。あと30年もすれば地方を中心に不要になった住宅の売り物件だらけになるだろう。そして購入する層は圧倒的に少ないのである。需要と供給のバランスが著しく狂うことになる。

それでは、集合住宅の基本である分譲マンションはどうだろう。マンションは圧倒的メリットとして「立地」が挙げられる。戸建住宅では価格が高すぎるような立地を、マンションを購入することでコストダウンするという考え方は理にかなっている。

しかし、マンションは住宅である。収益は生まない。現在マンションを購入している世代は若年層と退職世代に限られている。ということは20年から30年後には戸建住宅と同じ問題が発生する。
つまり、不要な集合住宅がたくさん売りに出るわけである。その頃には前述のとおり、住宅地価格など今の基準から考えられないほど安くなっているため、築20年も経った集合住宅をわざわざ購入する人は皆無になるだろう。

売りたくても買う人がいなければ当然売れない。空き室があっても管理費・修繕積立金・固定資産税は必ずかかるのでそのお金を捻出しなければならなくなる。そうすると賃貸するしか方法がなくなる。
伊豆のバブル時代に作られたリゾートマンションの価格を調査していただきたい。わずか300万円ほど出せば手に入れられる。それでも全く売れない。なぜか?

管理費が月々6万近くかかるからである。それなら借りたほうが安い。分譲マンションは住む人が少なくなれば、その管理費・修繕費を補填するために滞在し続けている入居者の負担が増えていくのである。いわゆるマンションのスラム化である。

こうなると困ってくるのが賃貸アパート・マンションである。賃貸アパート・マンションは農家が建築会社の言うとおりに相続対策と収益対策を目的に作っているので、分譲住宅とは雲泥の差がある。グレードが異なったとしても賃貸住宅と分譲住宅の家賃価格にそれほど差がつけられるわけでもないので、賃貸用集合住宅に住むなら分譲住宅の賃貸物件に住んだ方が圧倒的に快適だろう。

建築会社が試算した相続納税額はまず当てにならないので35年の超長期ローンで賃貸住宅を所有してる地主はまず払えなくなる。

しかも、この問題はすでに地方では発生している。先祖代々の資産を守ろうとしたことが裏目に出て競売になっている。
ちなみに先ほど述べた「地方を中心に売り物件だらけ」についても地方の奥田舎ではすでに発生している。

これらの話は私の主観による将来の予想ではあるが、すでに兆候は見えているのである。

 


2006.8.23 不動産の傾向と対策(その3)

次に前述した不動産の維持費がなぜ高騰するのかについて述べようと思う。それには介護保険を理解しなければならない。介護保険はきたるべき超高齢化社会の介護費用を自分で積み立てて・・・という目的であるが、その財源は消費税や所得税などの国税から捻出されるのではなく、市町村負担なのである。

市町村負担ということはその歳入は固定資産税(固定資産税は市町村税です。)中心となる。固定資産税は安くなる傾向にはないのである。万が一、長期計画で固定資産税を下げていこうとしている市町村があったとしたら、破綻したどこかの市とおなじようになってしまうだろう。この点で不動産というのはお金を徴収する側にしてみればとてもうまみがある。

最後に、「住宅を所有する」ということはどういうことなのかについてである。住宅をもつ理由はさまざまで、とても夢のあることだ。
しかし、以下の点には十分注意しなければならない。

 

@ 自宅の土地・建物に資産価値を求めてはいけない
次に売るときには高く売れるだろうなどとは考えてはいけないということである。そもそも自分専用に作る家など他人からすれば何の価値もない。
A 自己用住宅は収益を生まないものであることを理解する
住宅が生むのは生活のゆとり、楽しみであり、それらは金銭に換算できないものである。間違っても金銭を落としてくれるわけではない。
B 自分の生活水準以上のものを借金して作らない
生活のゆとり、楽しみのために必要以上の借金をしない。途中で売却しなければならなくなるようでは生活水準以内ではないということである。

 

少しは興味を持っていただけたかしら?

 


2006.9.13 プラモデル

 工作再開をトップページで宣言したのは良いが、障害は相変わらず多い。
子供が生まれることを想定して家を建てたわけではなかったので、間取りに致命的な問題がある。

それはガレージ(兼工作)の上が寝室になっており、そこで嫁と子供が寝ているからだ。私の家は幹線どおり沿いなので、昼夜車の走行音がやかましい。防音加工した部屋はこの部屋だけなので、他の部屋で寝させるわけには行かない。
しかも、ガレージの天井は天井高を稼ぐために、二階の床板がむき出しになっている。つまり、ガレージの物音は寝室まで筒抜けなのだ。

「赤ん坊を寝かしつける」という作業がいかに重労働で大変なことか身にしみているので、子供が寝た後に工作するのは不可能である。2.6mmのドリルを土間コンの上に落としただけで「エヘッ、エヘッ・・・」と子供が泣き出すことが目に見えている。
週末の時間を利用して工作をせざるを得ない。
  そんなこともあるため、トップページのテロップを「再開しますよ!」から「再開しますよ?」に変更しておいた。

さて、本題のプラモデルだが、ライブスチームをはじめてからというもの、壊れやすくて取扱注意のプラスチックモデルは、まったく作ることがなくなった。どうせ作っても引越しの時には処分することになる。

 数年前に、ある知人のお父様が残されたプラモデルをいくつか頂いてストックしていたが、これが最近趣味の時間を占有しつつある。なぜなら、プラモデルは、安価で、すぐに完成し、音が出ないからである。朝、出勤前のわずかな時間を費やすだけですぐに完成する。
近年はコレクションケースが市場で手に入るので飾るにも困らない。
個人的には引越しのリスクもなくなったので完成してからの取扱にも困らない。

今の私にとってプラモデルは理想的なマテリアルなのである。 

プラモデルと同時に、仕掛け品だったNゲージの機関区モジュールレイアウトも製作している。これは8年ぐらい前、レイアウトボードにトミックスのターンテーブルと扇形機関庫を取り付けただけで終わってしまっていたものだが、これを完成させるべく作業を進めている。ストラクチャーはそのときにほとんど仕上げていたので、小物の製作と地面を仕上げればよい。

 音が出ないのでいつでも工作できる。それに加えてうれしいのが、来客がこれらの仕掛け品を見ると、「すごいですね」と褒めてくれることだ。ライブの仕掛け品はただの材料にしか見えないようで、「よくわからない」といわれて終わってしまうが、Nゲージやらプラモデルというのは全体像の把握が簡単でわかりやすいのだろう。作りかけの機関区レイアウトセクションはしろうと目にもかなりインパクトがあるようだ。

写真はだいぶ前に完成させた「アリイ」の1/32スズキフロンテSSである。とても小さなプラモデルだが昔父親が乗っていたこともあり、懐かしい車のひとつである。

 


2006.9.20 夕張市石炭の歴史村

夕張市の破綻に関連して、石炭の歴史村にある「SL館」が閉鎖になるという。私はこの施設がけっこう好きで、北海道に渡ったときには可能な限り訪問している。
最後に訪問したのは、2003年のお正月で、石炭の歴史村はきちんと営業していた。ダイヤモンドダストが降る石炭の歴史村をほとんど貸しきり状態で見学できたのはラッキーだった。町のあちこちに「バリバリ、夕張」と書いた横断幕が張ってあったことを思い出す。

2003年のお正月は残念ながら、SL館は休館だったが1999年夏に北海道を放浪した際に見学したことがある。ここには夕張鉄道の14号機(自社発注機)と国鉄から払い下げられた4号機(9600のスローピングテンダー)が保存されている。当然極上のコンディションである。見かけだけきれいにしてある機関車と異なり、中まできっちりと整備されている。屋内保管であることもとても理想的である。

この機関車達がどのような運命になるのか?何とか解体されることなく救われて欲しいものである。

石炭の歴史村は遊園地と博物館のハイブリッドになっている。遊園地としての魅力より、夕張炭鉱を再現した博物館の方が楽しめる。おそらく、普通の子供が遊園地と博物館とどちらが楽しいかと聞かれたら通常は遊園地と答えるであろうが、ここは博物館の方が楽しかったといってもらえるだろう。

博物館は炭鉱跡地(一部本物)を探検するような作りになっており、階段やエレベーターで地下へもぐっていくと湧水があったり、ひんやりとした炭鉱の雰囲気が良く伝わってくる。
おもしろい演出として、地下坑道へ下りるときにはヘルメットとヘッドライトを貸してもらえる。見学距離もかなりある。

ボタンを押すと、削岩機や石炭を運び出すコンベヤーなどが轟音を立てて回りだす。そして、テープに録音された炭鉱職員の会話が流れるようになっている。1/1の当時の生活を再現したジオラマがなかなか良い雰囲気をだしている。楽しめる一方で過去、炭鉱で命がけで働いた人に対しての尊敬を抱くことができる。事故に対してもきちんと説明されている。

 

坑道にて・・・左蝋人形氏、右筆者。よい子はまねしないでね。

私にとってはとても楽しく興味深い施設であった。もちろん、SL館がなくなっても反復継続して訪問したい施設である。

日本全国の静態保存蒸気機関車を散策してきたが、北海道の機関車はどれもとてもコンディションが抜群によい。冬場はシートをかぶせてあるものがほとんどであり、街中にある機関車も例外なくとても大切にされている。

北海道は日本の歴史上、二番目に蒸気機関車が走ったところであり、また最後に走ったところでもある。その生活は鉄道と切り離すことはできなかったはずだ。公園で保存されている機関車のコンディションを見る限り、北海道民は蒸気機関車に対して感謝と誇りを持っているように感じる。

夕張市の現在の状況を考えれば、SL館の閉鎖もやむをえないのかもしれないが、「石炭の歴史村」という名の施設に「地元に貢献した蒸気機関車」がいなくなるというのは誰がどう考えても不自然である。他の施設の売却や(売れないだろうけど・・・)閉鎖で何とか調整できないものかとつい考えてしまうのである。

世の中、良いものからなくなっていくことが多くてね。納得いかないよまったく!

 


2006.11.1    風前の灯

先日、ライブスチームのイベントで福知山へ出かけた。福知山駅は昨年まで地上駅舎だったが、今年はすでに高架化が終了しており、「鉄道の町福知山」を思い起こさせるような豪華な施設は既に撤去されていた。

旧地上路線の用地は更地化が進んでおり、特に駅南口はかなり工事が進行していた。工事現場は高さ2.5m以上はあるかと思われるフェンスで仕切られており、その進行状況は確認できない。

年に一回、福知山で集まる仲間たちと懇親会のために駅南口にでた時、その仲間の一人がつぶやいた言葉だった。「おぉ、まさしく風前の灯だ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たのむよ・・・・。


2006.11.13    マイホームパパ

自分が父親になって以来、理想的な父親とはどのようなものかと考える。しかし答えは永遠に出ないだろう。

私の父親は典型的な企業戦士だった。出張が多い仕事だったこともあり、ほとんど家にいなかった。実際キャッチボールは母親とやっていた。自慢ではないが、家族四人そろってどこかへ出かけたということは親戚の葬式も含めて結局一度も無かった。(実はいまだに実現していない)
そして、私の父親はまだ第一線で仕事をしている。そして相変わらず出張を繰り返し残業をしている。

そのお陰というか、父親と遊んだ回数はとても少ないので逆に鮮明に記憶に残っている。

私の育った近所には公務員を父親に持つ友達が多くいたので、夕方6時に家族で夕食を食べているのを見るととても不思議な気がしたものだ。我が家ではそれはとても珍しいことだったのだ。

少し前の私にとって「よき父親」とは「子供と良く遊び、家庭を大切にする」というものだった。いわゆる「マイホームパパ」である。

今から10年ほど前になるが、私は当時保険会社に勤めており、3年ほどで日本全国に転勤、月120時間以上の残業をあたりまえにサービスで行なっていた。
ある時、同じ課の同僚が結婚することになり、支店長(損害保険会社の支店長は役員クラス)が当然のように仲人を勤めた。そしてその「仲人たる支店長」が結婚式でおこなったスピーチは生涯忘れられない。内容は以下のようなものだった。

「前略〜えー、新郎の○○君は結婚して家庭を持ったら『スポーツジムに夫婦で通いたい』とプロフィールに書いていますが、残念ながらわが○○海上火災保険の社員にはそんなヒマはありません。といいましょうか、私はそんなことを許可するほど甘い上司ではございません。『よき父親』というものは『マイホームパパになれ』という意味ではなく、『きちんと家族が困らないだけの所得を家族に提供すること』こそが父親の役割なのであります。」

とまあ、そんな内容だったのだ。このスピーチを聞いたときにはまったく呆れて「長く金融機関に勤めているとまともな人間の感覚はなくなるのだなぁ。親族の前でよくもあんなスピーチができたものだ。最低のおっさんだなこりゃ・・・」とこの会社に勤めている間は絶対に結婚なんかするものかと心に誓ったのだった。

しかし、考えてみれば公務員や準公務員のように家庭に時間をついやすことができる人は労働人口のうちの極わずかで、コストカッターが幅を利かせる現在の民間会社では最小限の労働力で最大限のパフォーマンスを発揮しているため、一般的にほとんどの父親が転勤を繰り替えし残業をしている。労働基準監督署の指導で見た目の残業が減っていたとしても実際は家に持ち帰って仕事をしているのがオチである。家庭を省みたくても、仕事自体がなくなってしまう可能性があるので選択肢は無いのである。

今では、当時の同僚の結婚式で支店長が行なったスピーチの内容が「あながち間違っていないかな」と考え始めている。ま、かなり極端ではあったが!

というのは、最近ニュースで話題になっている『二極化』のことがあるからだ。統計的に所得の少ない家庭は子供の教育費がかけられず、結果的に次の世代も所得が低くなる傾向にある。確かに高学歴の子供や日本でトップクラスの企業の従業員の育った環境を調査するとその父親の所得も高かったというデータもある。

つまり、家庭を犠牲にしても所得をいれられる父親の方が統計的に成功しているのである。もちろん、マイホームパパで且つ所得が高いというのが一番良いに決まっている。しかし実現は極限られた人にしかできない。

自分が父親になって、どうしたら子供を「自分のようにまともではない人間」にならないように育てられるかを真剣に考えるようになり、いろいろな父親(すでに子供が成人したお父さんたち)に意見を求めるようになった。

数年前、あるライブスチーマーから私は言われたことがあった。「子供をちゃんと育てるには朝ごはんを家族で食べることです。これだけを最低限守れば子供はまともに育ちます」と。そして、たくさんの人に意見を求めた結果、この回答をする人、またはこれに近い回答をする人がかなり現れたのである。

さらに回答をしたうちの一人からこのようにアドバイスされた。「昔から言うでしょ?『早起きは三文の得』ってね。朝ごはんでなくても朝一緒にランニングするとか、犬の散歩に付き合うとか、そんなもので良いんですよ」

あさご飯を一緒に食べる・・・。私にはできそうである。よきアドバイスに感謝していますよ!!


2007.1.27 CS

私が住んでいる静岡市には世界に誇るタミヤ模型の本社がある。

本ホームページのテーマであるライブスチームは滞りがちである。その理由は本編にも書いたとおり、音の出ない作業が中心となるプラモデルに作業がシフトしているからである。
プラモデルやラジオコントロールカーは私の世代にはとてもメジャーな趣味だったが、最近はもっぱら中高年の趣味となっており、そのターゲットの中高年は工作する時間が取れず、販売苦戦を強いられている。

タミヤ模型も最近はキットだけでなく完成品を販売している。相変らず商品ラインナップも多く、内容もすばらしい。

私がこのところ工作しているのは自動車のキットである。F1グランプリシリーズという1/20のフォーミュラカーと、1/24の箱車を交互に作っている。
特に、F1グランプリシリーズは70年代から現在まで販売され続けており、そのラインナップはF1の歴史そのものである。もちろん古いものはスポット生産を除き絶版になっている。

先日、フェラーリ312T3のキットを入手した。1978年のF1マシンでロイテマンとビルニューブがドライブした車だ。
残念ながら私が入手したものは当時のものであり、デカールは30年近くの経年変化ですっかり使い物にならなくなっていた。ホワイトのデカールは黄色になっており、ところどころひび割れもある。

タミヤ模型の本社は本社機能・歴史館・模型販売ショップ・実車ギャラリーが一体となっており、ちょっとした博物館並みの設備を誇っている。本社機能が基本なので土・日・祝日は休みである。
つまり、タミヤが所有している実物のF1マシンやタミヤの歴代キットを見学できるのは平日の営業時間中だけである。静岡市に住んでいる私にとって、平日のタミヤ本社を訪問することは難しいことではない。

タミヤ本社はとても美しい建物で、建物の前には小さな池があり、そこでは鯉が泳いでいる。階段を上がると大理石で作られたかなり広いロビーがあり、お姉ちゃんがきちんと制服を着て対応している。右手の奥にF1マシンやバイクがあり、左の奥には歴史館がある。

ある平日、仕事中でスーツにネクタイの私は小脇に「何年も前に絶版になったフェラーリ312T3」のキットを抱えて、その本社ビルを訪問した。もしかしたら、補修用パーツを直接販売してくれるかもしれないと思ったからである。プラモデルは通常、破損したパーツのみを注文買いすることができる。大抵は組み立て説明書の隅っこについている券を送付する。

しかし、どう考えても絶版になったものまで置いてあるとは思えなかった。

受付のお姉ちゃんに「もしかして・・・補修パーツをここで直接販売してもらえたりするかなぁ・・・と思って・・・」と相談すると、「基本的に直接販売します。ただ、このキットはだいぶ古いものですから在庫があるかどうか分かりません。お待ちください。」といわれた。お姉ちゃんは箱に書いてあるアイテムナンバーを電話で確認して対応を始めた。

直接販売していることに驚いたが、私はロビーにあるソファーに座って待った。ソファーは一人がけの椅子がサイドテーブルで連結されているタイプのもので、そのテーブルにはタミヤ製品の戦艦のプラモデルが置いてある。待っている間、その箱を手にとって中を見ることができるので退屈しない。
「んー、戦艦のプラモも悪くないな。今度つくってみようかな。」などと考えていると、受付のお姉ちゃんから「たまいさま」と声がかかった。

「とてもよかったです。デカールの在庫がございました。○○円です。」と新品の美しいデカールが届けられた。しかもとても安い。「こんなに前のものでもあるのですね?」と聞くと、「毎回あるというわけではありませんが、できるだけ置くようにしています。せっかく購入されたものが完成できないのでは困りますからね。」と嬉しそうに答えた。

私は新品のデカールを購入できたことでとても満足して本社を後にした。

この話を自分の会社に出入りしている模型暦40年のモデラー税理士に話をした。すると彼は言った。

「私も記憶がありますよ。私が小学生の時で、まだタミヤの本社が木造平屋建てだった頃の話です。地元のお祭りの的屋で戦車のプラモデルを買ったら、大きなパーツが入っていなかったんですよ。
的屋のものですからまともなものであるほうが不思議なくらいなんですけど、父親と一緒にタミヤの本社へ行きました。理由を話すと『大変申し訳ない、しばらくお待ちいただけないか』と丁寧に謝罪されましたよ。時間にして20分程待ったと思います。そうしたらその戦車のパーツがホカホカの状態で届けられました。多分、その場で成型したんでしょうね。子供ながらにとても感動しました。
タミヤはそういう会社なんですよ。一人のモデラーをとことんまで大切にする、これがタミヤの姿勢なんでしょうね。」


2007.3.20  退職

3月20日私は人生で2度目の退職をした。次は自分で仕事を開業する予定なのでおそらく最後の退職になるだろう。

最初に勤めた会社はあまりにお堅い商売だったため、退職にはかなり勇気が必要だった。誰もが名前を知っているような会社に一度でも身を置いてしまうとなかなか転職はできない。今回は二度目なので勝手を知って気楽なものである。ま、収入がなくなるというのは厳しいが!

私は出鱈目で、思いつきで生きているように感じられることが多いが意外と慎重派である。
そう思われてしまう理由は、前兆なく急激に決断をするように見えるからだろう。自分ではシナリオをつくっているので、「よっしゃ!今がチャンス」と乗り換えるのだが、他人にはシナリオが見えていないのでやむをえないのかもしれない。

今回の退職は小さな会社だったので辞令交付もなく、極ありきたりの仕事をして終了した。仕事をやめることをあまりたくさんの人に伝えていなかったが、複数の取引先が色々なお祝いやらプレゼントをおいていってくれた。

以前、このHPの番外編に掲載していた私の昭和60年式AE86「スプリンタートレノGT−APEX」は前の会社を退職したときに取引先の社長からプレゼントしてもらった車だった。
「餞別のかわりにもって行け」とただでもらってしまったのだ。実際には抹消登録が紛失していてかなり厄介な代物だったが、いまでは大切な宝物である。

今回は新しく事業をはじめるという目的で退職したが、そのきっかけを与えてくれたのは実は餞別たるこの車だった。車が私に動機付けをしてくれたのである。
私はこの車の登録を抹消しており、近年はガレージの邪魔者になっていた。大切な車であるが、公道を走れない車など単なる邪魔者になるだけである。ライブスチームの置き場所に困っているので、なんども手放そうと考えていた。

それはたった一本の電話から始まった。お正月のことである。
以前お取引をした某司法書士から私の携帯に電話があったのだ。「たまいさんって確かAE86を所有していらっしゃいましたよね?今度クラブを設立するのでメンバーに勝手に入れておきました。」と。そのハチロククラブに今回の退職を決断させたのキーパーソン氏がいたのである。

そのキーパーソン氏は私がなんとか出会えないものかとターゲットにしていた人物であった。氏のHPを拝見しながら「んー偶然出合ったように根回しするか・・・」と考えていた。

人の輪というのは不思議なもので「ハチロク」と呼ばれるこの車が勝手にお膳立てをしてくれたのである。このように自分の力ではなく運命でキーパーソンと出会えるときというのは大抵チャンスと考えてよい。そこで辞表をだすことが決定的になった。最初の電話が新年の決意をする時期だったというのも何とも不思議だった。

最初の会社を辞めるときにいただいた車が次の会社を辞めるためのモチベーションになったのだ。

今日、仕事が終わった後、キーパーソン氏から電話があった。「退職おめでとうございます。いよいよですね。時間があるようなら会いましょう。」
キーパーソン氏は私に退職祝いとしてプレゼントを用意していた。「退職おめでとうございます。これからは一緒に頑張りましょう。」という言葉とともに受け取ったのはDVDの入った4冊の本だった。

一般的にそれらの本は「エ○本」と呼ばれる18禁の本である。さすがキーパーソン氏。よくおわかりである。


2007.6.27  父ちゃんのポーが聞こえる

掲題は映画のタイトルである。つい最近、あるライブスチーマーからビデオをお借りして何十年も前の欲望を達成することができた。
以前、「隠れキリシタン」で「隠れ鉄道マニヤ」であったことを書いたが、この映画にも暗い思い出がある。昔のことを書いてどうなるわけではないが、「隠れキリシタン」の評判が良い(驚いたことに隠れ鉄道マニヤはかなり存在することが分かった)ので、この事実も書いておこうと思ったのである。

私が中学二年、1984年のことである。

当時、学校の授業の一環で「名作」の映画を鑑賞するというものがあった。ビデオを上映するのではなく、体育館にスクリーンを張って、業者が映写機をセットし、全校生徒で鑑賞する大掛かりなものである。当時ビデオデッキは高価で、なかなか所有している友達はいなかった。

この映画鑑賞会の上映作品は、全校生徒の無記名リクエストによって選ばれた。もちろん、映画なら何でもよいというわけではなく、学校が指定した5タイトルの中からリクエストするのである。その5タイトルの中に「父ちゃんのポーが聞こえる」が含まれていた。
「父ちゃんのポーが聞こえる」はある鉄道誌に紹介されていたのでタイトルのみ知っていた。国鉄の全面協力により制作されたもので、最初から最後までC56が出演しているという。それならどうしても見たくなるではないか。

他のタイトルにはリクエストする前からおそらくトップになると予想された「野菊の墓:主演松田聖子」があった。当時松田聖子はトップアイドルだった。余談だが、この時点では整形手術前の一重まぶたである。

ビデオがとても高価で珍しかった時代である。私はなんとか「父ちゃんのポーが聞こえる」を見てみたかった。しかし、宿敵「野菊の墓」はビッグネームだった。

私はまず、どのように集計が行なわれ、誰が決定するのか、また先生の意向はどのように反映されるのかを調査することにした。一般的に投票によるものは事前調査が重要なのである。
そして調査の結果、生徒会が開票し、多数決で決定することになっていることが分かった。さらには5タイトルに絞り込んだ時点で学校の意向は反映されているので、先生に対する根回しは特に不要であることが分かった。
もし、生徒会と開票の結果が「野菊の墓」であっても先生の意向がそれを上回る影響力があるというのなら、私は力のある教師にワイロでも何でも贈ったであろう。

私の描いた理想のシナリオはこうだった。

その1.「野菊の墓」以外のタイトルに票を可能な限り振り分ける。
その2.その為に野菊以外の映画の魅力を書いた解説を作成する。
その3.頭ひとつの僅差で「父ちゃんのポーが聞こえる」が選ばれる。

また全校生徒のなかで私の言うことを聞きそうな下級生にも圧力をかけることにした。同級生でも言うことを聞かせることができる奴はいたが、それをやってしまうと「隠れ鉄道マニヤ」である情報がもれてしまう可能性があった。下級生なら学年違いで何とかもみ消せるだろうと・・・。

そして、まずその2の解説・評論をいっちょまえに作成し、生徒会に届けた。生徒会長はT君だったが、「助かるよ!僕が書かなきゃいけない感じだったからね。本当にありがとう。」といわれた。記憶では「野菊の墓」の解説・評論に
「いわずと知れた名作。映画館で見れなかった人は投票しましょう」と短く書いた覚えがある。他の作品については図書館で内容を確認して一生懸命書き込んだ。
これでやれるべきことは全てやった。あとは投票を待つだけである。

そしてその開票の結果・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

全校生徒(除く私)野菊の墓に投票した。

 

 

 

生徒会長T君の「一票だけ他のに投票があったんだよ。変な奴だよな?お前誰か知っている?」という、私の敗戦の原因を探る問い合わせに対しての回答が悲しかった。

そう。僕は誰が投票したか知っているよ。確かに変な奴だよ。まちがいなく。


2007. 8. 13    暇

工作を全く進めることができず、またホームページの更新も滞っている。3月に「退職」という独り言を掲載したが、これはその続編ともいえるかもしれない。

理由は独立開業したからである。仕事上のお付き合いの方々には案内を差し上げたが、この超マニアックなHPを閲覧していただいている方に案内しても良いだろう。
業態はともかく正直独立開業というものがこれほどエネルギーを使うとは思わなかった。明らかに準備不足で、準備不足ということがわかっていても開業しなくてはならない状況だった。

ライブスチームの工作はそれなりのエネルギーを使うが、私のHPを見てる方の多くは「暇な人に違いない」と感じているだろう。実際、そんな内容のメールを幾度も頂いた。「ご理解あるご家族をお持ちですね」とか「どんなお仕事をやっていらっしゃるのですか?」等の問い合わせは逆に考えてみると「どうしたらそのような暇をもてるのですか」という質問でもある。

しかし、私は「暇」というものを作るために相当なリスクを背負ってきた。例えば、仕事が多忙になったり、業界再編があった場合には単純に転職したりしたからである。嫁の理解にはそれ相応の自由を与えてきたつもりである。
それなりのリスクと努力がなければ暇は作れないのである。「ではアナタはその時間を作るためにどれだけリスクを背負いましたか?どれだけ努力をしましたか?」と内心では反論していたのである。

しかし、子供ができてからというもの、この理論は全く通用しなくなった。というのは「暇」を作るためにリスクを背負うということは家庭・家族を捨てることになるからである。加えて加齢とともに体力が落ちてきたこともある。ホームページをはじめた2000年と2007年では体力に違いがありすぎる。昔は単純に睡眠時間を削っていた。7時間寝ている人と4時間寝ている人では3時間の差が生まれる。今はそんなことは体が許さない。

今回は加えて独立開業ということになった。
独立開業をした理由は実に簡単で、時間の効率を考えると個人事業主はもっとも時間の裁量を与えられているからである。要は「拘束時間」が全くないということである。仕事があってもなくても必ず出社・出勤という時間が必要になるサラリーマンと違い、24時間を仕事に裂こうが趣味に裂こうが家族団らんに裂こうが全て自分の裁量である。
サラリーマンがあくせく働いているところに昼まっからライブを工作できるなんて夢のようだ!と

開業した結果は、時間の裁量云々どころではなく、自分の処理能力をはるかに超える仕事を処理しなければならず、しかも文房具の調達から郵便物まですべて一人でやることになっただけであった。さらには睡眠時間を削って仕事をすると言う最悪の結果になってしまった。当然、お盆休みなどあろうはずがない。

今のところ、自分の立てた計画では子供が幼稚園に通い始める頃には空き時間を使ってかなり工作ができるのではないかと予想している。その頃には仕事の段取りも今よりも格段に上達しており、処理時間は速くなっているはずである。むしろそうならなければならない。
当然仕事量も増えると思うが、それはその時点までの経験で対処できる問題と希望を持つしかない。

そんなわけで工作はまったくできていない。はっきりいって「ライブスチームに挑戦!」は最大の危機を迎えている。風前の灯である。

将来の「暇」のためには今「努力とリスク」を背負う必要がある。

 


2007. 8.26 KAMIKAZE IN COLOR 

以前、ディスカバリーチャンネルで放送された「KAMIKAZE IN COLOR」について書こうと思う。日本語タイトルでは「カラーで見る神風特攻隊の悲劇」と訳されていた。
毎年、終戦記念日になると特番が組まれる。しかしこの番組は数年前に極普通の番組として放送された。ディスカバリーチャンネルは米国のテレビ番組なので当然、この番組もアメリカ人により制作されたものである。

日本では神風特攻隊は悲劇の代名詞であり、常に悲劇的なものとして取り扱われてきた。

最近の地上波テレビ番組の低俗化には呆れるばかりであるが、特攻された側から制作されたこの番組はとても興味深い内容だった。このHPを見ている人の中にも見たことがある人もいるかもしれない。

日本に残された特攻隊の映像を基にカラー映像化されたものと、アメリカ人が記録した当時のカラー映像を混ぜて制作されている。特にアメリカ側の映像は綺麗である。国力の違いが映像にそのまま出ている。日本の画像は青っぽく鮮明ではない。
驚くのはその内容で、日本人ではまず想像できない内容になっていた。以下はこの番組が伝えた神風特攻隊の事実である。

 

1. 神風特攻隊の命中率は当時では驚異的な命中率だった。
2. 神風特攻隊の攻撃により、連合艦隊の約7000名がなくなった。
3. 特攻という捨て身の戦法がアメリカ人には理解できず、アメリカ人兵士にノイローゼになるものが続出した。
4. 対空母では一機でも特攻されると戦闘機の離発着ができなくなり、離陸不能な艦載機が続出した。
5. 米国は神風特攻隊の攻撃により戦死した遺族に対して、その事実を隠蔽して戦死の報告をした。
6. 米国は神風特攻隊の攻撃を受けている事実を報道規制を強いて隠蔽した。これは米国内から戦争反対の運動が起こることを考えてのことだった。神風特攻隊の目的のひとつに戦争反対の運動が米国内で起こることを期待したということもあった。
7.

米国は特攻隊の攻撃を防ぐことは不可能と判断し、特攻隊の基地を爆撃して航空機を撃滅する戦術を取ったが、米国が攻撃した日本の戦闘機はベニヤ板で作ったダミーの戦闘機だった。

8. 要は抜群の効果があった。

これらの事実を知っている日本人はほとんどいないのではないだろうか。神風特攻隊は無駄死にではなく、とても効果があった。だからといって肯定できる戦術ではないが、日本人としてこのような事実を知っておく必要があると思う。

報道は多面的に取り入れる必要がある。
ちなみに米国艦に特攻した日本人の遺体は米軍が回収し、日本国旗で包んだ上で海葬されたようだ。ごく一部だろうが映像にはそれが映っている。

 


2007.10.21  F1日本GP2007

30年ぶりに富士スピードウェイで行なわれたF1日本グランプリの評価はかなり悪い。ネットによる調査を見ても二度と行きたくないという人がほとんどである。

私も今回の日本グランプリを同様に「最低」と評価した。あまりにひどいので1枚31000円の指定席を取ったにもかかわらず決勝は自宅でTVを見て観戦した。金曜日のフリー走行、土曜日の予選は観戦したが。

モータースポーツを観戦するということは他のスポーツを観戦するのとはかなり異なる。
まず、半端ではない距離を歩かなければならない。すっかり車に慣れてしまった現代人にとって、サーキットのはるか外周を客席まで歩くという作業はとても苦痛である。おまけに標高差があるのだ。騒音や用地の関係で辺鄙なところにある上、大抵気温の変化も大きく天候も不順である。

つまり、モータースポーツを観戦すると言うことは「自らが登山をする」という行為に極めて近いのである。当然天候に対する対応、気温の変化への準備は自己責任である。富士スピードウェイは東京から近く、チケット&ライドといういかにも便利そうな広告で「生まれて初めてモータースポーツを観戦する」という人も多かったと思う。

実際、ピンヒールを履いたオネーチャンをかなり見かけた。鈴鹿ではあまり見かけなかったのでやはり立地のためであろう。

それら「モータースポーツ初観戦組」のクレームを考慮してもやはり「最低」のイベントだった。そもそも、チケットを予約した段階で最悪だったのだ。

なぜ最悪なのか?私の結論はたった一つである。「イベントがお客様のほうを向いていない」ということだ。これに尽きる。イベントが99%運営側を向いていたからだ。いかなる商売であっても、お客様のほうを向いていない事業は必ず失敗する。バスが渋滞しようが、道路が陥没しようが、お客様として扱っていればクレームは少なかっただろう。

チケットの販売はネットによる抽選申し込みで、申し込んだ段階でカードから強制決済される仕組みになっていた。抽選で当選した場合は必ず代金を払わなくてはならないのである。初めて富士で開催されると言うことはどのくらいのチケット競争率になるかまったく予想がつかないので、とりあえず、抽選に申し込むしかないという感情を逆手に取ったものだった。支払方法にはカード決済と郵便為替による方法が選べたが、私を含む仲間4人で実験を行なった。

それぞれ「御殿場駅・席M・カード決済」、「新富士駅・席M・カード決済」、「新富士駅・席M・郵便為替」とチケットを申し込んだのである。もし、あたった場合は4人で12枚のチケットを購入しなければならない。

予想通り、「郵便為替」は落選した。なぜなら郵便為替は自分で手続きしなければ自動的に予約キャンセルになるからである。ほとんどの人がこちらを選択しただろう。一枚の単価が高いので、チケットが余るということはかなりリスクがあるからだ。「郵便為替」が予想通り「落選」したので「今回は集金に走っているイベント」と判断できた。

トップページであまったチケットを販売したのはそのような理由だった。

サーキット内には検問が不必要にあり、指定席の立ち入り以外でも提示義務があった。そのため、検問近くでは「人間の渋滞」が見られた。鈴鹿ではなかった検問である。客を疑うというのはリスクがある。

来年も富士スピードウェイでF1グランプリが開催される予定になっている。次回はお客様として扱ってね。

 


2007.12.20 年の瀬

私にとって激動だった2007年が終わろうとしている。激動という意味では2006年も同様だったが、今年は2006年に輪をかけて激動であった。
給与所得者から事業者になってはじめての年末を迎えて、なるほどなぁ・・・と改めて感じたことが幾つかある。

まず、「やれやれ、なんとか今年も年を越せそうだ」という言葉の意味。非常によく聞く言葉だが、その言葉の真意をようやく理解できた。サラリーマンにはまずわからないだろう。
事業主ははっきり言えば、毎日がけっぷちである。病気になったり、事故にあったりすれば完全に終わりで、その緊張感のなかの一つの区切り。それが年の瀬だったのだ。

ひとつの区切りを設けたからといってがけっぷちが解消されるわけではないが、「一年なんとか生きてきたぞ」という自信になる。これがその言葉の真意だった。

そして、「お歳暮」。サラリーマン時代は単に会社から頒布するように言われたものをただ年末の糞忙しいときに「宅配」するだけのものだったが、これもなぜ生まれたのか理解できた。
それは「感謝の気持ちを形で表す」ということだった。サラリーマン時代でも最後に勤めた会社は自分と顧客との距離が近かったので単なる宅配とは感じなかったが、それでも本当に「感謝の気持ちを形で表す」という真意を感じたのは初めてだった。

私の仕事は8:30〜17:15までは役所をまわり、さらに現場をまわり、17:15以降は顧客をまわり、夕食を食べてから内業になる。毎日それを繰り返す。土日は17:15〜夕食までの間にアポが取れなかった顧客を回るために予備日としている。まともに休むことができない。自慢ではないが開業以降、遊び約束のドタキャン率は100%である。
毎夜の内業は使い慣れないCADと向き合う。ライブスチームで散々お世話になったCB−CADは機械加工向けなのでほとんど使うことはない。使ってしまうと、ついつい使いづらいCADと比べてしまうのであえてCB−CADを触らないようにしている。使いづらい仕事用のCADを完璧に使いこなせるようになるまでは。

年末年始はゆっくりできそうだと考えていたが、先輩の話によると、年末年始は相手方の「家にいる率」が飛躍的に高まるのでとても仕事の効率がよくなるとか。休んで年明けに地獄を見るか、年末年始を捨てて年明けを普通に過ごすか?これは今年の経験を次に生かすとしよう。

そして、ライブスチームのこと。

作りかけの機関車はすぐそばにあり、数年前まで考えられなかった恵まれた環境が整っている。旋盤もあればフライス盤もある。騒音を立てても文句言う人もいない。必要な資料は会社で隠れて読んだりする必要もなく、私の座っているすぐ後ろの本立てにあり、すぐに取り出せる。必要な工具は営業時間など関係なくいつでも、誰にも文句を言われず購入できる。本物の機関車を見たくなったらいつでもいける。

しかし、今の私にとって、ライブスチームはとてつもなく遠い存在になってしまった。どうしても工作の時間が取れないのである。ライブスチームは実際の加工時間よりも段取りに多くの時間がかかる。前にも述べたが、プラモデルぐらいなら作る時間は取れるが、ライブスチームはある程度まとまった時間を確保しなくてはならないのだ。

更新していないホームページほど見苦しいものはないと以前から感じていた。ま、更新していないブログよりはましだろうが、その気持ちは今でも変わらない。今後どうするか、それを考えている時間も確保できないのだ。

それが2007年の年の瀬。

 


2008.3.4 EF58157

久しぶりに鉄ネタを書こうと思う。
JR東海が所有するEF58157号機は昨年11月で現役を引退した。157号機は現役EF58で唯一のオリジナル塗装?である青・クリームを身にまとっていた。
私が生まれ育った地元の機関区は浜松機関区だった。よく遊びに行っていた頃(83年〜85年)、EF58は現役で青・クリームに塗られたゴハチなどうじゃうじゃいた。当時は浜松区の誇った60号機を見ることができなかったことが残念でならなかった。
電留線には廃車待ちのゴハチが6重連などで連結されており、サビで赤くなった車体をさらしていた。
たまに見学に行くと「二休」と書いてある車体の運転室のカギを開けて中に入れてくれたこともあった。当時の国鉄はまだそういう時代だったのだ。写真もかなりの枚数を取った。写真を探し出すことも至難なので何号機かはわからないが60号機が引退した後、御召し予備に指定されたこともあるゴハチもあった。裏は取っていないが、そのように説明を受けたことは覚えている。

私にとって電気機関車は興味の対象外だったが、それでも嫌いというわけではなかったので写真に収めたり、見学に行ったりということは日常茶飯事だった。

昭和61年3月30日、私はEF58157を運転した。これは浜松機関区が行なった「機関車操縦体験」というイベントを新聞か何かで読んで申し込んだものだった。定かでないが、8000円だった記憶がある。お弁当がついて記念品がもらえる。そのときにもらった記念品の「機関士」のバッヂは今でも持っている。

午前中は座学で、午後から実習。他の仲間が運転するのを横で見ながら自分の出番を待つため、運転席には結構な人数が乗っていた。もちろん指導機関士も添乗しており、電留線を走行する際にアドバイスを行なった。「はい、それでは単独ブレーキ弁で3kgまで込めてください」などと指示されるのである。

ブレーキの操縦はかなり難しく、私は10mほどオーバーランして停車した。停車してから非常ブレーキ位置まで持っていったが、排気の音がすごかったことを覚えている。常用ブレーキ位置と違い、単弁の非常ブレーキ位置はバネで戻るようになっていた。ゴハチのブルトレ仕業は乗り心地が悪く大変だったと聞いていたが、低い速度域で電留線を走る程度では相当よい乗り心地であった。

私にとってゴハチの運転は当然のことながらこれが最初で最後であった。強烈な記憶として残っているが、その数あるゴハチの中で157号機が現在まで廃車にされず、生き残っていたことも意外だった。

私は電気機関車は好きではないが嫌いではない。好きな電気機関車は何かと聞かれたらおそらくEF65500番台と答えるだろう。
しかし、この157号機には縁を感じるのだ。なぜなら、廃車にされる直前、ねらったわけではなかったにもかかわらず偶然出会えたのである。あわてて取り出した携帯電話で撮影した写真である。

20数年ぶりに見た157号機だった。その昔、たった一度ではあるが私は写真の157号機の運転席に座っていたのである。

 

 

 

追記:写真発見↓

 

逆エンドにははやぶさのHM。 走行中の助手席より前を ノッチオフする15歳の筆者。


2008.4.11    グラビアアイドル

 

 

カメラマン:「はい、綺麗に写っていますよ。撮りま〜す。」

 

パシャ、パシャ。

 

カメラマン:「じゃあ次はちょっと腰をひねってみようか。そうそう、いいねぇ!」

 

パシャ、パシャ。

 

カメラマン:「今度はうつ伏せになってくださいね。手を上に上げて・・・はい、綺麗に写っていますよ!」

 

パシャ、パシャ。

 

カメラマン:「手をしっかり握ってくださいね・・・・。もう少し腰をうかせて・・・・はい、とってもよいですよ」

 

パシャ、パシャ。

 

カメラマン:「じゃあ、今度は右側からぐるっと回ってみてくれないかな、そうそう、いいねぇ〜!」

 

パシャ、パシャ。

 

カメラマン:「じゃあ、これで終わりにしようか。おつかれさまでした!」

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、私はグラビアアイドルだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胃の中にバリウムが入っていたが。

 


2008.7.1 こまいころから

 

静岡市某所・・・・

 

 

 

 

車窓の風景

 

あれは・・・

 

 

なんだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こまいころからカープ一筋」  って

 

俺も・・・・

 

ここは静岡県静岡市。

 

カープファンは熱い。

 


2008.8.4 地震予知

地震が相次いでいる。

地震発生の数秒前に警報を出す技術の成果がニュースで報告されている。地震予知については民間・政府とも調査を行い、いつか実現しようと努力を続けている。
水をさすわけではないか、私は地震予知は可能だが、不可能だと考えている。詳細に説明すると、「技術的には可能」だが、「法律的に不可能」ということである。

もしかすると、政府では地震予知は数十年も前に出来上がっており、ごく一部の政府の中枢にのみ情報はあるのかもしれない。日本は法治国家である。この基本原則を念頭にすると「地震予知」など不可能であると簡単に結論付けることができる。

ひとつ事例を挙げてみよう。
「20××年×月×日、午前9:15分○○県○○市で震度8の地震が発生する」と政府から発表される。当然報道機関を通じて情報は瞬く間に広がり、震源地付近の住民は皆仕事どころではなく自宅の大切なものを安全な地域に移転させ、地震まで時間がある場合には自宅に耐震工事を施し、学校等の教育機関、公共交通機関は運休の準備に入るだろう。
医療機関についても同様で入院患者は当然他の病院に転院させ、職員もみな休職するだろう。ライフラインである電気・ガスも火災による二次災害を避けるために止まってしまうだろう。

そこで、予報どおりに地震がやってくる。政府の発表により被害は震度の割には被害が少なく、また人命については死亡ゼロを実現することができた。交通機関も運休したため事故ゼロである。電気・ガスの停止により火災被害も発生しなかった。

全てはうまく行く。「ちゃんと地震がくれば・・・」の話である。

問題は「予知したにもかかわらず地震がこなかった場合」である。政府の発表により、対策を講じた交通機関は運休による莫大な損害を受け、入院患者は転院手続きやらなにやらで大変な疲労と手間が発生した。電気会社・ガス会社も同様である。予知地域の経済活動は壊滅的な損害を被ることになる。

それでもまだ地震がこなければよい。予定日がはずれたりしたら最悪だ。経済的な損失に加えて地震被害が発生するので収拾がつかなくなる。「なぜ予報がはずれたのだ、政府はなにをやっているのだ」となる。

結果的に、「予報がはずれた場合の法整備が全くできていない」ということに気がつく。しかも地震予知に対応する法整備など条文が多く法制化は不可能である。

できるはずがない。

ということで、地震予知をしたければ、民間の地震予知研究家の情報を自己責任で信じて対応するしかないのである。
やれやれ。夢のない話だね。


2009.4.23. 近況・・・

さて、あまりに更新をサボるとよからぬ噂が立つかもしれない(笑)ので何か書いてみることにした。

相変らず工作は全く進んでいない。
昨年2008年9月に2人目の子供が生まれた。ようやく上の子が落ち着いたところに再び・・・である。しかも子育てにかかる時間は一人目の二乗になるので、ますます時間が取れなくなった。今の家庭の状況と仕事の状況ではとても工作をする時間は取れない。
また、「工作が順調に進む=仕事が少ない」という図式が成り立つので、私は幸せなのだろう。


完成品かOSのC11を買うことも考えたが、どうせ走らせている時間がない。走らせたところで準備と片付けの段階で子供がぐずることが目に見えている。それに、機関車のイベントが集中する秋〜冬は仕事のピーク期間でもある。秋のイベントには生涯行けないとすでに覚悟をきめている。結局運転会に参加する予定すら立てられない。

私は趣味人なので、何も趣味をしないということはムリである。スキーはもう何年も行っていないし、バンドは休止しているし、ライブスチームも休止している。
そこで、車の趣味を復活させることにした。車は仕事の移動で使えるので、趣味と実益を兼ねることができる。そこでガレージの肥やしとなっているAE86トレノを復活させようと準備をしていた。

なにか新しいことをしようとすると面白い情報が転がり込んでくるというのは私の背負った運命である。今回はAE86トレノではなくこの車がやってきた。

HONDA BEAT である。

仕事の取引の関係でこの車と知り合ったが、以前から気になっていた車であり迷いなく購入した。問題は置き場所で、ハチロクトレノは取引先の駐車場へタダで置かせて頂き、なんとかガレージまで運び込んだ。何とか・・・というのはまたもや不動車だったからだ。車の症状から燃料ポンプと判断できたのたため、現地での修理を避けて牽引してきたのだ。

私にとって初めてのホンダ車だ。本田宗一郎が最後に送り出した車・・・ミッドシップ・・・NAで64馬力・・・希少なクレタホワイト・・・等々。魅力は尽きない。

まずは車検を取れるところまで仕上げなければ・・・。ライブスチームはそれからかな!

 


2009.4.23. おおきゅうなっても

 

 

静岡市某所・・・・

 

 

 

 

 

 

カープの看板か・・・

 

 

 

前に「独り言」書いたなぁ・・・・

 

 

 

 

 

 

おおきゅうなってもカープファンじゃけぇ・・・って

 

 

 

 

 

 

 

アップデートしてんじゃん!

 

 

 

 

おおきゅうなっても ・・・・  俺も。

 

ここは静岡県静岡市。

 

やっぱりカープファンは熱い。

 

 


2009.5.12 Nゲージ運転会

先日、あるNゲージの運転会に招待されて見学に行った。運転会に参加するなどライブスチームのものも含めてずいぶん久しぶりである。久々に新幹線に乗って出かけてきた。

見学の目的はNゲージ細密加工ですばらしい作品を製作されているY氏の作品を見たかったからである。Y氏とはずいぶん前からメールのやり取りをしていたが、なかなかお会いすることができず数年かけてようやく実現した。

Y氏との出会いは、私がライブの工作をする際に割りピンの規格を調べなくてはならなくなり、ヤフー検索で「割りピン」と入力して調べていたらY氏の工作記に当たったのである。その記事は氏のホームページを見ていただければわかるが、彼は割りピンを「Nゲージ蒸気機関車の煙室戸ハンドル控え」として使用していた。

Nゲージの蒸気機関車の煙室戸を開閉可能にするとは一体何者だ!とメールしたのが始まりである。

Y氏はNHKの趣味の時間に出演されているのでかなりの著名人である。番組でも放送された1/150小樽築港機関区のジオラマやらC5833号機の実物を見ることができた。
C5833号機はNゲージにもかかわらず、蒸気だめカバー、煙室戸、バタフライスクリーン、運転室足元の空気取り入れ口、運転室ドア、がすべて開閉する。しかも取付強度も充分であり、運転室ごとスッポリと上に引き抜くことができ、内部を見ることができる。とても人間が工作しているとは思えない。

また、運転会にはクロスヘッドIAも製品を持ち込んでいたのでロストワックス製造のノウハウを聞くことができた。

運転会でちょっとだけ撮影した写真が以下である。

 

小樽築港機関区レイアウト側線で休息するC62

江ノ電のモジュールレイアウトの一部

災害用発電機を利用したレイアウトとモジュールレイアウトを片付ける収納箱

これらはすばらしいモジュールレイアウトのほんのごく一部(写真を撮るより見学に夢中だった)だが、このわずかな写真を見ていただいてもすばらしさがわかると思う。一番下の発電機レイアウトは携帯充電用の手回し発電機をNレイアウトに直結したもので、回転方向を変えると前進・後進を変更できる。ハンドルを勢いよく回すとすごいスピードで走らせることも可能である。子供に作ってあげたい一品だ。

また、今回の運転会は片づけまで見学させていただいたが、モジュールレイアウトを片付けるのはさぞかし大変だろうという予想を裏切り、実に機能的になっていた。写真はS氏の収納ケースだが、隙間なくきっちり入るようになっており「あっ」というまに片付いてしまった。

どのゲージでも運転会は刺激があるものだ。

「よし、おれも家に帰ったらヤルゾー!」

と気合を入れたが、家について山積になっている仕事とメールを確認すると結局何もできなくなってしまった。


2009.11.19 戸籍

私の仕事の一つに戸籍を確認する作業がある。相続人であることを戸籍を請求して確認するのである。
現在はデータ化された「改正戸籍」が主流だが、昔の手書きの戸籍写しである「原戸籍」を請求することも少なくない。明治時代からの流れを確認することになる。

たくさんの人のつながりで現在の依頼人の存在があるということを強く認識する瞬間である。

一方、私は自分自身の戸籍を引いて調べたことがない。その理由は自分の本籍地が遠方の県であるため、簡単に請求することができないからだ。郵便による請求はできるのだが、郵便小為替という世界一使いにくい「紙」をつかって請求する必要があり、なかなか踏み切れない。

達筆な行書で書かれた原戸籍を見るときにいつも感じることがある。「この人は何をやった人なのだろう・・・」と

戸籍は「いつ、どこで生まれ、両親は誰で、いつ結婚して、いつ死んだか」ということを確認できる唯一の公文書である。逆に言うとそれ以外は全くわからない。

空想だが、戸籍に「備考欄」をつくり、本人の希望により字数制限で人生を要約できれば面白い。掲載する内容が真実であるかどうかの証文を添付し、掲載は行政庁の判断によって決定するという制限も設けても良いかもしれない。

たとえばプロ野球選手だったら「元プロ野球選手。ゴールデングラブ賞2回。首位打者1回。出場試合502。現役すべてを広島東洋カープで過ごす。」
音楽家だったら「元日本著作権協会登録作詞作曲家。RIAAゴールドディスク6枚、日本人初ビルボード4週連続1位。代表曲○○××」
政治家だったら「元衆議院議員。当選回数6回。法務大臣、厚生労働大臣、内閣官房長官を歴任。年金問題に取り組む」

と書いてあれば、「お、これはたいしたご先祖様だな」と一目瞭然である。

ま、戸籍は届出期間が設定されているのでスピードが命である。このような煩雑な手続きを採用するなどありえない話だ。

 


2010.4.11 カレチ

カレチとは客扱い専務車掌のことである。このページを見ている人なら「そんなこと知っているよ」といいたいところだろう。
今回の「カレチ」はマンガのことである。このマンガはモーニングに連載しているのでビジネスマンには知られている。
実は、このマンガを知ったきっかけは私の弟が「兄貴、面白いマンガがあったから送ったよ」と紹介してくれたためである。

話は大阪車掌区所属の新米カレチ「荻野憲二」の奮闘を主体としており、舞台は昭和40年代初頭の国鉄である。懐かしい特急列車や貨車、駅が時代を鮮やかに表現している。

昭和40年初頭には私はこの世に生を受けていなかったが、幼少の頃に感じた国鉄への憧れや、鉄道に乗る旅情は格別な記憶として残っている。分割民営化した時には高校生になっていたので、国鉄が民営化に向ってスリムになって行き、最終的に現在の魅力のない鉄道会社へ変貌を遂げる過程を経験している。

ストーリーを読んで最初に感じたのは「そう、昔はこうだったよな・・・」ということである。テキストだけの小説と違い、マンガはテキストと情景がリンクしているため主観なく記憶をよみがえらせるのである。荷物列車、寝台特急、食堂車、簡易委託駅。
既に失われてしまい、またどれも経験したことがある鉄道風景だ。

この本は私に強烈な「昭和」をよみがえらせる。

第1巻には「指導車掌」という話がある。私はこの話を知っていた。いつか独り言に書いたが私が蒸気機関車に興味を持つきっかけになった本のなかにこのストーリーが載っていたからである。
「驀進の記録、蒸気機関車/壇上莞爾著」というタイトルの本で、この「カレチ」の参考文献にも著者の本が掲載されていた。意外なところで共通点を見つけてしまった。

「驀進の記録、蒸気機関車」は実話なので、少なくとも「指導車掌」は実話に近い話ということになる。だとすると、今後の巻も楽しめるはずだ。

「マンガなど興味はない」と言う人も多いのではないかと思うが、気分転換にぜひオススメしたい一冊である。