「独り言」もなんと5ページ目である。よくもまあこれだけつぶやいたものだ! 以前からこんなことができたら面白いだろうな・・・と考えていたことに「記憶の共有」がある。たとえば、私が昔見た面白い物、貴重なもの、等々を脳みそから何かしらの媒体に記録して、他人が見られるように保存しておくというものである。 これができたらとても面白い。原子爆弾がどんなに悲惨なものだったか、体験した人にデータを書き出してもらい、それをバーチャルで体験する。犯罪者の記憶を書き出して、事件の真相を探求する。ビートルズのコンサートへ行ったことがある人の記憶を書き出してそれを見てみる。C51の特急燕を見たことがある人の記憶を書き出してそれを体験する・・・といくらでも楽しめそうである。パソコンのファイルのように誰でも閲覧できる共通ファイルにしておく。死ぬ前に記憶を書き出しをしておけば、永遠に、且つ正確に伝えられるというものである。 しかし、技術的にできるようになったとしても実現しないだろう。悪い記憶はたいていどこにでもあるもので、良いこと、伝えたいことだけを書き出すことは人間には無理なのだ。 現在まで、ある人が経験した物事を表現するには、口頭で伝えるか、文章で伝えるか、絵を書くか、写真・映像を見せるかしか方法がない。写真・映像は記憶を表現するにはかなりいい線を行くような気がするが、すくなくとも私は写真や映像よりも文章で受け取ったほうがその人が伝えたかったイメージにちかいものがえられる。 カラー動画映像は確かにすばらしい記録ではあるが、どうしても客観性が強すぎ、撮影した本人がその場で感じた感動や雰囲気を伝えるにはイマイチである。「ただの動画」になってしまうのである。私が購入した鉄道ビデオの中でも、ドキュメンタリー映像から真に作者が伝えたかったことをリアルに受けとめることができたものは「蒸気機関車時代/黒岩保美」ぐらいである。 一方、今まで購入した本の中に「ドキュメント・感動の所在地」シリーズがある。これは月刊レールマガジンの連載を3冊にまとめて出版したものである。この本にはVol.1〜Vol.3にいたるまで序文が与えられている。 私はこの三冊の序文がとても気に入っている。いずれも写真のないただの文章だが、著者の伝えたかった雰囲気・感動がしっかり伝わってくるのだ。これはなかなかできることではない。筆者の体験をリアルに感じられるのである。 私もこのような感動や記憶を伝えられる文章を書いてみたいものだが、いかんせん能力が足りない。それでこのような駄文を書いては日々トレーニングをしているのである。
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毎日雨のように降り注ぐニュースのなかに多数含まれているものがネット関連の事件である。それも掲示板やらチャットやら、不特定多数の人間が匿名で好き勝手書き込む系統に起因するものがほとんどである。それも世界へ向けて発信されている。考えてみればこれほどリスクが高く恐ろしいものもない。 「掲示板・チャットというシステムが悪いわけではない、それを使う人間が悪いのだ」という考え方はよく分かる。これは「スポーツカーが悪いわけではない、運転する人間が悪いのだ」という考えと似たようなものだ。 私の掲示板・チャットに対する姿勢は「もたない・つくらない・もちこまない」というどこかの国の三原則とおなじである。 掲示板やチャットは匿名であるがゆえに書く側も読む側もそれ相当の注意が必要で、絵文字を使って潤滑しようというのはごく当然の成り行きなのかもしれない。たとえば |
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:死ね (-_-メ) と :死ね (^o^)丿 |
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という表現ではなんとなく印象がちがう。本気なのか冗談なのかを伝える側も受け取る側もそれ相応の能力が必要となる。 この問題を解決するには不特定多数ではなく、ある一定の能力基準を満たした人だけが書き込み可能になるようにすればよい。 そこで、得意の空想で楽しんでいたら、笑えるほど面白そうなものを思いついたので紹介しようと思う。当たり前だがこんなものは実在しない。ただ空想していたらとても面白かったのだ。以下に思いついた資格を掲載しようと思う。
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空想:お笑い資格免許一覧 |
掲示板管理業務主任者 | 文部科学省が認定する国家資格です。掲示板を設置する場合、1板につき1名の掲示板管理業務主任者が必要です。 将来有望な資格ですが、合格率3%台の超難関資格です。実務経験・学歴に関係なく誰でも受験できます。基本的な法律知識はもちろんのこと、実技でもトラブルを未然に防ぐ交渉能力が要求されます。 午後に行なわれる二次試験は実際に荒れた板を仲裁して良好な板へ軌道修正する実技試験が行なわれます。 大手企業の入社試験でも有利に働くことでしょう。 |
掲示板検定1級 | 国内・国外を問わず掲示板に参加できる免許です。この資格を取得するとIDが与えられ、世界中のどのサイトにも書き込むことができます。 試験は民法を中心に出題されますが、高度な文章作成能力・読解力が必要となります。2次試験は英語で出題されますから、基本的な英語能力も必要です。 みんなが憧れる、ネット資格です。 |
掲示板検定2級 | 国内の掲示板に参加できる免許です。平成XX年以来、無免許では掲示板に参加できなくなりました。これからのネット生活ではなくてはならない資格です。 本試験に合格すると文部科学省の登録を受けることができ、IDが与えられます。 合格率は15%前後で推移しておりますが、決して簡単な資格ではありません。 民法、読解力が中心に出題されます。誤字脱字がありますとまず合格できません。日ごろから読書を積極的に行い、漢字読み書きドリル等の地道な努力が要求されます。 |
アスキーアート技能士 | アスキーアート技能士は掲示板検定1級認定者、および2級認定者からの依頼をうけてアスキーアートを作成する技能士です。依頼の内容により作成手数料の基準が設けられています。よりインパクトある書き込みを求める掲示板検定認定者が多く、需要は高いといわれています。 基本的な作成能力はもちろんですが、美的センスも問われる資格です。 ただし、アスキーアート技能士であっても、掲示板検定資格がなければ書き込みはできません。アスキーアーティストで活躍している技能士の90%が掲示板検定資格を所有しています。 掲示板検定と平行して受験する人も多いようです。 |
楽しそうな資格でしょ?
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トップページに掲示したとおり、今月から8620の組立を休止して、コッペルプロジェクトに全精力を注ぐことにした。本当は両方とも継続していきたいのだが、部品が完成して組み込まれていくに従い、どんどん肥大化していき、もはや両方を組み立てるスペースを確保できなくなってしまったのである。 コッペルは縮尺1/6で全高はおよそ500mm・全長は811mm(カプラー間)である。今までは連載で報告したイレクターケース下側で組み立てていたが、運転室まわりが付くと全高がケースよりも高くなり、下段で組み立てることが不可能になってしまったのだ。 8620はどんなに急いでもボイラーが届くまでは完成できない。頒布回数はあとボイラーとフィティング関連だけなので、現状でも全体の8割は完成できる状態である。しかし、コッペルは自分が頑張れば、待つ必要はなく完成までこぎつけることができる。 そこでコッペル完成に全力を尽くすことにしたのである。 コッペルプロジェクトの「はじめに・・・」で紹介させていただいたが、コッペルはY氏の設計によるものである。 偶然にも、私がコッペルに工作を一本化しようとしている今、設計者本人であるY氏がコッペルを始められることになった。同じ設計の機関車でも設計した本人が作り上げるほうが説明が分かりやすく、設計の意図も反映されやすい。 Y氏のサイトをぜひ参考にしていただきたい。いかに私が面倒な手順を踏んで工作しているかご理解いただけるかと思う。 ライブスチームに挑戦は毎月更新が売りだったが、コッペルはおそらく毎月以上の更新ができるのではないかと思う。機関車が一台になった分、更新頻度は上げていこうと考えている。 目標!11月までに完成? Y氏ホームページ。「ライブスチームの工作室」
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掲題の本が発売された。つい先日、私の誕生日に書店から電話があり手に入れることができた。
「ライブスチームのシェイを作ろう」はライブスチームのバイブル「生きた蒸気機関車を作ろう/平岡幸三著」の新作である。「生きた蒸気機関車を作ろう」は私が考える最もすばらしい本で、これを超える本はでないだろうと感じていたところにあっさりと前作を上回る新作である。 第一部はシェイの工作記、そして第二部はライブスチームに共通の話題ということで二重に楽しめる。ハードカバーの立派な本である。工作記はいうまでもなく、とにかく第二部はライブスチーマーを自称するものであれば、ぜひ一度は読んでいただきたい内容だ。 平岡氏の本が特に楽しめるのは単なる工作記ではなく、書物としても楽しめるからである。記述されている工作は私にとって難易度が高すぎるが、読む楽しさには全く影響がない。工作機械を持っていない、自作に興味がないという人が読んだとしても十分楽しめる。 次の文章は「生きた蒸気機関車をつくろう」で紹介されていた文章である。この文章は私に無限の可能性を与えてくれた。私の駄文よりも著者の文章をもって表現したほうがよろしいかと思う。 「これでもライブはできるという一つの例としてその実態を紹介してみましょう。〜中略〜 もうひとつ、紹介しようかな。次はキリコについての対応策で紹介されていた文章である。 「さて、これで壁と旋盤台直下は防御されたことになりますが、その前の部分、すなわち立って作業をする床面はどうするか。ここには作業時だけ二畳ぐらいのゴザを敷きます。ビニールシートなどのプラスチックはベトついて駄目ですし、新聞紙はピラピラしてすぐ破れ、第一足の裏がインクで真っ黒になります。ゴザというわが国独自の敷物は高温多湿という日本の風土によく合い、その足ざわりと言い、またキリコ離れと言いこれ以上の物はないと思われます。作業が終わったら二畳の折目で曲げるとキリコがそこに集まるのでこれを掃除機でスイッと吸い取ります。掃除機がかけやすいのもゴザの特徴で、他の敷物ではこうはいきません。綺麗にしたら一畳の大きさに折りたたみ、くるくると巻いて押入れにしまえば完了です。まことに日本的というべきで、西欧に発したこの趣味が日本に定着するにあたり、このような手法が加えられるのものこれまた興味あることではないかとつまらぬ感慨にひたることがあります」 読み物としても楽しいでしょう? 「ライブスチームのシェイを作ろう」は機芸出版社から発売されている。
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スカイパーフェクトTVのファミリー劇場で、8月13、14、15日の3日間、10時間ずつウルトラマンの全話が放送された。ウルトラマンはもちろん初代ウルトラマンである。 今年のお盆休みはひたすら工作をし続け、工作に疲れるとウルトラマンを見る、ウルトラマンに飽きたらまた工作という繰り返しですごしてしまった。ウルトラマンはビデオを3倍モードでまわしながら見ていたのだが、40話近いシリーズを一気に見るという強行のお陰で、あることに気が付いた。 時々、数話ごとにとても大胆かつ印象的な構図で撮影している監督がいるのである。ウルトラマンは全話同じ監督が撮影しているわけではなく、脚本も監督もある程度ローテーションで作られていた。 その監督の構図はあまりに大胆すぎるのである。たとえば、科学特捜隊の隊員たちが本部で会話しているところを撮影するとき、およそ画面の下から5分の4ほど(けっして大げさな表現ではない)を机で隠し、残りの5分の1程度の隙間に隊員の顔を映したりしている。当然机の影の部分は真っ黒である。 隊員が電話で会話するときには受話器ケーブルから見た構図で撮影する。車に乗っているシーンでは窓越しに撮影するのではなく、バックミラーに写る隊員たちを撮影する。車から降りると今度はメッキのホイールキャップに写るゆがんだ画像で隊員たちを撮影しているのである。子供が見るには大胆すぎてよく理解できないほどである。 私は写真も映画も詳しいわけではない。解説したりすることなどとてもできないのだが、とにかく一度その構図を見てしまうと、取り付かれてしまうのである。 タイトルバックを見ると「監督 実相寺昭雄」とでている。早速調べてみた。するとなんと、意外なところで鉄道と絡んでしまったのである。それは昭和情景博物館という食玩具である。これ↓ わたしはこのシリーズをいつかNゲージのレイアウトに使おうとひそかに集めていたのだが、この「昭和情景博物館」の監修が実相寺昭雄監督であった。箱をよく見るとちゃんと実相寺監督の説明書きが出ている。 氏は近年活動を活発に行なっており、「昭和鉄道少年/JTB出版」という本を書いたりしている。もし、ウルトラマンを見る機会があったらぜひ監督が誰か注意してみていただきたい。私が特に強烈な印象を受けた回は第14話「ガマクジラ」という真珠を食べる怪獣の話である。 ちなみに、初代ウルトラマンの顔がAタイプ(顔がぼこぼこのタイプ)からBタイプ(顔はつるつるだが口が小さい)に変わったのはこの回からである。 ※昭和情景博物館 http://www.happinetrobin.co.jp/syouwa/syowa.htm ※円谷プロ http://www.m-78.com/ ←ニクイ(笑)
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私が学校生活で学んだものは、ほとんどが人間関係から得られるもので、教員から受けた教育ではない。というのも、私のようなできの悪い人間にとって学校の授業というものは退屈そのもので、いくら優秀な先生がついたとしても「やる気のない生徒」は何を教えても駄目なのである。授業参観の日にもめげずに居眠りをして親が泣いていたことを昨日のように思い出す。 これは学校だけでなく、会社でも同じで「やる気がない人間」を劇的に変えられる研修などというものは存在しない。今私が持っている知識はほとんど全て、学校を卒業した後に勉強した知識に他ならない。 教師(この師という字も気に入らない。子にしておこう。(笑))にはずいぶん煮え湯を飲まされたが、その数ある私を教えた教子のなかで、一人だけ尊敬してる先生がいる。中学3年の時に担当になったT先生である。 T先生はサッカー部の顧問をやっていた。私は中学に入学した1年生からサッカー部に(嫌々)所属しており、1年、2年とサッカー部でのみ、T先生との付き合いがあった。当然のように、T先生は私を嫌っていた。 中学三年というのは高校の入試を控えた大切な時期である。大学に進学するなど考えもしなかった私だが、さすがに高校は進学したいと考えていた。15歳で就職するなど私には到底無理な気がしていたからだ。要は勉強はしたくないし、働きたくもないわけである。 中学三年のクラス替えで担任の先生がT先生に決定した。部活のみならず、担任になってしまったのである。 だいたい、どの先生でもこんな感じだったのである。私にとっては別に驚くことではなかった。 このT先生という人は、完璧なサッカーキチガイだった。Jリーグなどまだ想像できない時代である。とにかく誰が見てもサッカー選手である。記憶では当時33歳で、チリチリのパーマ、口ひげも生やしていた。もちろん教壇に立つときもサッカーパンツだった。 また、プロサッカー選手を目指していたらしく、健康管理や練習メニューなどについても抜群な知識を持っていた。たとえば、我々の時代の部活動では「シゴキ」なるものがあり、夏の暑い日、水も飲まさずにうさぎ跳びでグランドを50周させるような運動が平気で行なわれていた。 陸上部など他の運動部がこの「しごき」をやっていると、T先生はこう言った。 中学三年の2学期、T先生はあるきっかけで私とマンツーマンで話をする機会があった。それは不登校になっていた私の友人A君のことだった。 続く→ |
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A君は小学校時代の私の友人で、私にとってはかけがいのない恩人でもあった。 小学校6年生、それまでやりたい放題のやんちゃを繰り返してきた私は小学生同士の派閥争いに破れ、多数の腹心を失い情勢的に不利な状況に立たされていた。 それから4年経った中学3年生のA君は体調不良からくる不登校に陥っていた。(うつ病だったんだろうな・・・) ある日、T先生は私を誰もいない教室に呼び、いきなりこう言った。 「俺はお前を見直した。人間性を感じたよ」 「はぁ?いきなりどうしたんですか?体調が悪いんじゃないですか?」 とこんな会話が交わされた後、T先生は私がA君の登校に協力していたことに感謝を述べた。私はそれに対して説明した。 「先生、それはA君が私の小学校時代に一緒に戦った戦友だったからです。昔の戦友が苦しんだときに助けるのは当然でしょう。他の奴じゃそんなことしません。あいつは特別です。」と・・・ 先生はそれでも感謝を述べて今後も変わらぬサポートをしてくれるよう私に依頼した。それを機会になんとなくT先生と私の距離が縮まった気がした。 私はそれでもサッカーの練習においては隙を見てサボっていた。卒業式に近くなったある日、T先生は私にこう言った。 「たまい、世界的なミュージシャンになるならサンバのリズムを身につけろ。サッカーでも音楽でもそうだけど、日本人は生まれつき三拍子で育っている。これがいけない。運動でも音楽でもサンバじゃなきゃあな。2拍子のリズム。タッタカ、タッタカ、ってさ、・・・。これこそが俺は日本人が世界に羽ばたけない理由だと思うね」(今となってはまったくそのとおりだと思うよ・・・。あんたは偉いよ・・・)
それから14年経った1999年、私は某大手企業に退職願を出し、退職まで一週間を残して消化試合を行う営業車の中にいた。私は営業中いつも車のラジオをつけっぱなしにしていた。 地元のコミュニティーFM局(とても小さい周波数で静岡市内しか受信できない)はこう伝えていた。 「それでは今日のゲストをお招きしましょう。三年後、袋井で行なわれる2002年FIFAワールドカップ静岡大会組織委員長のS.Tさんです。ようこそ・・・・」 あ? S.・T?・・・ まさか・・・ あのS・T? サッカー部の? ラジオから聞こえてくるその声。14年たっても忘れられない、時々鼻から息を抜きながら話す特徴。 間違いない。あれだけ特徴的な話の仕方は14年を経ても忘れられるものではない。T先生だった。 私は車を停めてしばらくラジオに聞き入っていた。そういえばT先生は「いつか日本でワールドカップを見るんだ。いつかね」と言っていた。 マジかよ。まだサッカーやってたのかよ・・・。本当に実現してやんの!・・・。 私はしばらく車を走らせることができなかった。感動と尊敬が大きな渦になっていた。これほどすごい男に教育を受けていたのだ。 退職して新しい道に進もうとしていた私には、タイミングがよすぎる出来事だった。
(完) ちなみにね・・・A君の家に通っていたのはもうひとつ理由がってね・・・。お姉ちゃんがめちゃめちゃ美人だったということはここだけの話にしようね。
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悲しいことに、現在の日本ではウソが氾濫していて物事信じられないことが多すぎる。たぶん、日本だけではないだろう。 事件になるようなものはまだわかりやすいが、情報の伝達が早くなり、イメージ先行の世の中になって生活を取り巻くすべてにおいて「真実・本物を見極める眼」が必要になってきた。 イメージから得られる先入観だけで物事を判断しがちな人が多いのである。 通信販売などのトラブルもよくあるらしいが、これも広告からどれだけ情報を読み取り、商品の内容を見極められるかで避けることができる。 自由主義社会の自由とは「競争の自由」である。競争に勝ち、力をつけたものが上に立つのである。これだけ情報が氾濫していると一つ一つの物事を選択するときにそれ相当の目利きにならなくては競争に負けてしまう。いかなる理論で武装しようとしても、力があるものが世の中を動かすことができるのだ。勝てば官軍である。 消費者保護だ、なんだで「訴えてやる」という気持ちは分かるが、要は負け犬の遠吠えである。だまされてしまった自分に対して謙虚に反省し、学習しなければ同じ失敗を繰り返すことになる。 テレビの報道や番組も同様だ。所詮民放はどんなに理屈をつけても「営利企業」である。スポンサーを集めて、広告効果を出し、評判をあげて金儲けをすることが至上主義である。(表向きは違うかもしれないが・・・)真実を報道し、国民のためになる番組を作ったとしても、スポンサーが取れず倒産したら自由主義社会では負け犬なのだ。テレビ番組で放送されていることを100%信じて疑わない人がいかに多いか! メーカーからある商品を購入して問題が発生したとする。その会社には「お客様相談」なる窓口があり、誠実極まりない対応で「すぐ交換します」といわれれば、いかにもよい商品を販売しているような気がしてしまう。しかしこれも見事な営業戦略である。リピートがねらえるではないか。 サービス業においては商品=サービスなのでこれは例外だろう。 情報・物・人すべてにおいて見極めが必要になってきている。とはいってもすべての物事に関して豊富な知識を得ることは到底不可能である。ではどうするか? 五感を最大限活用するのだ。そしてちょっとだけ調査をしてみることだ。 太古の時代では、「見たこともない食物が食べられるかどうか」については命をかけて吟味したのである。におい、手触り、見た目・・・なんとか食べられそうだ・・・ちょっとだけかじってみよう・・・げげっ・・・これは苦いぞ・・・危なそうだからやめよう・・・と判断していたはずだ。 今風に言えば徹底した「自己責任」というわけだ。腹が減った、これを食べようかと食べて毒にあたれば命と引き換えになる。毒にあたって死んだからといって責任転嫁する相手などいない。自分の判断の誤りを自分の死をもって学ぶしかないのだ。 日本も急速に訴訟社会に移行しつつあり、また司法を取り巻く環境も改善されてきている。訴訟も結構だろう。
・・・・だけどね、やっぱりだまされないことが一番安全で自分のためになると思うんだよね。自分のことだからね。もっとちゃんと考えて判断しなきゃね。
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サンタがいるかどうかなど、今の私にとって分かりきった回答であるが、では実際に自分の両親が枕元にプレゼントを置く瞬間を見たことがあるかというと、結局一回もなかった。うまい具合にサンタを演じたものである。 小学校6年だったと思うが、25日の朝食のときに「やあ、父さん、昨夜はご苦労様!」などと探りをいれた結果、「はい、これで来年からはサンタは来ないだろうね」といわれて損した気持ちになったことを思い出してしまう。 自分に子供がいて当然の年になって、同世代の仲間がそのようなサンタを演じていることを想像すると、改めて自分が年をとったことに気がつく。そして年々クリスマスという日が特別な日ではなく、年末の忙しいタダの日になってしまったことを確認してしまうのである。 クリスマスが特別な日だったのがいつまでか?と思い出すと、学生時代が最後だったように思う。バブルがはじけたのは1991年10月だったが、それから2ヶ月しか経っていなかったその年のクリスマスはまだバブルの余韻に浸っていた。 1991年は丁度大学三年生で、クリスマスはそれなりに結果をだしてきた私だったが、この年のクリスマスはうまく行かず、学生としては最悪のクリスマス、「シングルベル」が鳴り響きそうな気配だった。バルブ期の連ドラはどのチャンネルを回しても「クリスマスに恋の成就」系のドラマばかりで、より一層気持ちを落ち込ませた。 結局24日はバイトしかすることがなく、(そのバイトはケーキの販売員かなんかだった)アパートで一人で寝転がりながら「ああ、本当にサンタがいるんなら女の子ひとりぐらい連れてきてほしいなぁ・・・」などと考えていた。 そんな時、アパートの2階に住んでいた見知らぬオネーチャン(挨拶ぐらいはしていたが実態は知らなかった)が帰ってきたことに気がついた。安アパートは階段の上り下りで誰が在宅か完璧にわかるのである。 結果は意外にも「いいですね!」とOKがでてカラオケボックスに行ったが、今思うとそんなことまでしてクリスマスを特別な日にしなくてはならなかったのかと呆れてしまう。でも当時は本当に必死だったのだ。それをやることでクリスマスイベントに箔がついたのである。 今年のクリスマスイブは21時半まで仕事をして、家に帰って酒を飲んで寝た。そして25日の今日も仕事だった。 もしサンタさんがいたら何をお願いするか?私が今一番欲しいものは、自宅の「抵当権抹消済登記証」である。(笑)
忘れてた。それと末永い「髪の毛」と「健康」かな!
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先日、オークションサイトを眺めていたら蒸気機関車の前照灯が出ていたので落札した。鉄道廃品を眺めるのは結構好きで、しょっちゅうこの手の出品はチェックしている。 私が鉄道廃品で「欲しい病」に取り付かれるものは共通している。それは「それ単品でメカとして機能を有するもの」である。だから、サボなどはぜんぜん興味がない。たとえば、汽笛などは圧縮空気で鳴らそうと思えば鳴らせるし、前照灯であれば電気を流してやればちゃんと作動する。いつぞやの投炭ショベルだって「単品でメカとして機能を有する」と言えなくもないだろう。 1985年だったと思うが浜松機関区で開催された鉄道イベントで、EF58のSGから蒸気を取り出し、C58から外してきた汽笛を鳴らすコーナーがあり、「なるほど、こんなやり方で蒸気機関車を一部復活させる方法もあるのだ!」とえらく感動した。 鉄道廃品で過去に入手したものはそれほど多いわけではない。先の「投炭シャベル」。それから「標識灯」、そして今回落札した「前照灯」である。 蒸気機関車の「前照灯」とくれば、LP42が代表である。今回私が落札した前照灯はLP42ではなく、それよりも古いものである。製造年月日、形式などを書いたプレートが付いていないが、大正末期から昭和初期でないかと思う。 というのも、大正から昭和初期の蒸気機関車写真でよく映っているタイプの前照灯だからである。私の持っている写真では8620、9600、C51、C54、D50などにその姿を確認できる。 2003年3月の鉄道ファン誌でゴールデングローライトについて記述があったことを思い出したので、図書館でもう一度その記事を読んでみた。そして私が入手した前照灯が極めて価値の高いものであることが分かったのである。 オークションサイトの写真で「ゴールデングローライト」そのものの色をしていたので落札したのだが、鉄道ファン誌によると「黄緑色」をしたヘッドライトが全てゴールデングローライトではないらしい。 しかし、ウランは原子爆弾の製造に関係してくるため、アメリカの対日禁輸品として輸出が禁じられた。昭和16年以降、ウランガラスは製造できなくなったのである。それ以降に作られたものは黄緑色をしていてもウランガラスではなく、紫外線をあてても発光しない。見た目では違いが分からないのである。
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私のヘッドライトは写真のように見事発光した。なんともいえない美しく淡いグリーンである。ウランガラスに関連して「ウランガラス同好会」という組織があり、会員はお宝を持ち込んで展覧会を開催していたりする。その出品物の中には機関車のヘッドライトはなかった。ウランガラス同好会によると、「蒸気機関車の前照灯は歴史上唯一の産業用ウランガラスである」と説明されている。 私は「機関車が残したトカゲのしっぽ」として購入したつもりだったが、産業遺産と指摘されるとうかつに取り扱えなくなる。波乱万丈の昭和を70年近く無傷で切り抜けてきたヘッドライトである。私の代で破損などさせるわけにはいかない。 私が見てきた静態保存蒸気機関車の中にもゴールデングローライトと判断できるものが幾つかあった。これらが破損されないよう祈るばかりである。 余談だが、アルフィーの坂崎幸之助氏はウランガラスの本を書いている。
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先日念願のハードディスク・DVDレコーダーを購入したので、昔から録りためてきたビデオをデジタル化する作業を行なっている。私が保存している映像はほとんどがスポーツ系である。映画やドラマは後からソフトで出回ることが多いが、スポーツはまず残らない。よいプレーや結果はいつ見ても気持ちがよいものである。 昨日は1991年のF1グランプリを編集していたが、思いがけず楽しませてくれるのがテレビCMである。1991年はバブルが崩壊した年で、その直前のテレビCMとくれば、なかなか見ごたえがある。 テレビCMは大抵その年話題になった人物が出演していることが多く、その中には引退してしまった人や、亡くなってしまった人もいる。 番組が番組なので、CMもF1ドライバーを出演させているものが多かった。あるスポットではすべてのCMにF1ドライバーが出ていた。まず東芝ダイナブックに鈴木亜久理、CANNONのコピーにはナイジェルマンセルがワイシャツにネクタイで出ている。パイオニアカロッツエリアにはジャンアレジ、そしてシオノギ製薬ポポンS錠にはデビューしたてのミカハッキネンとジョニーハーバートがでていた。そして音楽・映像ともによかったのが昭和シェル石油のアイルトンセナである。 どれもお金がかかっていてかっこいい。泥臭いアメリカンなマルボロのCMもあった。 普段は邪魔で、まさか録画しようとは考えないCMだが、15年も経ってその映像を見ると、とても新鮮で当時の時代背景をよく伝えてくれる。明和地所の「クリオマンション」の宣伝などいかにもバブリィでいいではないか。 それらの映像を見ていると自分が昔の自分に戻ったような感覚も得られる。最近のレコーダーではCMカット機能が当たり前だが、CMごと録画すると将来の楽しみが増えるというものである。
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引越しは時にとんでもないものをプレゼントしてくれる。 今回の独り言は書こうか、書くまいかずいぶん悩んだ上で決定した。タダでさえ世界へ向けて恥をさらしているにもかかわらず、その動かぬ実績まで公開することになるからである。 「面白いことは自分のネタであろうがみんなで共有したほうがよかろう」と最近では自分を笑いのネタにできるほどの成長が見られる。 そもそもの事件はここから始まった。引越しの最中に高校のときに使っていたカンペン※が出てきたのである。これは写真のとおりビートルズのペンケースで、1966年にビートルズが初来日したときから20年経ちましたという記念で販売されたものである。ということは購入時1986年(高校一年生のとき)ということになる。
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発見したときには「おお!懐かしい!」と感慨にふけったが、蓋を開けて驚きは倍になったのである。下を見ていただきたい。このようなものが入っていた。 昭和63年2月に実施された高校の実力テストの結果表であった。実名入りでしかも生徒番号入りである。個人情報保護法など何のその。特に注目は数学である。 得点0点で順位380番。受験者数は412人いるので零点は(お仲間は)32人いることになる。ちなみに昭和63年2月というと、高校二年生の最後の時期にあたる。大学受験の勉強を始めなければならない時期である。 私は私立文系が希望だったので、数学は関係ないと考えていたが、試合を放棄していたわけではない。それなりに頑張った結果がこれだったのである。文系なら国語ができたかといわれると、点はひどいものである。私のHPには誤字脱字が大変多いが、これはこの成績を見れば納得いただけると思う。「次の波線の文章のうち、筆者の気持ちを最もよく表したものはどれか、次から選べ」系の問題はあっていたためしがない。自信を持って「これ!これだよ作者の本音は・・・」と○をするとだいたい間違っていた。 では「ミュージシャンで世界征服」という夢に必要な英語はどうかというとこれもぱっとしない。 笑えるのが理科である。なんと勉強する必要がない理科に限ってはほとんどトップクラスである。役に立たないものの成績がよいという無駄さが私の人生そのものを暗示している。 この一年後、私は超三流大学に合格することができたが、国語に関して言えば最後の最後まで点が上がらなかった。英語や社会は3ヶ月もあればすぐに点は伸ばせるが、国語は幼い頃からの積み重ねがものを言う。実際国語がもう少しできていれば、もっと違った人生が歩めただろう。 まあ、今となっては学校の成績などどうでも良いが、それでもなぜもう少し真面目に勉強しなかったのかと悔やまれることは確かである。 2000年から2004年の間に国家資格に毎年チャレンジして、きちんと一つずつ獲得できている。そして今年もチャレンジしている。なぜこんなことをしているかというと、私にとって「ライブスチームを始めた=ミュージシャンへの道を諦めた」ということを意味していたので、真人間として生きていくための力をつけなくてはならないと考えたからである。 最近、勉強していて気がついたことがある。それは人間が一生のうちに勉強しなければならない時間は意外と同じなのではないかと言うことである。つまり、小学校から大学まできっちりと勉強してきた人間は社会人になってからそれほど勉強しなくてもよく、逆に私のように幼い頃あまり勉強していないと、年を取ってから勉強しなくてはならなくなるということである。 それなら、先に嫌なことは済ませたほうが良かったんじゃない?という結論になるのである。 ※缶のペンケースを略してカンペンという意味。(だと勝手に解釈している)
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掲題は本のタイトルである。半年ほど前にビジネス書の広告をみて購入した。 この本はロン・クラークというアメリカ人教師によるもので、『「全米でもっとも優秀な教師」による超基本ルール集』と副題がついている。子供のために書かれた本だが、ビジネス書籍として成功しているという。 内容は極めて単純で、子供に教えるための基本ルールが50掲載されているだけである。たとえば、「相手の目を見て話そう」とか「口をふさいで咳やくしゃみをしよう」とか「誰かがすばらしいことをしたら拍手をしよう」などのルールが50掲載されているのである。 礼節こそ日本人が誇るべきものだが(だったが・・・が正しいか・・・。)、この本を読んで私が感じたことはアメリカでも日本でも「礼節」はそれほど差はないということだ。結局、基本ルールを身につけておけば世界中どこでも通用する。 50のルールを自分の行動と比較してみるとできていない項目がいくつかある。もちろん子供のために作られているものなので、項目を変更して比較しなければならないところはある。 あまりにあたりまえなことを真正面から突きつけられるとインパクトがある。逃げられないのだ。 気分が優れないとき、仕事のトラブル、対人関係などで壁にぶつかったときには50のルールを読み直してみる。そうするとなぜ問題が発生してしまったのか、あるいはどうしたら解決できるのかのヒントが隠されていたりする。 私はこの本をとても気に入っている。 ルールの一番最後、No.50は「きみのなれるもっとすばらしい人間になれ」である。 はい、わかりました。努力します。 草思社 http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_4794213204.html
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鉄道に関連した趣味はとても守備範囲が広く、それぞれのジャンルが複雑に絡み合っており、雑誌なども簡単に線引きできないぐらい交錯している。鉄道模型、鉄道写真、鉄道廃線・・・、乗ることが好きな人もいれば、見ることがすきな人もあり、模型もやれば写真まで撮る人もいる。 だから私はこれら鉄道に関する趣味を「鉄道趣味」とよんでいる。 男の子は小さい頃から乗り物が好きである。自動車、飛行機、鉄道、船・・・。これらをすべて嫌いという男の子は極めて少ない。いや、もしすべて嫌いな場合は変人といえるだろう。 しかし、男の子が「男」に変わる頃からだんだん「鉄道趣味」を前面に出す人は少なくなる。身近な車に興味が移るということもできるが、はっきり言えば「鉄道趣味はオタクくさくてカッコわるい」のである。人前で「鉄道が好き」と言いづらくなってくるのである。実際、私は今でもそう思っている。 中学にあがる頃になると、男は完全に女の子の視線を気にして生きていくようになる。そこでもかまわず「私は鉄道趣味人である」と宣言している人もいないことはないが、結局そういう人は「オタクくさくてカッコわるい」奴が多かった。まず女の子にもてるような奴ではない。鉄オタでモテモテ?そんな奴は聞いたことがない。 私に関して言えば、中学にあがる頃からロックミュージックが好きになり、ギターを弾くようになり、と幸いにもかっこよい趣味に取り組み始めた。しかしハッキり言おう、そんなものより「鉄道趣味」のほうが楽しかったのである。 しかし、人前で公言することは「オタクくさくてカッコわるい奴」の仲間入りを果たすことになるので、私は誰にも鉄道趣味人であることを公言しなかった。「そんなもの・・・・はっ!」とまるで興味がないふりをしていたのである。だから一人で孤独に楽しんでいた。鉄道模型屋へ行くときには友達に「ああ、今日は家の用事があってね・・・ごめんね」などと言ってごまかしていたのである。 高校にあがる頃になると女の子とつきあいはじめるようになり、ますます鉄道趣味人であることを隠さなくてはならなくなった。自分の彼女に「オタクくさくてかっこ悪い鉄道趣味人」とみられることは「死よりも辛い」ことだったのである。彼女にしても「あなたのカレはどんな人なの?」きかれて「鉄道マニヤよ!」とは答えられないだろう。 「鉄道趣味」の一つであるNゲージは小学校4年生のときにEF65500番台を皮切りに少しずつ買い集めていた。中学にあがる時点でEF65500、EF651000、D51ナメクジ、D51標準型貨物セット、C62、C57(当時はバリバリ新製品だった)、60系荷物列車編成、73系(グリーンマックスを組み立てたもの)、EF81300番台、24系25型寝台客車、20系寝台客車、キハ20系を所有していた。 これらをいつか立派なコレクションケースに入れて飾っておくことが夢だった。昭和56年に出版された機芸出版社の「Nゲージブック1」P152で展示ケースの作り方が紹介されており、何度も作ろうと考えては挫折していた。 そうするうちに年を取って結局Nゲージたちは段ボール箱にいれられて、彼女の目に付かないように実家の物置に入れられた。その物置にはいつか書いた「投炭シャベル」やら「タブレット」などが、やはり同様に箱に入れられてしまわれていた。 大学へ進学したあとも「隠れ鉄道趣味」は継続しており、サークル合宿の帰り道に適当に用事があるといって車を降り、D51498を一人でこっそり見に行ったりしていた。鉄道ファン誌も「どうしても読みたい特集」があった場合にはこっそりと買いに行ったりした。もちろん買ったものは本棚にはしまわず、まるでエロ本のように引き出しにしまっていた。だから私の家には飛び飛びで「鉄道ファン」がある。 それから20年近くそのままになり、私は結婚して数ヶ月の後、「カミングアウト」したのである。嫁さんはまさか自分の結婚した相手が完璧な鉄道オタクとは思わなかっただろう。 新居のガレージには、当時の夢を再現するがごとく、立派な展示ケースが取り付けられている。そしてNゲージ達は静かにたたずんでいる。彼らは20年以上も暗い箱の中で、ゴキブリと同居しながら日の目を見ることを待ち続けていたのだ。隠れキリシタンである。 そして私はそのNゲージたちに話しかける。「やあ、長かったね。シャバの空気はどうだい?」 そういえば・・・ライブスチーマー某氏の奥様とうちの嫁さんの会話に :嫁さん「結婚する前からご主人が鉄道マニアだったことを知っていましたか?」 :奥様「いえ・・・・全然・・・。結婚してからだんだんわかってきたんですよ」という奥方同士の会話があったことを生涯忘れることはできない。 ああ、もうひとつあった。つい最近、大学時代の後輩の女の子が「新居を見たい」といってわざわざ遠くから遊びに来てくれたが、完璧な鉄オタクぶりに興ざめになったらしくその後電話がこなくなった。「センパイは大学の頃も鉄道模型を持っていたんですか?」「うん。クロゼットの奥に隠してあったよ。たまに眺めて『いいねぇ』なんてつぶやいたりしていたけどね。ええっと、これとこれは、大学生になってからひそかに買い足したやつだな、うん。」などという会話が影響していなきゃいいけど・・・。カミングアウトしなかったほうがよかったかなぁ。 |
掲題はこのホームページをごらん頂いている人なら何のことかすぐに分かるだろう。わからない人は掲題をクリックして欲しい。 模型蒸機の部屋の作者である渡邊氏はついに機関車を完成された。文句なしのすばらしいできばえである。ライブスチームのホームページは今でこそいくらでもあるが、私がライブをはじめたときにはほとんど唯一といってよい「定期更新型」ホームページだった。 前回の独り言で書いたように、私の鉄道趣味は長く鎖国状態であった。その鎖国を開国へ動かしたのはなんといっても「模型蒸機の部屋」だった。このときの状況は当ホームページの黎明期に書いたが、とにかくすごい人がいるものだと目からうろこが落ちる思いだった。ちょうどボイラーを完成された頃にメールを送ったのが全ての始まりだった。 会ったことも、話したこともない人にメールを送信したのもこのときが最初だった気がする。 山ほどあるライブ関連ホームページのなかで、@正確でA分かりやすくB客観的でC読み物としても楽しめるという条件を満たしているサイトは未だこれしかない。難易度の高い説明を要する工作も実に簡潔に、且つ数値を与えて説明している。 逆転機の機構など新しい発想であるし、インターネット版「ライブスチーム/模型機関車の設計と制作」といえる内容だ。私は工作が行き詰まったときには必ず読み返すようにしている。すると必ずヒントが得られるのである。 渡邊氏の年齢から推定できる1999年〜2005年の期間は人生でもっとも変革と多忙を極める時期であり、おそらくほとんどないであろう自分の時間を最大限使って、こつこつと工作されてきた結果が報告されている。 「模型蒸機の部屋」はライブスチームの工作報告記ではなく「一人の男の生き様をライブスチームの工作記を通して実況したもの」であることに気が付くはずだ。だからこのホームページはすばらしいのである。 先日、ミニSLフェスタ・イン・福知山2005で完成した渡邊氏のフリーランス古典蒸機を拝見したが、一目見て感動してしまった。まるで後光が差しているようだった。幸運にも私は運転させていただいたが、操作性・性能どれをとってもすばらしく、注目度も高かった。 私は当初運転会に参加する予定はなかったが、この機関車を見るために予定変更して福知山へ出かけたのである。とても嬉しかったことは、同じ行動をとった人が私だけではなかったということである。私のほか数人が「この機関車を見るために運転会に参加したのだ」と公言していた。 模型蒸機の部屋は今後どこへ向かうのか?想像するだけで今から楽しみである。
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年末に毎度頭を痛めるのが年賀状である。おそらく日本国民のほとんどが面倒だと感じているだろう。インターネット黎明期に、「いずれは年賀状もメールでやり取りする日がくるのだろう・・・」と、一時期メールの年賀状を作ったこともあった。 しかし年賀状は相変わらず作り続けている。メールの年賀状やグリーティングカードの類は近年の迷惑メールの影響ですっかり姿を消してしまっている。私のところは年末年始だけで迷惑メールが100通近く届いた。スパムメールストッパーで仕分けしているが、このソフトも完璧ではないので普通のメールも削除してしまっている可能性はある。結局、メール年賀状はいまだに根付いてはいない。 年賀状は平安時代から始まったようだが、その歴史を調べてみるとなかなか興味深い。たとえば、戦時中は物資の無駄遣いという理由で禁止されていた。禁止は昭和15年、復活は昭和23年で実に8年間中止されている。昭和23年以降は相手方の安否を確認するために出していた人が多かったようだ。面倒な年賀状も戦後の安否確認としての目的があれば立派である。 近年、面倒と思いつつも私も年賀状の価値を見直している。年賀状でしか繋がっていない人の数がかなり多くなってきたからだ。私は以前も書いたが引越しが多く、加えて実家も引越しをしてしまっていたので、19歳よりも前に付き合いのあった人が私に連絡をとろうとしても簡単に連絡が取れなくなっている。 高校の仲間が言うには、「同窓会名簿はいつも『消息不明』となっていたぞ」だった。昔の私の知人であれば「ああ、たまいなら死んでいてもおかしくない」と考えるに違いない。ちなみに2004年〜2005年のたった二年のあいだに、私の住所は4回変わった。そのうち引越しはたった一回である。 年賀状を準備するということは自分の所在をきちんと相手に伝えることになる。頂いた年賀状はできるだけ返すようにしているので少なくとも年賀状を探せば連絡は取れるということになる。面倒くさがりの私にとって、年賀状を出さないといけないというプレッシャーによって人並みのコミュニケーションが保てている。 特に大きいメリットとして女性の友達と繋がっていられるということである。年賀状なら一年に一度、近況を掴むことができるし、苗字が変わろうが所在が変わろうが、離婚してさらに苗字が変わろうが確実に状況把握できる。子供が生まれたりするとその状況も分かる。 ちなみに私は毎年年賀状を二種類作る。ひとつは一般用、もうひとつはライブスチーマー用である。間違えてライブ用を一般用で送ったりすると「作りかけのくず鉄の写真」としてしか受け取られないので注意している。
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