2002.5.1    プロ野球カード

子供は大抵純粋だが、聞いたことは大げさに語りたがり、嘘をつくことが好きなものである。

そして今年は阪神タイガースが堅調なこともあり、私は久しぶりに日本のプロ野球に注目している。
ダイエーの監督は「世界の王」こと王貞治だが、私は王監督の顔をテレビで見るたびにいつも思い出すことがある。私の世代にとって「王貞治」は子供の頃のスーパースターの一人である。誰もが「一本足打法」で打席に立つ王選手の下敷きやポスターを持ち、草野球ではみんなが一本足打法を真似たものだ。756号の世界記録を達成した時の王選手はそれはもう、本物のスーパースターだった。

私が小学校1年か、2年の頃だったと思うが、当時20円前後で購入できた「ポテトチップス」(小袋のやつ)にはもれなくプロ野球カードが付いていた。青い紙袋に入っており、ポテトチップスを購入したとき代金と引き換えにお店のおばちゃんが一枚くれた。中はどの選手が入っているのか分からないようになっており、専用のアルバムも売っていた。(記憶が定かではないが、くじで当てる必要があったかもしれない)まあ、とにかく流行っていたわけだ。ガキどもはこのプロ野球カード収集に懲り、みんな専用アルバムに大切に保管していた。当然、人気選手は貴重で、私も「広島東洋カープ 山本」「阪神タイガース 田淵」「読売巨人 堀内」あたりはかなり自慢の品だった。

しかし、ブームの真っ最中に、私はある奇妙な話を近所のマコチャンというお兄ちゃんから聞いた。それは、プロ野球カードの「王貞治」のカードの話だった。

マコチャンの話はこういうことだった。

 @ 王貞治のカードはめったにないが、それは2種類ある。
 A 一つは普通のバッターボックスで一本足打法で写っているものである。
 B もう一つは、王貞治が便所でう○こをしている写真である。
 C それはとても貴重である

 

私は驚いた。そんなプロ野球カードがあるならば見てみたい、そしてそれを学校に持っていき「どうだ!」と連中に自慢してやりたい、と思ったのだ。

マコチャンは「本当だよ、俺見たことあるもん」と言い、「俺もきっと手に入れる」といっていた。私も「なんとしても手に入れてみせる!」と強い決意でプロ野球カードを買いあさることにした。(すでにこの頃からコレクターの傾向がある・・・)お店のおばちゃんに、「ねえ、本当はどのカードがどの選手か知っているんでしょう?」と食って掛かり、お小遣いはすべてポテチにつぎ込んだ。小学生のくせに「破綻寸前」まで買い尽くした。

しかし、結局王が便所でう○こしているカードは手に入らなかった。(あたりまえだ!)私はここまで努力をしているのにどうして手に入らないのだろう、お店が悪いのだろうか・・・・、と真剣に対策を練っていた。

まさしく本物のバカである。今の私なら、それはマコチャンの大人流冗談だったのだろうと(あるいはマコチャンもだまされていたかである)簡単にからくりが分かるのだが、当時はわからなかったのだ。

子供の頃の私はバカ正直で、たとえば誰もいない、車が全く通らない田んぼの真中の信号をきっちり青信号になるまで待っている(それも小学校6年くらいまで)ような子供だった。

実家の引き出しには今でもその頃買い集めたプロ野球カードがある。ちょっとぐらい骨董価値がありそうなものだが、暗い過去を引きずる私にはとても辛い一品だ。

 


2002.5.7    現物確認

ゴールデンウィークの休みを利用して、13年ぶりに青梅鉄道公園を訪問した。前回訪問したときは、機関車の荒廃ぶりにショックを受け、ほとんど見学らしい見学をせずに帰ってしまった。しかし、現在は東京の交通博物館を管理している会社に経営が移行しており、すべての機関車が可能な限り美しく整備されている。

実際、機関車の運転室は窓ガラスや計器が完璧に修理されており、また一部の機関車はガラス扉で区切られて運転室の機器には手が触れられないようになっていた。ペンキも定期的に塗られているようで、さびもなく当時の存在感をアピールするだけの外観を十分保っていた。

そんなわけで、お目当ての機関車をじっくり眺めることができた。青梅鉄道公園の機関車は歴史的価値から見ると梅小路機関区の機関車など全く太刀打ちできない代物が保存されている。たとえばC515、見事な化粧煙突と美しい動輪を丸々見学できる。それにE10、ここでしか見ることができないのだ。また8620の長男8620もある。まあ私にとってはお宝を見るようでとても楽しいひと時を過ごしてしまった。来館者はほとんどが子供連れの家族で、私のような子供をつれない大人はちょっと場違いな感じがしてしまったほどだ。

そんな子供が溢れる公園の中でカメラ片手に機関車にもぐったり、数センチまで寄ったりして、以前から是非確認したかった事項をすべてチェックしてきた。チェックしたからといってどうなるわけでもないのだが、その機関車の歴史や稀少さを実際に感じることで獲られる感動もあるのだ。

興味がない人には全く面白くも何ともない写真だが、せっかくの「独り言」なので、あえて写真を掲載しようと思う。

 

C515 C515
C515には数箇所18904の刻印が残っていました。 フロントビームにはバッファーの取り付け跡が・・

E102

E102
E10には確かにフランジがありませんでした。 そして運転台は右側でした。(とても狭かった)

5504

8620
5500はやっぱりスチーブンソン式バルブギアでした。(先台車と動輪の隙間から・・・) 8620はSキャブで、運転室床板もちゃんとS型にあわせて床が盛り上がっていました。

「だからなんなんだ、」と卑下しないでね。同じことをやっていたその手の業界(おそらく模型マニア)の人がもう一人いたのですから・・・

 


2002.6.8     鉄道おもちゃ

先月の中ごろに月刊誌「RM MODELS」や「Rail Magazine」を発行しているNEKO PUBLISHINGからメールが入り、「鉄道おもちゃ」の特集誌を発行するため、ホームページの掲載許可を頂きたいと連絡があった。鉄道おもちゃとライブスチームがどういう関係なのか理解できなかったが、名誉なことなのでよろしくお願いしますと返事を送った。

そんなわけで、「鉄道おもちゃ」誌にホームページが掲載された。紙面を確認すると、思っていたよりも大きく、しかも写真入で掲載である。どう見ても書籍の内容とホームページの内容がリンクしているとは思えなかったが、「マニアック」という面だけは一致していた。

しかし驚いたのはそのおもちゃ特集の内容で、いまやおもちゃなのか模型なのか、境界を引くことが難しいほど「鉄道おもちゃ」は進化していた。NやHOの経験がある人なら分かると思うが、レイアウトが複雑になればなるほどギャップやフィーダーが複雑になることは避けられなかった。
しかし、いまや子供の玩倶である「デジQトレイン」では赤外線利用の遠隔操作システムにより手元で進行方向やスピードが変えられる上、レールのポイントまでもリモコンで操作できるのだ。
車両自体はデフォルメされていて、プラレールをちょっと精密化した程度の外観だが、内容はHOやNをはるかに上回っている。レール集電ではないので子供でも簡単に好きな列車を好きなようにコントロールできるわけだ。昔では考えられなかった「機関車同士の綱引き」もできるのである。
本当に今の子供は恵まれているなあ、と羨ましくなってしまった。本を読んだことで、おもちゃの情報も私にインプットされた。

そして先日、近所のマクドナルドで昼飯を取っているときに、出入口にプラレールのガチャガチャ(と私はよんでいたが、カプセルトイというらしい)が置いてあることに気がついた。近くでなめるように中を確認すると、それはトーマスのミニプラレールで、ゼンマイ仕掛けのトーマスやらジェームズやらパーシーがゴロゴロと中に詰まっていた。価格を確認すると200円である。私の時代にはガチャガチャは20円ときまっていたのに!

マックのオネーチャン店員がスーツにネクタイ姿でトーマスのガチャガチャを前にブツブツ言っている私を見て怪しそうな視線を送っていた。客の女子高生集団も同様であった。わたしはカモフラージュもかねて

「うちのガキがよろこぶだろうなぁ!(私には子供はいない)」

とちょっとブツブツを大きくしながらすばやく100円硬貨2枚を取り出し、ガチャガチャのハンドルを回した。ゴリゴリという音とともに懐かしいカプセルがごろんと出てきた。青いプラスティクのパーツが見えたので「よっしゃ!トーマスかエドワードかどっちかだね」と思い、すばやくポケットに忍ばせてマックをでた。

車に戻ってカプセルを開けるとそこには機関車の姿はなく、青いプラレール一本と信号機が入っていた。私は忘れていた。ガチャガチャにはハズレも入っているということを。
そしてとてもがっかりしながら車を発進させた。

 


2002.7.11    オヤシラズ  その2

前回、オヤシラズを抜いてからはや半年。私は自分の体に残った最後の1本のオヤシラズを抜いた。前回と同じく真横に生えており、しかも外からは見えないところに生えていた。もう詳細を語ってもしょうがないので、ぶつぶつ書くしかないが本当に痛かった。

今回はオヤシラズの抜歯に2時間かかった上、点滴を2本うち、しかも熱が三日続いた。処方箋薬には座薬まで含まれていた。歯医者で座薬!(口腔外科だけどね)まして歯医者で点滴を打つことなど考えたこともなかった。

抜いているときも辛かったが、抜いた後の痛みは尋常ではなく、「つば」も飲み込めない状態だった。抜歯に時間がかかったため最後の縫合では麻酔が切れており、歯ぐきの中を糸が「ツー」と通る感覚がわかった。院長によると「久しぶりに大物だった」そうだ。歯の一部があごの骨に癒着していたらしくびくともしなかった。

今でも鏡には醜く歪んだ顔がある。歪んだだけではなく皮膚の色も変色して、どう見ても気味が悪い。喉にまで怪しいアザができていた。

みなさん、オヤシラズは小さいうちに抜いてしまいましょう。つらいですよこれは。

 


2002.7.21    液晶ディスプレイ

つい先日、我が家に16インチ液晶ディスプレイを導入した。本当は17インチが欲しかったのだが、予算上16インチとなった。じつは、これが私が購入したはじめてのディスプレイだった。

では今まではどうしていたかというと、会社や取引先からでる廃品を失敬していたのだ。タワーや周辺機器は全て自前でそろえていたが「モニターに掛ける費用があるならもっと新しいサウンドカードを入れよう」とか「書き込みが早いハードディスクへ変更しよう」などの理由でなかなか購入に踏み切れなかった。当然廃品のディスプレイは14インチで古く、汚かった。CRTであることは言うまでもない。ディスプレイの性能としてはCRTのほうが好ましいのだが、17インチや19インチとなると大きすぎて大変だ。
ハードの入れ替えはとても楽しいが、ディスプレイは「見られれば良い」程度の考えだった。新しく導入したからといってそれほど感動するものではあるまい・・・と考えていた。しかし、実際に導入してみるとこれがとても快適である。

このホームページを以前から見ていただいている方なら気づかれたかもしれないが、半年ほどまえから写真の露出が過剰になっていた。これはその時期にボロのディスプレイからさらにボロのディスプレイを導入したため(廃品はすぐに壊れる・・・)で、バックライトの光量が不足していたからだ。適当だろうと思われるところからやや暗めに露出を決定していたが、結果ディスプレイを購入して確認するとかなり露出オーバーだった。ようやく普通の人が閲覧しているレベルで確認ができた。

またCADについても効果てき面で、領域が広くなったため作図が楽である。インターネットの閲覧にしても、フレームページをストレスなく見ることができる上、液晶で小スペース化したため目からの距離が離れて疲れない。しかもディスプレイと同時に回線もADSLに切り替えたので高速ダウンロードである。大好きなワイセツサイト閲覧も快適で迫力が違う。ついつい時間を忘れてネットサーフィンである。

やっぱり新しいハードの入れ替えはとても楽しい。

 


2002.8.10    奇想、天を動かす

夏休みといえば読書感想文が宿題の一つだった。そんなわけで夏休みを控えた今回は「推薦図書」の紹介をしたいと思う。タイトルの「奇想、天を動かす」は島田荘司著、1989年初版の長編推理小説である。私はある知人から「絶対に気に入ってくれると思う」という強い推薦により読んだのだが、そのとおりの結果となった。

著者/島田荘司の本はその後かなり読んだのだが、彼のベスト推理小説はこの本だと思う。次点では「自動車社会学の奨め」もお奨めだがこれは推理小説ではない。

「奇想、天を動かす」は北海道の札沼線が舞台になっている。江戸川乱歩張りの序文を一度読み始めると途中で休むことなく最後まで読み続けてしまう。鉄道ネタが好きな人には特にお奨めである。読み終わったあとは強い脱力感と無力感を感じる。

JR札沼線は今でも健在だ。本当にあった話なのではないか?と感じ現地を確認したくなる。そんな小説だ。

「奇想、天を動かす」は光文社から出版されている。この夏のお奨め。

 


2002.8.17 夏草や兵どもが夢の跡

「エスエルブーム」と呼ばれた時代にようやく生まれた私にとって当時の様子を知る手段は写真を見ることである。幸い、インターネットのお陰で個人のたんす奥深くに眠っていた莫大な写真が多数のホームページで公開されている。

蒸気機関車の撮影ポイントは雑誌等で取り上げられ、有名ポイントはいつもカメラの列で覆い尽くされていたようである。では、誰でも知っているもっとも有名な撮影ポイントはどこかと考えると私には一つしか浮かばない。それは伯備線布原信号所のD51三重連である。奥中山や花輪線も三重連で有名だが、撮影ポイントとなると広域に渡り、それぞれの撮影者の個性が出ている。しかし、布原信号所は誰が撮影したものでもほぼ同じ構図になっている。

実家には布原信号所の鉄橋を渡る三重連のパネルがかけてある。これは中学1年の時に知人からプレゼントされたものだった。つい最近も知人から同じ鉄橋を渡るD51838のパネルをいただいたばかりである。誰でも知っているもっとも有名なポイントといってまず問題はないであろう。

私は、どんなつまらないものでも自分の目で確認しないと気がすまない性格なので、前述の「現物確認」のようなマニアックな行動に出てしまう。しかしさすがに蒸気機関車撮影ポイントまで確認しようという気にはなかなかなれなかった。撮影ポイントは蒸気機関車をより素晴らしく撮影するための場所であって、蒸気機関車が走らないにもかかわらずそのポイントを訪問することは全く無駄としか考えられなかったからだ。しかも大抵そのようなポイントは地方で、交通の便が悪いところが多い。

しかし布原信号所は特別だった。一回ぐらい過去のポイントを見てみるのも悪くなかろう・・・と考え、訪問することにした。ついでの用事を利用して、岡山からレンタカーを借りて現地に向かった。地図上、布原信号所は正式に「布原」と駅に格上げされていた。電化されていることも人から聞いたことがあった。

国道を新見に向かって走り、そこから県道にそれ、山道をさらに分かれて幅3mほどの細い道を下っていくといきなり布原駅に出た。

駅といっても一日の乗降客はおそらくほとんどないと思われるところだった。しかし、周辺の山、家並み、川は写真で見る30年前とほとんど変わらなかった。写真では、とても奥行きのある、大きな鉄橋だと感じていたのだが、高さも長さもこじんまりとしていて、周辺の道路もUターンが不可能なほど狭い道だった。残された数多くの写真とビデオによると、トンネル付近の山には「お立ち台」が整備されて、何百人もの人が毎日山にへばりついていたというが、それは到底信じられるものではなかった。

思い切って鉄橋を渡り、撮影ポイントに移動してみた。かつての「お立ち台」は跡形もなく、それどころか、うっそうと茂った「大木」にさえぎられて、山から鉄橋を俯瞰することは不可能だった。昔と同じように写真をとるためには、かなりの人を狩りだして「大木」を伐採しなければ撮影はできない。

そんなことを考えていたら、突然青い電気機関車が牽引するコンテナ貨物列車が轟音とともに鉄橋を渡り、トンネルに消えていった。トンネルの中も勾配は続いているようで、蒸気機関車時代はさぞかし機関士泣かせだったことだろう。

トンネルポータルの横には小さな梯子があり、そこを上って一枚写真を撮影した。

今にも奥のカーブからD51が走ってくるのではないかと感じたが、それぐらい昔のままだった。本当はもう少しカメラを引いて右奥まで入れたかったのだが、こちらも大きな木が邪魔で見ることができなかった。築堤にも川の堤防にも生い茂った夏草が遠慮なく生えている。

ふと、松尾芭蕉の俳句が頭に浮かんだ。私の目の前に広がっている景色にはこの上ない詩だった。

 


2002.9.10    株価が下がると・・・

毎日ニュースになっているが、日経平均が9000円を割ろうとしている。株価が下がるとどのような問題が発生するかをニュース番組で解説している。

さて、私はこのとおりライブスチームの機械加工キットを購入し、それをHPで公開している。当初ライブスチームを始めるべきどうか考えていたとき、大抵の人がそうであるように私も資金的な問題が一番の障害だった。
自作するにしても、機械加工キットを購入するにしても、最初の一台目というのはとにかく投資が必要である。二台目三台目と台数が増えていく場合には当然工作機械を購入し自作することが一番安上がりになるが、この場合も最初の一台目は、工作機械や工具をそろえるための費用が50万では足りないだろう。良い中古工作機械に恵まれれば話は別だが、この場合もオプションが使用できなかったり、精度がどこまででているかという問題がある。

セントラル鉄道のキットは販売台数が証明しているように、価格はかなり安く設定されている。部品の配布が大きな問題となっているが、私はすでに部品の配布に対して工作が追いつかない状態になっている。部屋には送られてきた部品箱が積まれている。だんだん工作場所を確保することが困難になっている状況である。

セントラル鉄道8620は全ての配布が修了した段階で、総払込が180万前後になる。しかし、これは一括で支払うわけではなく、全18回の部品が一回ずつ送られてきた段階で1回につき約10万払い込むシステムになっている。大抵のライブメーカーがこの方式になっている。
3年で完成したと仮定しても、1年間の払込は60万で部品は6回分である。2ヶ月に1回パーツが届くことになる。これはかなり早いペースだと思う。

セントラル鉄道に8620を申し込んだ直後私は考えた。180万の貯金を切り崩して購入してしまうとそのお金は機関車に形を変えて消えてしまう。であるならば、180万の資金を運用し、年間最低60万の利益をあげればよいということである。

そして、私は株に投資することを考えた。株はもちろんやったことがなかった。株といえばスーパーの野菜売り場に売っているものしか連想できない程度だった。しかし、勉強はタダである。とりあえず書籍を立読みしたり、ネットで情報を集めたりした。そして、虎の子を契約したインターネット証券会社の口座に預けた。ライブスチームとは本当に人間を勉強好きに変えてしまうものである。

株の分析を始めて、最初に購入した銘柄はとても順調だった。1週間で、10万ほどの利益を上げ、その後もある程度の利益を挙げることができた。3回配布分ぐらいまでは・・・。基本的に私は短期で勝負し、(というよりも、最低2ヶ月で10万の利益が目標だったのでそうせざるを得なかったのだ)すぐに売り逃げた。当たり前だが、信用取引は行わない。
第1回配布から現在まで6回の配布を受けている。これを全部株のキャピタルゲインで購入できたかといえばノーである。しかし、自分の懐を痛めているという感覚はそれほどない。

しかし、ここにきて株価の急落である。今回は、ナンピン(株が下がった段階で買い増して、平均購入価格を下げる)を繰り返したため、余剰資金がほとんどない状態である。

つまり、私にとって株価の下落が起きると、ライブスチームの購入資金が目減りしてしまうのだ。含み損も配布2回分になろうとしているが、目減りした資金分は後の配布回数にしわ寄せをシュミレーションし、どうせそのあたりの部品はボイラーなど時間がかかるものばかりになるから時間が解決してくれるだろう・・・などとできるだけ前向きに考えて毎日を過ごしている。

 


2002.11.16    助言

ライブスチームに取り組むようになって早2年になろうとしているが、自分で過去に書いた「ライブスチームに挑戦」の奮闘記を読むと我ながら上達を感じる。もちろんまだまだだが、当初に比べると少しずつだがわかってきている。

やりはじめた頃は、本当に「何も知らない」状態だった。文系出身の私は、工作機械に触ることもなかったし、金属加工など、できるはずがないと考えていた。部品は買うものだと当たり前に考えていた。車修理は不足部品を買うことができたが、機関車となるとそういうわけにはいかない。金属加工の本を読み、刃物の勉強をして、工作機械の勉強をして、CADを身につけ、失敗を重ねて何とか今後の目標と見通しができてきた。

一つのジャンルを極めようと思うと、趣味でも仕事でも長大な時間と練習を必要とする。では、私にとってライブスチームは長大な時間と練習を必要としていたか?と聞かれるとまだたったの2年である。長大な時間ではない。

では、どうして上達できたのかと考えると、これは「教えていただいている」ということに他ならない。幸いにも、このようにHPを運営していると、いろんな方々からアドバイスを頂く。

アドバイスは、その人が経験してきたり、苦労してきた中で得られた、最良の結果を私に教えてくれているのである。例えば、工作について「これこれをこうやってこうしたらどうか」とアドバイスを受けると、仮にそのやり方で失敗したとしても一つの消去法になる。成功した場合は、失敗した部品にかけた時間、材料費が浮いたことになり、最良の結果が得られる。教えて頂いている方の「上澄み」だけを受け継いでいることになる。
また、Aという部品を加工してくれる業者を探しているとする。それをあっさりと、「どこどこでいくらでやってくれる」というアドバイスをいただくと、少なくとも電話帳をめくったり、ネット検索したり、車で走り回ったりという作業をしなくて済む。おそらく一日かそれ以上の時間が節約できることになる。

これは本当にありがたい話である。善意でこんなに美味しい「上澄み」を頂いてしまってよいものだろうかと申し訳ない気持ちになる。人の話は聞くものだなあ・・・と最近感じるのだ。

なにもこれはライブスチームに限らず、仕事でも日ごろの生活でもそうである。仕事柄、お年寄りと話をすることが多いが、さすがお年寄りである。「人生のプロ」だけに実に良い話をする。もちろん時代に合わない話もあるが、その当時その人にとって最良だったものは今でもそれなりに通用するのだ。私は話を聞いて、そのたくさんの情報から取捨選択だけをしていれば、成功への最短距離を進むことができる。

アドバイスに従うことはお金と時間を短縮する最良の方法である。謙虚に、大切に受け止めたいと肝に銘じるこのごろである。

 


2002.11.18    蒸気機関車販売ディーラー

ポールマッカートニー大阪ドーム公演を見に行ったついでに、共永興業本社を訪問し、あのC57148をガラス張りの建物に保存している会社を見にいった。地図で共永興業の場所を調べると大阪ドームから歩いてすぐのところだった。

幹線道路沿いの大きな本社ビルに、C57148は鎮座していた。上面と前面が大型ガラスで設計されたギャラリー風の建物である。私は道路沿いからそのサマをみて、まるで蒸気機関車の販売会社のようだ・・・と感じた。休日なので中には入れない。

ポールのコンサートに同行した高校の同級生I君は「コンサートの前に腹ごしらえをしないと・・・。なんか食べるもの買ってくる」といって、興味がない蒸気機関車の前から去っていった。彼が帰ってくるまでの間、私は歩道にペタッと座り込んでじっくり機関車を眺めることにした。本当に蒸気機関車販売会社のショールームのようである。

私は持病の白昼夢に陥ってしまった。

白昼夢・・・・

「ウィーン」 (ショールームの自動扉が開く音)
「いらっしゃいませ いらっしゃいませ  いらっしゃいませ!」 (複数の営業マンが声をかけてくる)
「ああ・・・旅客用の大型機関車を探しているんだがね・・・
何か適当な機関車がないかと見にきたんだよ」
(客が営業マンに話をする)
「さようでございますか。こちらへどうぞ」 (営業マンが応接に案内する)
「いらっしゃいませ」 (ショールームのオネーチャンがお茶を持ってくる)
「お客様は大型の旅客機をお探しでいらっしゃるということですが、大変失礼ですが、お客様の線路規格はどのようでございますでしょうか?」 (営業マンが複数のカタログをもってくる)
「うちの規格?確か、乙規格だったと思うが・・・間違いないね」 (客がメモを見て答える)
「さようでございますか。では、ここに展示してあるこちらのC57型はいかがでしょうか。現在マイナーチェンジして3次型になっております。特徴は冷却管がランボードの下に移りましたので、すっきりとしたサイドビューが特徴です。使用蒸気圧も国内初の16キロ対応です。1040馬力で最高速は100キロです。こちらの商品なら御社での活躍が期待できると思います。」 (営業マンが商品を案内する)
「うん、なかなかいいねぇ・・・カッコいいし。そういえばあのC51型はどうなのかなあ?機関車オブ・ザ・イヤーを取った・・・」 (客がたずねる)
「C51型ですか。大変残念なのですが、メーカーの方で生産が終了してしまいまして、すでに中古市場でしか手に入りません。どこかで自社登録したものを在庫で抱えているというものがあれば別ですが・・・・また、一世代前の板台枠を採用しておりますので、剛性面でも不安があります。C57型はC51型の後継機ですから、性能、操作性、整備性とどれをとってもC51型よりも優れております。峠で楽しむにはC57型が優れていると思います。」 (営業マン残念そうに答える)
「まあそうだろうね。新型だからね。わかった。じゃあC57型にきめようかな。価格はどんなものかね?」 (客がたずねる)
「C57型は車体価格だけで、450万円です。これに登録諸費用と納車費用、税金が加わります。オプションも・・・オプションはどうされます?」 (営業マンしゃべる)
「オプションはどんなものがあるのかね?」 (客がたずねる)
「C57型のメーカーオプションとして、重油併燃タンク、ATS用発電機、それから寒冷地密閉キャブがオプションです。150W型タービン発電機と標識灯は標準装備です。ディーラーオプションでは、スノープロウ、門鉄デフ、LP402ヘッドライトです。」 (営業マン得意げに答える)
「それじゃあ、寒冷地密閉キャブとスノープロウをつけてくれ。冬の峠は寒いからね。あとからつけるのも大変だし」 (客が注文する)
「それでは・・・・・ピ・ピ・ピッ・・・・諸経費オプション込みで520万円になります。値引きは20万させて頂きました」 (営業マン電卓を叩く)
「なに。20万しかしてくれないの?この間私の知人が汽車製造製のC55型を480万で購入したと吹聴していたよ?もう少し安くならないの?頼むよ」 (不機嫌そうに営業マンに当たる)
「さようですか・・・しばらくお待ちいただけますでしょうか?」 (営業マン店の奥に鎮座している店長とぼそぼそ相談してる)
「それではお客様・・・こちらで・・・・」 (営業マン、お願いします!と表情)
「うん、まあそんなもんだろうな。欲を言うともう一品オプションが欲しいんだがね」 (勝ち誇ったように客が答える)
「いえ、これ以上は・・・・・そうですね、それでは私の個人のルートから8000kcalのウェールズ炭を8tつけさせていただきます。これでよろしいでしょうか?」 (困った顔の営業マン)
「いいねえ”!それならいいよ、じゃあ契約だな」 (よっしゃぁーと客)
「ありがとうございます!」 (鬼の首を取ったような営業マン、さっそく注文書をとりだす。)
・・・・・・・・・・・・・・

たまい、たまい・・・・白昼夢から冷めた。I君だった

「もうそろそろ行くぞ、開場まで時間がないぞ、なにぼんやりしてるんだよ。」と。

 


2002.11.25  美女応援団

釜山アジア競技大会で話題をさらった北朝鮮美女応援団だが、彼女達は皆北朝鮮政府高官の娘であり、将軍様の身体検査を受けたあと派遣されたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体検査って・・・・・何するんだろうね?

 


2002.12.14    キリ番キャンペーン

HPを製作する側の楽しみにアクセスカウンターがある。最近ではアクセスカウンターにも解析をしてくれたり、一日のアクセス数、各ページの合計を表示したりするものなどがあり多様である。カウンターを見る楽しみはHP立ち上げ当初のほうが大きく、10000件を過ぎたあたりからどうでも良くなり、そのうち何人見ているかということにも興味がなくなってくる。
しかし、他人のHPを見た時に偶然「777」とか「30000」などのキリの良い数字を引き当てると妙に嬉しかったりする。勝手に「今日は良いことがありそうだなあ・・・」などと考えたりもする。

たまに切り番でプレゼントなどをしているHPを見かけるが、私もいつかやってみたいとずっと考えていた。丁度、製作中の機関車が48685なので、アクセス48685を引いた人に何かプレゼントでもしてみようか・・・とぼんやり考えていた。

キャンペーンである以上、プレゼントを用意しなければならない。では何をプレゼントするかだが、私が作ったものなどは三流で、景品にしたところでゴミにしかならない。エッチングしたナンバープレートをプレゼントしようかとも考えたが、これも必ずライブスチーマーが引き当てるとは限らないので、もらった人の立場になると気の毒である。

こうして考えている中に私が撮り溜めた蒸気機関車のビデオなんぞどうかしら・・・と思いついた。幸い大井川鉄道が近くにあるので未編集のビデオテープが山ほど残っている。これなら、ライブスチーマーが引いた場合には喜んでもらえると思うし、そうでない人も興味がなければビデオに上書きして使ってもらえればゴミを送ったことにはならない。

よし、これで行こうと決断してビデオ編集をはじめたが・・・・・・・面倒である。結局のろのろと途中まで編集した段階で、あっさりと48685番は過ぎてしまった。

48685を引いた人、何もできませんでしたが・・・、おめでとうございます。これで許してくださいね。いいことあるよ、きっと

 


2002.12.24    翻訳

先日、愛読している「模型蒸機の部屋」のリンクに素晴らしいホームページが登場した。フィンランド在住のライブスチーマーによるもので、工作技術もさることながらHPとしてもとても読みやすく、また写真も豊富で全く素晴らしいサイトである。
特筆すべきところではボイラーの製作についての記述である。製作が簡単で、且つ効率の良いボイラーを設計するためにアイデアをいくつも考えており、私は目からうろこが落ちる思いで必死に読み続けた。

しかし、このサイトは英語である。他の海外のサイトに比べると読みやすいが、それでもセンテンスが長くなると読解に時間がかかる。

以前、私の「オーディオ」ページにアクセスしてきたウルグアイ人から英語でメールを頂いたが、彼の母国語はスペイン語である。私はどうして日本語サイトが理解できたのか?とたずねたところ、「日本語を英語に変換するソフトを持っているので、一旦日本語を英語に変換して、それを辞書片手に読んでいるのだ」と返事がきた。そこまでして読んで頂いていることにとても感謝したが、インターネット最大の魅力が情報である以上、外国語の読解力はどうしても必要になる。
そこで翻訳サイトなるものを紹介していただいたので早速ページを貼り付けて翻訳してみた。それが以下の文章である。青い文章が翻訳後の文章で、茶色が原文である。

7・1/4"のゲージ(1:8規模)の建造生蒸気モデル機関車
これはボールドウィン3003番の状態です、私が2002年9月22日時点で構築している生蒸気モデル。狂気のものおよび柔らかいはともに長さほとんど2メーター(6・1/2 ft)です。4台の自動車を加えてください。そうすれば、全体の列車は6メーター、あるいは20 ft近くです。

Building a 7 1/4" gauge (1:8 scale) Live Steam Model Locomotive
This is the state of the Baldwin no. 3003 live steam model I'm building, as of September 22, 2002. The loco and tender are together almost two meters (6 1/2 ft) long. Add the four cars, and the whole train is close to 6 meters, or 20 ft.

「生蒸気モデル」はともかく、少なくとも日本語の文章ではさっぱりわからないところがある。翻訳文には「狂気」という言葉が頻繁に出てくる。ここを原文に当てはめて解析すると「loco」である。辞書を引くと確かに「気がふれた」とある。
しかしライブスチーマーならこれが「locomotive」であることは明白である。「狂気のものおよび柔らかい」というところは「機関車と炭水車」ということになるが、翻訳を読むことでかえってわかりにくくなってしまっているのである。

これを正しく翻訳すると

7・1/4”インチ(1:8スケール)で製作したライブスチーム
これは製作中のボールドウィン3003の2002年9月22日現在の状況です。機関車および炭水車はほぼ2m(6・1/2ft)になります。四両の貨車を連結すると列車全体の長さは6m(20ft)ちかくになります。

となる。(???)

さらに最も笑ったのが「リンク」のページにある文章である

「Other loco Builders」という文章が「他の狂気の建築者」となっていた。確かにこれはこれで正しい翻訳と受け止めることもできないことはない。どうせライブスチーマーはキチガイなのだ。

ちなみに、「模型蒸機の部屋」にはテクニカルタームが用意されている。これをプリントアウトして読むと非常にわかりやすいのでお勧めである。


2003.1.12  厳冬の北海道でオートキャンプをすると

私はキャンプが嫌いだ。しかししょっちゅうキャンプをしている。なぜならお金がないからである。遠出するときにはできるだけ車で行き(当然高速道路や有料道路は一切使わない)、車中泊している。これだけでもものすごく安く上がるのである。

北海道へは野宿や車中泊しながら過去何回か渡っていたが、今年の年末年始は土日との絡みもあり、かなり長期の休暇になった。
長期の休暇ならフェリーで北海道へいけるではないか!夢にまで見た冬の北海道・・・後先を考えず、フェリーを予約した。フェリーは太平洋経由で行くものよりも日本海経由で行くほうがかなり安いので、新潟から乗ることにした。新潟までは静岡から500km近くある。高速を使わないで行くと大体8時間である。

それ以来、「年末年始はどうするの?」と人から聞かれるたびに「ああ、車で北海道へ行くんだよ」と答えた。するとみんな「贅沢だなあ、どっか良いホテル予約してるの?美味いものたくさん食べてくるの?」と似たような質問を投げ掛けてきた。

それに対して私はこう答えていた「いいや、宿なんか全然考えていないし、カップめんかなんか食べるんだと思うよ。北海道限定のレトルトなんか売っていると良いんだけど・・・夕張メロンカレーとかね。そんなものあるわけないか! とりあえず車で車中泊しながらあちこち回るつもりだよ。ああ、車中泊じゃなかった、『オートキャンプ』だったね。」

と答えると皆(こいつ本当のバカじゃないか・・・)と考えているようだった。「お前死ぬぞ」といいたげだった。
ある友だちの女の子(独り言「地震」で美容院へ行くと「地震がきませんように」と祈っている子である)は、「北海道へ行く前にあなたが入っている生命保険の死亡保険金受取人を私に代えてから行ってね。いいでしょ?お願い。」とまで言っていた。

そこまで言われたら死ぬ覚悟にもなろうものである。私の愛車はマツダボンゴフレンディである。車には次のものを乗せて出発した。

 

@マットレス・羊毛ふとん・羽毛布団・毛布その他寝具。
A電気ストーブと10mの延長コード
B牽引ロープ・チェーン・ブースター関係
Cキャンプ用品(ガスコンロやらランタンやら)
Dスキー用品一式とカメラ

車は4WDでメカニカルLSD入り、寒冷地仕様で4輪スタッドレスである。まず問題はない。もともとスキーのために購入した車である。100戦練磨なのである。
電気ストーブは最悪死にそうになった場合、どこかの自動販売機から電源を失敬するために用意しておいた。
ちなみに行く前に「冬の北海道で営業しているキャンプ場」を検索したら4箇所営業していた。もちろんコテージだったが。
予めフェリーに乗る段階で燃料タンクを殆んど空にしておいた。雪国用の軽油を現地で調達するためである。軽油は本当に簡単に凍ってしまうので、北国へ向かうときには注意しましょう!

さて、フェリーは真夜中の苫小牧に到着した。冬の日本海は波が荒く、すっかり船酔いしていた私は「ほっ」として最初のキャンプ地へ向かったのである。さすが北海道、道路は完璧に凍りついており、靴で歩くのも難儀なほど道路は凍結している。
道の駅マップで適当に目をつけた場所に向かった。

最初のキャンプ地は道の駅「フォーレスト276大滝」だった。この「フォーレスト276大滝」は本によると世界一のログハウスと、1億円のトイレがウリである。トイレにグランドピアノがあり、自動演奏されているらしい。

しかし、PM11に現地へ到着すると、自慢のログハウスは鍵が掛けられており、外にある掘っ立て小屋のトイレがあるだけだった。標高は高く、雪も深く、気温はその時点で氷点下12.7度だった。さすがに駐車場にも車は一台もなかった。時折、走りや風のシルビアが豪快なドリフトを見せに駐車場を走り回っていただけである。ギャラリーは私と嫁さんだけだったが。

そんな山の中ではやることもないので早々に寝ることにした。さすがにオートフリートップは開ける気になれなかったので、そのまま寝具をセットし横になった。エンジンを切るとあっという間に室温が下がる。

結局、死ぬことはなく朝まで寝ることができたが、顔の寒さは半端じゃなく何度か目が覚めた。以下、翌朝確認できた事項である。

 

@内窓が結露して凍っていた。
Aダッシュボードとリアシート付近においてあったウーロン茶が完璧に凍っていた。
B毛布の顔付近に霜が見られた。
〜以上車内
C本州で購入した150円のウォシャー液はシャーベットになり使えなかった。
D本州用のノーマルワイパーブレードはゴムが硬化していて使えなかった。

気を良くした私は、その後車中泊を繰りかえした。最終日、小樽港でオートキャンプしたが、その日はマイナイス4度で暖かく感じたほどだった。

余談だが、帰りのフェリーは当初「漂流した」船を予約していた。冬のフェリーは飛行機と同じでオンタイムで航行される保証はどこにもないのである。一本前の船に予約を変更していて、ちゃんと仕事始めに参加できた。

 


2003.2.3  

今では白黒写真や白黒の映像は特殊効果の一つとして存在している。カラーより雰囲気が伝えられるなどの理由である。

私は基本的に古いものが好きである。しかし、古いものを楽しむ時にいつも直面する問題がある。それは色である。

古いものを写真やら映像やらで資料を集めても必ず白黒である。色がわからない。白黒の写真や映像をカラーにする技術はすでに確立されているが、残念ながら一般家庭に入り込むにはまだまだ時間が必要だ。白黒であったものがカラーに変換されて公開されたものはいくつかあるが、自分が想像していた色と全く違っていたりすると、それまでのイメージがそのまま変わってしまう。

アートとして受け止める場合にはそれでも良いが、資料として集めている場合にはこれは大変困る。つい先日も、とあるディーゼル機関車の古い写真を探していたのだが、どうしても色がわからない。その当時、実物を一度でも見たことがある人は白黒であろうとすぐに色とイメージを呼び戻すことができるが、一度も実物を見たことがない人は想像で色を推測するしかない。

映画に対する冒涜かもしれないが、私は過去の白黒映画をぜひカラーで見てみたい。チャップリンの「CITY LIGHTS」や ビートルズの「A  HARD DAY'S NIGHT」、ヘップバーンの「ROMAN HOLIDAY」をカラーで見るとおそらく全く違ったものに見えるのではないかと思う。

カラーであれば撮影された日の天気も、海の青さも、肌の色艶も全て確認できるはずだ。

 


2003.2.11 鉄道高架事業

鉄道高架事業はすでにあたりまえの事業であり、静岡県内の大型駅では沼津駅以外高架化は終了している。その沼津駅も高架事業が開始されるのは時間の問題である。

私が生まれ育った地元の駅は浜松駅だった。私の記憶が正しければ浜松駅の高架事業が完了したのは昭和54年だったと思う。小学校3年生の頃だった。
だいぶ薄れてはいるが、高架化される前の浜松駅の印象は今でも強い。父親にブルートレインを見たいとせがんで連れていってもらった浜松駅はまだ地上駅舎だった。

夜遅くまで次々と到着するブルートレインを待ちながら見た景色は今でもはっきりと覚えている。

ガラガラと音を立ててホームを走り回る手荷物用トロッコ、幾重にも光っているレール、数え切れない信号の数、クレーンの音、巨大な黒い計量機、半分さび付いたホーローの看板とプラスティッキーなベンチ、薄汚れたタイルの洗面台、モスグリーンの大きな汚い灰皿、そして何番線まであるのか数える気にもならなかったホームの数。浜松駅と併設されていた浜松機関区もまだ健在だった。

私の家は南口側だったのですでに新幹線が走っており、当時から近代的だった駅前の風景は昔も今もそれほど変わらない。しかし北口は当時の面影を残しているものはほとんどない。
北口側の、昔ホームが幾重にも並んでいたところは全てバスターミナルになり、百貨店が立ち、駅前広場に沿って走っていたはずの旧国道はすでに駅から離れたところを走っているような錯覚を覚える。
南口から北口へ抜けるための暗くて低いトンネルは立体交差化され一本も残っていない。

大体、かつての鉄道用地がどこまでだったのか見分けることができない。

つい先日、知人の結婚式で浜松駅を歩き回る機会があり、昔の記憶をたどりながら鉄道用地とそれに並行して走っていた道路の境界がどこだったかを確かめてみた。当時もあり現在もあるビルがたった一つだけ残っていた。当時はバリバリにイケていたはずのビルである。薄汚れたビルが残っていたことでようやく昔の町並みを思い出すことができた。

一方、私にとってもう一つ思い出深い駅は広島駅である。広島駅の記憶は浜松駅以上にはっきりと記憶しているが、こちらについては、昔も今もそれほど変化しているようには見えない。変化しているのだが、浜松駅ほどの違いが見られないのである。それは駅前道路レイアウトが基本的に変わっていない為ではないかと思う。
改札口の位置も昔と同じである。

下りホームの先端などは全く当時のままであるし、C62が牽引するブルートレインが広島駅に停車している写真を見ても、今とそれほど変わりがあるようには見られない。

鉄道高架事業はあたりまえのことである。都市計画としても常識的なものであることは疑いがない。反対する気は毛頭ないし、渋滞を考えると間違いなく賛成派になる。
しかし高架化してしまった駅には旅情などは全く存在しない。駅周辺の再開発は「汽笛一声新橋」のころから続いてきた基本的レイアウトが全く面影もなくなってしまう。ちょっと残念な気がしてしまうのは私だけであろうか。


2003.3.1 心配性

私は幼い頃から心配性だった。起こってもいない事柄をいろいろ空想して、そして遭遇してしまったことを空想して心配していた。「もし・・・だったらどうしよう」と。

しかしこの年になってあまり心配をしなくなった。これはある人からアドバイスを頂いて、すべてを前向きに考えるように訓練したためだった。
例えば一つの不幸が起きてしまった場合に、「何でこんなことになったのだろう・・俺ってついてないね・・・」と考えるのではなく、「よかった。この程度で済んで・・・」とそれよりも悪い状況を想定して自分がおかれている立場を判断するのである。

根っからネガティブだった私は「そんなこといわれても・・・」と半信半疑だったが、場数を踏んでいくに連れて完全に身についてきた。
そして不幸な空想をしなくなり、自然と心配性は解消されていった。(気がする・・・まだ不完全)

心配性は実に損な性格だと思う。心配しネガティブに物事を捉え続けていると結局人生そのものを不幸にしてしまう。いまでは「本当の幸せ」とは「自分が幸せと感じるかどうか」であると結論を出している。
人間は欲張りなので、自分が置かれている環境に慣れてしまうとそれより悪い環境を「不幸」と判断しがちである。
ガンなどの病気にも性格が影響すると聞く。「病は気から」である。

私の知人で「毎朝、目がさめると生きていることを確認できて幸せだ」と言っていた人がいる。
私は彼をとても尊敬している。


2003.4.5  外注先は宝

私の場合、「貴方にとってライブスチームを楽しむ上でもっとも大切なものは何か?」と問われたら、「外注先」と答えるだろう。

アパートで5インチライブスチームを造るというのはどうしても制約をうける。大型工作機械など置く場所がないし、置いたら置いたで油、キリコ対策に頭を悩ませることになる。そんなときに私を助けてくれているのは「外注を引き受けてくれている業者さん」である。レーザーカット、鋳物、鋼材、機械加工、エッチング、どれか一つ欠けても私は作業が中断してしまう。

幸いにも私の場合、設計さえできれば、外注先にお願いして完成品のレベルまでできるだけの数を開拓できた。これは私にとってである。

外注先を開拓する上で私は「営業マン」であったことが役に立っている。昔から「技術系の仕事がやりたい・・・」とずっと憧れていたが、まさかライブスチームで自分の営業スキルがこれほど役に立つとは正直思わなかった。

「業者はお金さえ積めば、仕事は必ず引き受けてくれるもの」と考えている人がいれば、その人はまず業者開拓できないだろう。当たり前である。「単発で、反復継続して仕事が来ない、しかも面倒な仕事」など引き受けてくれるはずがないのである。

企業経営は反復継続して安定した利益を落としてくれる取引先を優先し、新規開拓することがもっとも大切である。斬るか斬られるかの経済状況で、口うるさいわがままな鉄道模型マニアになど付き合っている暇はないのだ。私が企業経営者だったら間違いなく断るだろう。優良企業は断る営業もちゃんとできるのである。

ではお願いするにはどうしたらよいか?それは「相手の仕事を邪魔しない範囲でお願いする」ということである。できる限り時間がかからず、加工しやすく、業者が空き時間に取り組めるように依頼することがもっとも引き受けてくれる可能性が高い。当然のことだが頭を下げることは基本中の基本である。「金を出すからやれ」が言えるのは先ほども書いた「反復継続して安定した利益を落としてくれる取引先」だけである。

もちろん、そこまで気を使わなくてもとりあえず引き受けてくれる業者さんもいることはいる。しかし、せいぜい一・二度だろう。「こんな面倒なものはやってられない」と相手が考えた時点で終わりである。長期にわたる工作を続けなければならないライブスチームはこれでは完成できない。

しかし大変残念なことだが、せっかく開拓した業者さんが姿を消していくことが非常に多くなってきている。NCではない機械加工、鋳物屋については特に姿を消してしまっている。昔、D51のナンバープレートを噴いてくれた鋳物屋さんも例外ではなかった。「職人さん」は気難しいがいつもあたたかく迎えてくれ、またいろいろなことを教えてくれた。

「IT革命は産業革命」と私は解釈しているが、このような業者さんが姿を消して行くのは堪らなくつらい。私にとって外注業者はライブスチームそのものなのだ。