2001.4.10    ホームページ

ホームページタイトル年度が変わったので、新しいページに切り替えて独り言を続けたい。
なんだかんだいっているうちにライブスチームと出合って1年が過ぎてしまった。当初はこのようにホームページを通じて自分のライブスチームへの取り組みを報告するようになるとは考えてもいなかった。
ホームページを始めて、部品が届かなかったり工作が足踏みしているときなどは、「何でこんなことはじめてしまったのだろう」と後悔したものだ。一方、素晴らしい仲間に出合ったり情報を提供していただいたりした時は、「やってて良かった」と思ったりと、振り返ってみればいろいろあった。

インターネットは、かつてテレビやラジオなどが一般家庭への普及に必要とした時間に比べて、圧倒的に早いスピードで普及をしているそうだ。政府の取り組みによるところも大きいと思うが、何よりその情報の魅力が普及に貢献しているはずだ。それは、趣味であったり、仕事であったり、連絡手段であったり、アダルト情報であったり、である。

私は、ライブスチームを始めるまでは、ネットといえばメールを中心とした使用に限っていたが、この超マイナーな趣味と出会ってからは、ホームページ検索を中心とした使用に変わってしまった。今では常時接続にまで発展している。書籍も手に入らない、工具も手に入らない、近くにはじめている人がいない、という状況で頼りになるのはインターネットだった。良いサイトを見つけたらメールを送り、情報を頂く。そのような行動を続けているうちに、私も何か貢献できるのではないか・・・と考え始めたのがこのホームページの始まりである。私の場合、「物を創ること」は昔から好きであったが、工作といえば紙か、プラスチックか、木材くらいしか経験がなく、金属については高校の技術で真鍮丸棒から文鎮を作ったことが唯一の経験だった。

それを逆手にとって、「素人がライブスチームを始めるとどうなるのか?」をそのままホームページにしたらいいのではないか、と考えてこのようなホームページを始めてしまったのである。
次にライブスチームを始めたいと考えた人が、「なるほど、こんなやり方をするとこんなになるのか、じゃあこのやり方でやるのは辞めよう・・・」とか「こんな程度の技術でもここまでやれるのか・・」と私の経験をみることで参考になれば一番ありがたいと考えている。

実際、ライブスチームを楽しんでいる方の工作技術は素晴らしく高度で、技術的なことを伝える目的では私はとても参考になることはできない。しかし、経験はある程度参考になるのではないかと考えている。

「はじめまして・・・」と新しいメールが届くたびに新しい出会いがあり、その度にやっていて良かったと思う。できれば、世界中の人がそれぞれホームページを開設し、趣味や経験やアートや主張を共有し、得たい情報をいつでも得られる、そんな素晴らしい情報の宝庫としてインターネットが活用できれば最高である。「やってみようか」と考えている人がいるなら、「今すぐにも始めるべき」と是非勧めたい。

 


2001.4.27    テレビショッピング

先日、こんな夢を見た。それはテレビを見ている夢だった。

 

○×、テレビショッピング! ♪♪ (音楽流れる)
今回、視聴者の皆様にお届けする商品はこちらです!英国の超有名メーカー旋盤 「マイ○ォード7シリーズ」です。 (男性司会者がしゃべる)
あなたの豊かなホビーライフを保証する名機中の名機です。どうです?ステキでしょう? (司会者が女性アシスタントに尋ねる)
ええ、薄緑のカラーがとても美しいですね。ベルト駆動で音がとても静かなんですよ。ベッド上の振りは178ミリですが、最大で254ミリまで切削できるんです。最低回転速度も他の追従を許さない低速運転が可能です。重切削も簡単なんです。ほら、私みたいな素人女性でも送りハンドルを回すだけでこんなに手軽にSUSを突っ切れるんですよ。一家に一台は欲しい商品ですよね。 (女性アシスタントが答える)
いやぁ、まったくですね。世界中のモデルエンジニアたちが絶大の信頼を寄せるこの旋盤、今回は○×テレビショッピング特別価格にてご提供させていただきます。 (男性司会者が得意げに答える)
旋盤本体に、ミーリングアタッチメントとチップトレイをお付けしてお値段はなんと、198,000円、198,000円です。 (司会者が強調して値段を繰り返す)
えーっ、こんなに安くマイ○ォードが手に入るんですか? (女性アシスタントわざとらしく驚く)
そうなんですよ。しかも最大36回の分割払いもできて金利手数料は当社負担でご提供させていただきます。この放送をご覧になってから30分以内にお申し込みをいただいたお客様にはさらに、8本組超鋼付け刃バイトセットまでお付けします。お電話はこちらまで今すぐ (司会者、得意げに答える)
静岡054-○○○-×××× ♪♪ (音楽流れる)

私は夢の中で電話をかけて納期まで確認してしまった。目がさめてとてもがっかりしてしまったが、こんなテレビショッピングが実際にあったらいいよなあ!

(何のことだかさっぱりわからなかった人、ごめんなさい)

 


2001.5.11     地震

最近地震が多い。私は生まれたところが静岡県だったため「東海地震に注意」と言われてもう31年になろうとしている。今のところ、東海地震は来ていない。

ちょっと前に、静岡市では震度5の地震があった。私はちょうど風呂に入って髪をワシャワシャ洗っている最中だった。「グラッ」ときたときにまず思ったのは、「何でこんなときにくるんだよ、せめてシャンプーを洗い流してからきてくれ!」ということだった。
考えてみれば、T−5も完成に近づき、いつ作業台から落ちてもおかしくない状況だったにもかかわらず、そのことは頭に浮かばなかった。逆に血迷った嫁さんが機関車を押さえていた。「なにをしたら良いか判らなくなってとりあえず・・・・」ということだったらしい。

実際、地震はそれほど長く続くことはなくすぐに収まった。私は「震度3ぐらいかなあ・・・でも、ちゃんとお湯が出てよかった」などとすぐに自分を取り戻していつもどおり風呂からあがった。風呂から上がって機関車の無事を確認した後、テレビのニュースをつけると

静岡市震度5、各地で大きな被害が出ている模様。各地の震度は次のとおりです・・・・

とテロップで流れていた。

テレビ映像に市内のお店が映っていたが窓は割れるわ、商品がダメになるわで大変そうだった。私の自宅からそれほど離れていないにもかかわらず、県庁周辺の揺れは相当大きいようだった。ゲゲッと思ったが、我家は大丈夫で良かったと安心したことは確かだった。

その後、ニュースが全国的に流されたためと思われるが、電話とメールがたくさん届き始めた。そして、私が「風呂に入っている最中だった」と告げると、「そういうときに限って地震はくるよね」とみんなが同情してくれた。

話の中である知人の女の子は、こう言っていた。

「そうよね。お風呂に入っているときに地震が来たら最悪だけど、私はもっと嫌な場所があるの。それは美容院でパーマをかけている時。だって、裸で逃げていたら同情してもらえるけど、パーマをかけているときなんて、頭にへんな物いっぱいくっつけて、おまけにテルテル坊主みたいな服着て走って逃げたら、同情なんてしてもらえないでしょ?そのまま避難所で待機しているなんて人生最大の屈辱だと思うの。だから、私はパーマをかけているときはいつも『地震がきませんように』って神様に祈っているの」

やれやれ、確かに。

 


2001.5.25    街と駅

街の繁華街は駅に近い・・・ということは誰でも知っている常識である。街は大抵駅を中心に放射状に道路が広がり、駅前広場があり、オフィス街があり、金融街があり、商店街があり、自然に住宅街に変わっていく。駅前からバスに乗るととてもわかりやすく変化していく。都市開発の法則としてはとても自然である。

しかし、数年前に北海道を訪れたときその常識から外れた街をいくつか訪問する機会があった。それを求めて訪問したわけではないのだが、気がついたら常識外れの街だったということだ。

なぜ、法則にのっとっていないかというと、それらの街は駅が廃止されていたからである。駅が廃止されたというより、鉄道が廃止されたという方が正しい。つまりはかつて駅があったのだ。駅前広場はあるが駅がない。私は車で旅をしていて、それらの街に買い物で寄ったのだが、商店街から外れたところにオフィス街があったり、公官庁が通常あるべき場所になかったりということで大変不便な思いをした。

その感覚を言葉で表現することは難しいが、言ってみれば「あばらはあるが背骨のない魚」とでも言えばよいだろうか。あばら骨は背骨があるから存在するのであってあばら骨だけでは何の役にも立たないのである。

それを街で再現していた。その日は旧駅前広場でフリーマーケットらしきものを行なっていたが、それは老人会主催の囲碁将棋大会を連想させた。
旅人である私が奇妙と感じたということは、地元の人たちはもっと奇妙と感じているだろう。もちろん鉄道がなくても代替路線としてバスがあるだろうから、それほど鉄道時代と比べて生活が不便ということはないと思う。しかし、もし自分が生活している街から鉄道と駅が消えてしまったらどうだろう。たとえば、静岡駅がなくなると仮定すると、街はかなり奇妙になる気がする。そこに街ができた理由が失われてしまう。

赤字で採算が取れないものは無くしていく、これは企業として当たり前であるが、このような街を訪れると地元の人たちが自分たちはあまり鉄道を利用しないにもかかわらず、積極的に廃止に反対する理由がなんとなくわかるのだ。


2001.6.7    フランダースの犬

人生で、一番泣けた本は何か?と聞かれたら私は間違いなく「フランダースの犬」を選ぶと思う。「泣けた」ということは決して「感動した」ということではない。

「フランダースの犬」は「カルピス子供劇場」などのテレビでも放映されてた。私は本を読むよりも先にテレビでおおよその内容を知っていたので、本を読んだのはずいぶんあとのことだった。「フランダースの犬」がテレビで放送されていた頃はまだ幼く、内容を完璧に理解するにはちょっと早すぎた。

本を読んだのは恥ずかしながら、13歳の頃だった。すでに中坊になっていてずいぶん生意気で背伸びをしていたが、そんな頃に「フランダースの犬」を読んだのだった。

読んでいない人もいるかもしれないので、内容を説明しておくと

ベルギーのアントワープという町にとても貧しいネロという少年がいた。ネロはおじいさんとともに牛乳売りで生活を立てていた。ある日、道端で死んだように動かない犬を拾う。犬は重病だったが、ネロの介護によって元気を取り戻した。そして犬には「パトラッシュ」という名前をつけた。パトラッシュはおじいさんとネロとともに牛乳売りを助けた。

ネロには趣味があり、それは絵を書くことだった。その技術は素人のレベルを超えており素晴らしい才能を感じさせた。そんなネロの夢は、画家になることと教会にある「ルーベンスの絵」を見ることだった。ネロはとても貧しかったため、有料拝観である「ルーベンスの絵」をどうしても見ることができなかったのだ。

ネロにはアロアというガールフレンドがいた。彼女のお父さんコゼツはお金持ちでアロアはお嬢だった。ネロと仲良く遊ぶアロアに対して、コゼツは貧乏人ネロにあまり良い印象をもっていなかった。

そんなある日、アロアの家が火事になる。犯人が見つからない中、疑惑はネロに向けられる。ネロは潔白だったが町の人たちはお金持ちのコゼツに気を使い、ネロに冷たく当り、牛乳配達のシェアは次第に失われていった。

その結果生計を立ててゆくことが難しくなり、ネロはますます貧乏になった。パトラッシュのえさも与えられなくなり、おじいさんも病気と栄養失調でついに亡くなってしまう。悲しみに打ちひしがれたネロに不幸はさらに続く。家賃が払えなくなり、ネロとパトラッシュは住む家まで失ってしまったのだ。

家を立ち退かされたネロとパトラッシュはクリスマスイブの夜を惨めにさまよった。そこでパトラッシュは道端に落ちていた財布を見つけた。中には大金が入っていたがネロはコゼツの財布に違いないと確信してアロア家に届けた。アロア家は財布をなくして大騒ぎだったが、アロア母は財布を届けてくれたネロに感謝をした。ネロは、パトラッシュを預かって欲しい、えさをあげて幸せにして欲しいとアロア母に頼み、ネロは単身教会に向かった。

そこでは絵のコンテストが開かれており、優勝者には奨学金が与えられるのだった。ネロは半年かけて書き上げた絵をそのコンテストに出品していたのだ。お金のないネロはカラー絵具が購入できず、白と黒の絵具だけを使って書き上げた自信作だった。ネロは人生をそのコンテストに賭けていた。

しかし、コンテストの優勝はネロではなかった。すべての望みを失ったネロは疲れ果ててルーベンスの絵がある教会に向かった。そこへ、アロア家を飛び出してネロを探していたパトラッシュがやってきた。ネロはパトラッシュに、「すべてを失った、もう終わりだ・・・」と告げる。すると、有料拝観のはずだったルーベンスの絵が現れた。ネロは絵を見て感動し、もう思い残すことはないと死んでいった。パトラッシュとともに。

翌日、コゼツはネロに一緒に暮らす話をする予定だったが、教会で冷たくなったネロとパトラッシュを見つけた。同じ頃、絵のコンテストの審査員がネロの才能を見抜き、奨学生として迎え入れたいと申し込んだがすべては後の祭りだった。

ずいぶん長い説明になったが、端折ってしまうと話の展開がわからなくなるのでご了承いただきたい。要するに、これ以上悲しい話はないし、救われない話もない。ここがこの「フランダースの犬」の醍醐味なのだ。当時、私は中学生特有の「先輩からの不等なリンチ等」で苦い思いをしたことがあったが、「ま、ネロに比べればマシだな」と気楽に構えることができた。

しかし、この「フランダースの犬」が数年前に実写版で映画化された。そこそこの興行成績を残したようだが、驚いたのはアメリカ版だ。「アメリカでは、ハッピーエンドでなければダメ」という映画界のおきてみたいなものがあり、「フランダースの犬」も例外ではなく、エンディングが変更された。

つまり、「ネロはお金持ちの息子になり、絵の奨学金を得て、幸せに暮らしたとさ・・・」となったわけだ。

これは文学への冒涜である。間違ったストーリーを映画化して興行収入を稼ぐくらいなら作らないほうが良い。全くひどい話である。この物語には世界が抱えている問題が凝縮されているように思う。正しい内容を正しく伝えて欲しいものである。

世界名作劇場という歌い文句で「フランダースの犬」はテレビ放映されていたが、ご当地であるアントワープではこの物語、全く知られていないというのも面白い話である。ちょうど北海道大学の「クラーク博士」をアメリカ人は誰も知らないということと同じように。

 


2001.6.29    蒸気機関車C51

「C51は美しい機関車」と言っても誰も疑わないだろう。大正ボーイであり、国産ライトパシフィックの基本機関車であり、後の国鉄蒸気機関車に大きな影響を与えた名機中の名機である。私が最も好きな蒸気機関車はD51であるが、C型機関車の中ではC51が最も好きな機関車だ。

なぜなら日本の機関車でありながら英国の影響を多く受けた「美の極致」ともいえる美しい機関車だからだ。ボイラーと動輪のバランス、フロントデッキの深いエプロン、性能、どれをとっても非のうちどころがない。戦前の特急列車を語る上でなくてはならない存在である。

しかし、そんな私に衝撃的な写真が現れた。その写真を見た衝撃は「初恋の女の子と同窓会で再会したら体重500キロぐらいのデブになっていた」という衝撃に近い。思わず松田優作風に「なんじゃあ、こらあ!」と叫んでしまったのである。

それはこの写真↓

これは、画像編集ソフトによる合成でもなく、本当に存在したC51である。煙突から後ろの部分は紛れもなく美しいC51だ。しかし問題はフロントデッキ上の煙室である。通常のC51よりも煙室が延長されている。ただそれだけなのだがあまりにも醜い。

これは除煙装置開発の一環として国鉄が採用した実験機だった。煙室を800ミリ延長し、内部に多数の反射板を設置し、シンダ(石炭ガラ)の運動速度を減じて煙室下に堆積させるための装置らしい。実験結果は良好で、およそ7台のC51に採用された。写真のC51は33号機だが、この機関車は煙室を500ミリ延長しており、これでもほかの煙室延長機関車よりも短い。800ミリ延長したものは、一体どのくらい醜いのだろう。

改造した理屈はわかるが、あまりにも醜い機関車だ。C51は「SLブーム」が訪れる前に現役を引退していたため、残されている写真は非常に少なく、資料もまた然りである。私はいつかC51をライブスチームで復活させてみたいという夢があり、そのための資料をあさった結果この写真をみてしまったのだ。

資料によるとC51は実験機が多いようで、他にも楕円形煙突(ギースルイジェクターではない)、斜め煙突、2本煙突など変り種がいた。結果的に全機原型に戻されたようであるが、この煙室延長C51はかなり良い成績を残していたので、逆に全機煙室延長されていた可能性もなかったわけではない。

C51は「醜い機関車の極致」と呼ばれていたかもしれないのである。

現存しているC51はたった4機だ。人気がある割に保存機が少ないミステリアスな機関車といえる。C51の栄枯盛衰物語のなかには極わずかだがこれほど醜い機関車も存在していたのであった。

 


2001.7.12    限りなき戦い

こんなことをわざわざ World Wide WEB で全世界に向けて発表する必要もないと思うが、私は「ハゲ」予備軍である。今はべつに髪も薄いわけではない(濃いわけでもない)し、他人から見ても「ハゲ予備軍」と思われることもないとおもう(信じる)。

しかし、正直、自分の髪の毛を鏡で見るたびに「ああ、おれも31になったがまだ髪が残っていて良かった、」と感無量になることがある。というのも、この年になるまで髪の毛を維持するために重ねてきた努力をつい振りかえってしまうからだ。父方母方の両おじいさんは、タマゴで磨いたようにまぶしかった。そう、私がモノゴゴロがついた頃から。隔世遺伝が本当だとすると、私はどうあがいてもハゲになることは間違いなかった。

ハゲは基本的に遺伝によって決まるという。だから、髪の毛が多く、家系にハゲがいない人は特に気を使わなくても、死ぬまでハゲない。しかし私のように遺伝で確約されている人は、ダメかもしれないが努力するしかない。私は高校生の時からその努力をはじめた。今年で13年目になる。

ハゲを遅らせる方法はいくつかあるが、基本的に、「清潔にしておくこと」「血行を良くすること」「規則正しい生活習慣」である。もちろんその他にもいろいろな要素が複雑に絡んでいるため一概に言えないが、まとめてしまうとこんなもんだと思う。

まず「清潔にしておくこと」についてだが、頭皮が脂っぽい人は毛穴が詰まりやすい。これをこまめなシャンプーできっちりと洗い流してやる。もちろんシャンプーは天然素材を使用した、植物系の刺激が少ないものを選ぶ。洗うときには爪を立てないように頭皮をマッサージしながら皮脂を落としてやる。よく爪を立ててガシガシやる人がいるが、これは地肌を傷つけてしまうので間違っている方法である。
ここで大切なことは「髪が抜け始めると洗うたびに抜け毛が気になり、洗髪しなくなる」ということである。これは気持ちとしては十分理解できるが、「抜ける毛」というのは、どうやっても抜けてしまう。だから未練なく、毎日シャンプーする勇気が必要だ。この勇気がないと悪循環に陥り、ますます髪は薄くなる。

次の「血行を良くすること」はこれまた重要である。新鮮な血液をたくさん毛根に送ってやることにより毛根を活性化させる。「天ハゲ」とよばれるハゲ方は血行が原因といわれる。頭皮のてっぺんは、重力により常に頭皮が引っ張られている。ただでさえ脳天という最も血液が回りにくいところである。脳天地肌を指でマッサージして、頭皮がゆるゆると動く場合には安心である。皮膚は十分血行がよく、ハゲはまだまだ訪れない。そうでない場合は、血行がかなり悪くなっている証拠である。「タマゴで磨いたようなハゲ」は頭皮が引っ張られていることで実現される。頭蓋骨の形状にも原因があるといわれているが、たとえどうであれ、毎日頭皮をマッサージしてやる。育毛剤を利用して、ブラシでこするという作業は、本当に効果があるのだ。

そして最後の「規則正しい生活習慣」だが、これはもっとも実現が難しいといえる。私もこれだけは自分でどうにもできないので、できる限り「ストレスをためず」「栄養価が高いものを選び」「タバコなど体に悪そうなものは辞める」と努力した。そして現在にいたるわけである。

私が高校生だった頃はヘビメタ※1真っ盛りで、バンド仲間は次々とロンゲにして(毛根に負担をかけて・・・)、デイップやスプレーで髪を固めて(毛根の酸素を絶つようなおろかなものを使用し・・・)、当たり前のように髪の毛を金髪にした(キューティクルへのSM・・・)。
「おまえもメタルやるんだったら早く伸ばせよ」と先輩にいわれて一時期伸ばしたことがあった。しかし、バンドをやったあと髪を洗うと「常識で考えられないくらいの量」が抜け落ち、排水溝にたまるのを見てわたしはあっさりとヘビメタを捨てた。

そんな私には大学時代に良く遊んでいた仲間でM君という人がいた。彼は、私とちがう大学に通っていた秀才だったが、ハゲに対する考え方は驚くほど私と一致していた。そして彼は私に「昨日テレビでハゲの番組を放送していたから録画しておいた。勉強のために貸してやるよ」とそっとビデオを貸してくれるようないい奴だった。若干19歳の頃である。私はそんなM君と「将来どちらかが先にはげたら、ハゲを防ぐための情報収集と努力を怠らない」と硬い誓いを立てた。

M君とは2年前に会ったきりで、最近は連絡すら取っていない。しかし、髪の毛について考えるときはいつもM君のことを思う。「あいつは大丈夫かなあ・・・」と。
きっと彼は彼で、「あいつは大丈夫かなあ・・・」と心配してくれていると思う。

そんなM君はかつて私にハゲを防ぐ究極の方法を教えてくれた。それはどんな方法かというと「去勢※2」なのだ。「去勢」することで、男性ホルモンの分泌を断ち、髪の毛を残そうというものである。当時は「なるほど、それは効果がありそうだ・・」と納得していたが、最近になって、それについて考えることがある。

「去勢」をしてしまったら、「髪の毛を残す」という行為そのものの意味※3がなくなってしまうのではないか・・・」と。

※1 ヘヴィメタルの略。重金属という意味ではなく、音楽ジャンルの1種
※2 動物の生殖機能を不能にすること。
※3 女の子にアピールするためであるということ。

 


2001.8.14  幽霊

お盆になると、ご先祖様の霊について考える。そして、いつも幽霊の存在について考える。「霊媒氏」と呼ばれる人たちがテレビにでて、「ほら、そこにいる」と勝ち誇ったように告げるが、視聴者で見えている人は誰もいない。
私は、「幽霊」の存在を昔から「全く信じない」タイプで、また、そのようなものを見たこともない。信じないから見ることができないという考え方もあるようだが、「信じていない」という姿勢は今でも変わらない。

前回の独り言に出てきた「M君」は「はげ」についてだけでなく、その他音楽の趣味や、物事の考え方も私と非常に似ていて、お互いあるテーマを挙げてそれについて語っても必ず一致した答えがでた。M君は、当然ながら「幽霊」の存在の否定していた。「思い込みもはなはだしい・・・科学的に証明してみろ!」と熱く語っていたのである。あの日を経験をするまでは。

M君は私よりもひとつ年上で、そのため、社会にでたのも私より一年先だった。M君は大手製薬会社(仮にF薬品としておこう)に就職して、都内某所の独身寮に入った。まだ学生だった私は、その寮によく遊びに行き、M君と就職活動の話をしたり、音楽談に花を咲かせたりという生活を続けていた。

その寮は、ずいぶん昔から「幽霊が出る」と噂の寮だった。M君は「いい年こいて、幽霊なんて・・・勘弁してくれよ・・」と話をしていたが、寮に住んでいる半数以上の人が幽霊との遭遇をしていた。ちょうど、私が宿泊した夜も幽霊が出没して、翌朝食堂で諸先輩社員が集まり「そうか・・・空中浮揚か・・新手だな。」とか「やっぱり明け方か・・」とか「めがねをかけているという点も一致しているな・・・」とか本当に真剣なまなざしで話をしていたのある。M君は「俺は霊感というものが全くないから、心配していないよ。きっと幽霊だって、否定する奴の前には現れないさ・・・」と私に言っていた。続けて「いつも幽霊が出た次に日の朝はああやって食堂に集って対策会議を開くんだよ。最初は驚いたけど、今はすっかり慣れたね」と言った。

しかし、「幽霊否定派」のM君もついに幽霊と遭遇してしまったのである。遭遇した日の朝早く、M君は私に電話をかけてきて、「幽霊を見た。間違いなく本物だった」と震えながら連絡してきたのであった。その話はこうだった。

明け方、ちょうど薄明るくなったとき、突然金縛りにあった。目は動くが体が動かない。どんなに力を入れてもびくともしない。瞬きはできるが、閉じることはできない。ベランダのBSアンテナのあたりに、郵便局員のような、カバンを下げ、帽子をかぶり、牛乳ビンの底のようなめがねをかけた青年が立っていた。青年はジッとM君を見つめて、しばらくすると近づいてきて、M君の顔を覗き込んだ。そして、ニヤニヤ笑いながら顔を近づけたり離したりした。M君は幽霊が自分の体に入り込むような気がしたらしく、「勘弁してくれ・・」ともがきつづけていた。目を閉じようとしても閉じられない。時間にして30分ほどのことだった。幽霊がスーと消えていった後は、体中汗びっしょりで、大変な体力を消耗していた。

当然M君は、その日の朝食堂で所先輩方を招集して、自分が遭遇した幽霊について話をした。新入社員であったM君も例外なく幽霊と遭遇したことで、寮長である社員が「今日、本社の総務課に相談してみる。お払いをしてもらえば、大丈夫だろう」ということで結論が出た。

その後M君は何度も幽霊と遭遇し、「寝るのが怖い。またでるかもしれないからなあ・・・」としょっちゅう言っていた。私はそれでもなお「M君もたわごとを言って・・・仕事で疲れているんだろうな」などとまだ信じていなかった。当たり前だがF薬品本社総務課も「笑って相手にしてくれなかった。本気で掛け合えば合うほど馬鹿にされて、終いには『いいかげんにしろ!』と怒られた」ということだった。(そりゃそうだ・・)

F薬品独身寮はその後も、「幽霊による社員の拉致」「空中浮揚事件」「首しめ」などの新手が登場してますます幽霊活動は活発になっていた。

そんなF薬品独身寮も今は全く平和である。というのも、その後改装が行なわれて、部屋を二戸一にするとともに老朽化した設備を改善したのである。その作業が終了したあとは、誰も幽霊を見ることがなくなり、平和な毎日が訪れるようになったという。

M君は結婚して独身寮を離れたが、今でも幽霊について訪ねると、「いるに決まってるじゃん。あたりまえだよ、だって見たもん。世の中には科学で説明できないこともいっぱいあるんだよ」と私に力説している。

 


2001.8.25 助手席

これは本当の話だが、私は免許を取るまで「助手席」は「女子席」だと思っていた。

 


2001.9.3   オヤシラズ

誰もが必ず一本は持っているものに「オヤシラズ」がある。私は学生時代に上に2本、下に2本オヤシラズがあることが判明した。上の二本は、真っ直ぐに生えていて、歯医者さんによると「5秒で抜けます。痛みもほとんどありません」ということだった。しかし下の二本は「かなり問題があります。真横に生えている上に、かなり深いところに入っていますので、手術で切開して抜くしか方法がありません。まあ、急いで抜く必要も無いでしょうから、痛くなったら考えましょう」といわれた。

その後、上の歯は1年後に抜いた。本当に5秒で抜けて、あっけないくらいだった。あんまりにも簡単に抜けたので、勢いでもう片方も抜いてしまったくらいである。

一方、下の歯は図のように真横に生えており、しかも外からは見えないところに生えていた。素人がみても抜くのは大変そうなので、そのときからオヤシラズの存在は忘れたことにして、爆弾が破裂するときまでは考えないようにした。結果10年以上私はその存在を忘れかけていた。

しかしここにきて、オヤシラズの成長が活発化して、奥歯を横から押すようになり、痛みを伴うようになってきた。私は一大決心してオヤシラズを抜取ることを決意した。いつも通っている歯医者さんでは抜歯できないらしく、某口腔外科の案内状を渡された。その口腔外科は腕利きらしく安心だと噂で聞いていた。

口腔外科による抜歯などは想像がつかないので、経験した知人に抜歯の状況を聞いて周った。すると一概にかなり「痛みを伴う」という情報が得られた。ある人は「あごを手で押さえて、タガネで歯を砕いて抜かれた。頭蓋骨にガンガンきた」というし、ある人は「夜熱が出て、5日間会社を休んだ」というし、ある人は「おたふく風邪のように顔がはれた」と言った。私はだんだん怖くなってきたが、引き返すこともできないので実行に移すことにした。

難航することが目に見えていたので、抜歯の日は会社を休み、食事がとれなくなることを予想して食べられるだけの食事をとり、完璧なコンディションにして口腔外科へ向かった。

案内状を渡すと受付のきれいなオネーチャン@が、「今日やるんですか?大変ですね」といきなりジャブを撃ってきた。診察室に通され、歯医者特有の臭いをかぎながらと診察台に横になった。持田かおりに似たきれいなオネーチャンAがやってきて「よだれかけ」をつけてくれた。私が歯医者に来たときに一番楽しみな瞬間はこの瞬間なのだ。立派なイスに座ってきれいなオネーチャンによだれかけをつけてもらう・・・まるで王様になった気分だ。

BGMで、アースウインド・アンド・ファイヤーが「宇宙のファンタジー」を歌っていた。きれいなオネーチャンBが院長の横について助手をすることになった。院長は「本当にいいんですね?」と最初から難航することが分かっているかのように私に念を押した。いまさら「やっぱりダメです。また今度にします」と言うこともできないので、そのまま治療が始まった。麻酔を何本か打った後メスが入ったようで血の味が少しした。オネーチャンBが必死でそれを吸い込んでいる。私はできるだけ楽しいことを考えるようにした。
今度はBGMでエルトン・ジョンが「Don't Let The Sun Going Down On Me」を唄っていた。私は頭の中でその歌詞を思い出していた。自分を救うには遅すぎる・・・ 今の状況にぴったりだった。

麻酔のせいか、痛みは感じなかった。リューターで歯を削る音がして、しばらくすると、ヤットコのようなもので歯を砕き始めた。「バキッ」とか「メリッ」とかいう聴いたことも無い音が聞こえた。音が出た瞬間、右手に何かが当ったので床に目をやると、血まみれの歯のかけらが落ちていた。「うーんすざまじい・・・」と考えたとき、助手のオネーチャンBが、「院長!すいません、ちょっと具合が急に悪くなってしまいました」といってへなへなとその場に座り込んでしまった。どうやら現場はかなりすごいことになっているようだった。自分の歯がどんなになっているのかビデオに撮っておきたいような気がしたがそれは無理だった。院長は何事もなく手を止めてオネーチャンAを呼び、「ちょっと変わってあげてくれる?」と言い、私の助手は持田かおりに変わった。

持田かおりの前でかっこ悪く痛がるのもなんなので、勤めて平気な表情をしていた。実際、麻酔がよく効いて痛くは無かったが、頭蓋骨のキシミを含めた音はすごいものがあった。30分くらいしてようやく、「終わりました。なかなか大変でした」と院長が言った。その後糸で切開したところを縫い合わせた。診察台にはバラバラで血まみれになったオヤシラズがあった。

私はちょっと考えたあと「この歯もらっていいですか?」と持田かおりに聞いた。すると「いいですよ、もって帰る人けっこういるんです」といってテイクアウトの用意をしてくれた。

私は 「ほっ」 として診察イスから降りた。ズボンが汗でびっしょりになっていた。会計と薬をもらう間、時間があったのでぼんやりとこんなことを考えていた。「歯医者がオヤシラズを抜くときはどうするのだろう・・・まさか自分で鏡を見て、ヤットコで引き抜くことなんてしないだろうに・・・」

家に帰ると痛みが増してきて頬がはれてきた。私は最初で最後に見ることになってしまったオヤシラズを眺めた。オヤシラズは血にまみれてちょっと可哀想だった。そして、無常なオヤシラズの存在にちょっと同情したのであった。

 


2001.10.26    勉強   

先日国家資格試験を受けた。勉強は卓上で行うものに限らず、生きることそのものが勉強であるが、教科書を読んで、それを記憶して、解答用紙に記入するという形式の勉強をしたのは本当に久し振りだった。私はこの手の勉強が大のニガテで、性格上、机にかじりついて何時間も勉強することは昔からできなかった。落ち着きがないのである。

勉強をはじめると、それまで全く気にもならなかったのに、どういうわけかトイレに行きたくなり、トイレから戻ってきてテキストを読み始めると、今度はのどが渇く。のどを潤すと、長く伸びてきた髪を散髪したくなったりもする。自分では3時間も勉強した気になっているが、実際には20分しか経っていない。20代前半なら、その合間合間に勉強するだけでも、若さによる記憶力でそこそこ点数は取れたものだが、今回は、年齢も30代になり、しかも10年近くのブランクで脳みそはちっとも働かなかった。しかも落ち着きがないという傾向だけは昔のままだった。

自分では完璧に記憶したつもりでいるが、模擬試験を受けるとちゃんと覚えていなかったことに気づく。あいまいで明確でないのだ。新しい科目を勉強すると、当然のように前の科目を忘れている。

かつてテレビで見た番組でも言っていたがサラリーマンは意外と頭を使っていないようだ。自分では気づいていないが、ルーティーンの繰り返しなのである。私は、自分に対して、「ライブスチームに取り組んでいるし、ギターを弾いて右脳を使っているし、趣味の学習もしているし、これならボケずにいけそうだなあ」と高をくくっていた。「俺はリーマンとは違う!」と。しかしそんなことは関係なく確実に脳細胞は死滅していた。

3ヶ月間、遊びを離れて勉強を続けたが、本当に苦痛だった。しかし、来年も同じことを繰り返すわけにも行かないので、勉強嫌いであるがゆえに必死になった。と思う・・・(^_^;)

試験が終了し本当に開放されたが、そこで感じたことは人間追い詰められないとなかなか限界まで脳みそを使わないという事実である。使うことは使っているが、酷使していないのである。どんな小さな試験でもたまには受けてみる必要がある。学生時代、古代世界史を勉強する意味について疑問をもったこともあったが、散々やってきたことは、やっぱり大切なことだったのだ。

 


2001.12.11    ウイルス

インターネットにウイルスはつき物だが、自分がそのウイルスばら撒きに貢献してしまったと思うと本当に情けなくなる。ホームページを運営していると特に狙われるということは聞いたことがあるが、それでなくてもこの数週間、多数のウイルスメールが届いた。

少し前にOSの再インストールを行い、それと同時に調子の悪いアプリケーションを削除したり、レジストリの再構築を行ってみたり、周辺機器を見直したりといろいろパソコン関係の環境を見直していた。ウイルスバスターは持っていたが、動作が安定したところで入れなおす予定だったため、まあ、いいかとそのままにしていた。

その結果がこのざまである。「しまった」と思ったところですべては後の祭りで、その直後からウィルスメールが返信され始め、携帯が鳴りはじめ、「感染しているぞ!」と身近な友だちから連絡があった。しかしどうにもならず、ただ、ファイルを開きませんように・・・と祈るしか方法がなかった。

ウイルスは本当に迷惑なものである。ちょうどというか、対策ができていないときに限って感染させるとはなかなかタイミングがよろしい。ウイルスを作った人にしてみれば、私は完全に目的どおりに仕事をしてしまったことになる。ずいぶん多数の人にウイルスを送りつけてしまったが、本当に迷惑をかけてしまったという反省でいっぱいである。

もっとも、私自身のことを「ウイルスみたいな人」と表現する人もいるので、そう思われないかもしれないが。

 


2001.12.27    一番ゲージライブスチーム

私は今、アスターの一番ゲージC11をばらして楽しんでいる。日本庭園鉄道の勝又氏が手にした最初のライブスチームで歴史的な機関車である。この機関車がなければ、日本庭園鉄道もなかったかもしれないと考えるとこの機関車の存在価値は大きい。

ホームページの連載を読んでいらっしゃる方々から、「5インチ専門」と思われることが多いが、決してそんなことはない。私は蒸気機関車であれば何でも好きなのである。本物でも、国産でも、外国型でも、模型でも「蒸気機関車と呼べるものであればとにかく好きである。
各ゲージで「鉄道模型」は存在するが、こと「蒸気で走るもの」については、「鉄道模型」と呼んで欲しくないのである。なぜなら、その動力は蒸気なのであって、大きさが違っていてもこれは「蒸気機関車」である。電気で動く蒸気機関車は形態は蒸気機関車であっても「鉄道模型」と表現する以外にない。世の中にはHOでライブスチームを作ってしまうようなすごい人もいるが、この機関車についても「蒸気機関車」といえる。

私の子供の頃の夢は実物の蒸気機関車を個人所有することだったが、中学生くらいになったとき、「これはちょっと実現できそうもないぞ」ということに気がついた。場所の問題、運送の問題、管理の問題、クリアしなければならない問題が山積みである。莫大な資金も必要になる。そんなわけで、ロックミュージックに身を投じることになってしまったわけだが、ライブスチームはその夢を見事にかなえてくれるものであった。

大きさ以外は全く一緒ということである。音・匂い・色も実物と同じ環境にあるため本物と同一である。これに魅力を感じないわけがない。その中でも、3.5インチと1番ゲージは、家に飾ることができるという魅力がある。国鉄型5インチともなると、居間に鎮座するだけでも邪魔になってしまう。私は、毎日でも蒸気機関車を眺めていたいので、これは3.5インチと1番ゲージに完全に圧倒されてしまっている。全く便利なものである。飾ってよし、走らせてよし、ということである。

1番ゲージには、今回初めて触れることになったが、小さくてもその機構は見事なもので、C11のようなタンク機関車は、サイドタンクと運転台を外すだけで、いかにもライブスチームの機構が剥き出しになる。ネジ式逆転機を回すとそれぞれのバルブギアがしかるべき位置にしっかりと移動する。

家でライブスチームが楽しめるとは贅沢な話である。なんといっても晩御飯を食べながら「蒸気機関車」を眺めることができるのだ。

 


2002.2.14    ジョージハリスン

いつか経験しなければならなかったことだが、今回ついにそのときがきてしまった。この2ヶ月、私はとても混乱していた。ビートルズのメンバーがまた一人、この世を去ってしまった。

ジョンレノンが死んだとき、私はまだ小学校4年生でビートルズのことはほとんど何も知らなかった。死んだその日、「お兄ちゃんがビートルズ好き」という友達が、「昨日ビートルズの人が撃たれて死んだんだって!」と騒いでいたことが唯一の記憶である。そのときの社会現象にくらべれば、ジョージハリスンがこの世を去ってしまった日は、いつもとあまり変わらず、ジョージハリスンの死も雨のごとく降り注ぐニュースの一つに埋もれてしまっていた。

「静かなるビートル」と呼ばれたジョージは最後まで静かであった。ジョージハリスンはコンサート活動もほとんど行わなかった。マスコミに出ることもめったになし、アルバムも10年に一枚リリースされればよいくらいになっていた。しかし、私は運良く1991年のジョージハリスンのコンサートに行くことができた。日本だけで行われ、しかもエリッククラプトンとジョイントというとても贅沢なライブであった。一曲一曲演奏が終わるたびにビートルズ時代と同様、お辞儀する彼を見て笑ったことを昨日のように思い出す。

ジョージハリスンに会ったこともない私が、彼についてどうこう言うこともおかしいが、彼は本当の善人だったと思う。過去の少ないインタビューを読み直しても、平和主義者でユーモア(特にブラックユーモア)、シニカルなところはデビュー当時から一貫して変わっていない。曲にも詞にもその一面が読み取れる。

ビートルズ時代のギタープレイでは批判されることが多いジョージだが、それはあまりに間違った解釈である。ジョージハリスンがどれだけ難しいことをやっていたかは、自分でビートルズのコピーバンドを組んで、彼のパートをプレイしてみるとよい。リードやリフを弾きながらもっとも難しいハーモニーパートをやらなければならない。それをわずか21歳の若さでやってのけたのである。

今日、車の中でラジオを聴いていたが、思いがけずジョージハリスンの歌声が聞こえた。「HANDLE WITH CARE」だった。1988年にジョージハリスン・ジェフリン・ロイオービソン・トムペティ・そしてボブデュランの5人が覆面で結成したスーパーバンド、TRAVELING WILBURY'Sの曲だ。超大物をバックまわし、さわやかに歌うジョージは自信に満ち、完璧な歌を聞かせていた。そこではジョージの人性そのものが歌われていた。

空港に足止めされ、テロに会い、会合に送られ、催眠術をかけられ
露出過度にされ、コマーシャライズされて・・・・僕を大切にしてくれ
緊張して失敗をやらかしてきたけど、自分をすっかり身奇麗にするよ。
成功の甘き香り・・・・僕を大切にしてくれ 一人ぼっちはもううんざりなんだよ

きっと今ごろジョンレノンと座談会でも開いているのだろう。

 


2002.2.14  趣味は何ですか?

「趣味は何ですか?」と聞かれるたびにいつも困ったことになる。私にこのような質問をする人は当然、私のことはよく知らない。

昔からいろんな趣味に取り組んできたが、これほど説明に困る趣味もない。「ライブスチームをやっています」と言って、「それは素晴らしい趣味ですね、私も一度やってみたいと思っているのですよ」と展開することはまずなく、「はぁ?(^_^;)」というなんともいえない反応を示す。かつてジムカーナに取り組んでいた頃は、「モータースポーツをやっています」とか「車のレースをやっています」と説明することで簡単に理解させることができたが、「らいぶすちいむ」という単語はそう簡単には理解してもらえない。

「ミニエスエルです」と答えるとそこそこ理解してくれるが、そのような答え方をすると「そんなものどこが楽しいの?」と鼻で笑うようななんともいえない反応となる。「ミニエスエル=小型蒸気機関車」と理解できる人はまだ救いがあるが、「ミニエスエル=お祭りの遊具」と理解する人のほうが圧倒的に多く「キング・オブ・ホビー」を説明する上手な手段が見当たらない。一番手っ取り早い方法は質問されたその場に機関車を持って行き、昇圧した上で汽笛でも鳴らして「どうだ!」と見せてやるのが最良だが、よりによってこれが一番難しい。

さらに困るのが「嫁さんの友達」が家に来たときで、うっかり工作室を見られたときなど「なにこれぇ〜」と絶句してしまう。完成した5インチの機関車でも飾ってあれば「すごいわねぇ」くらい言ってもらえそうなものだが、完成したものを部屋に飾ることはまず不可能である。あるのは未完成の金属素材と工作機械と油とキリコである。まったく困ったことになる。嫁さんは「変人と結婚した」と思われないようにうまく説明しているようだが、それもうまくいったかどうかは神のみぞ知ることになる。そこで私はいつも考える。なんとかライブスチームを超メジャーな趣味にできないものかと。

一番良い方法はフジテレビ系の連ドラでライブスチームを題材にしたラブストーリーをゴールデンタイムに放送することである。主演は木村拓也とか織田祐二あたり、ヒロインには水野真紀や矢田亜希子あたりが良いと思う。反町あたりに「俺のロコ!」と言わせれば一発だろう。すぐに街を歩く女子高生にも、花の女子大生にも、はたまた丸の内のOLにも「らいぶすちいむ」という日本語が根付くにちがいない。

次に良い方法はOSがゴールデンタイムにCMをやってしまうことだ。アクション映画顔負けのカメラワークで撮影し、そう、機関車はマウンテンが良い。どかどか煙を吐き、ドレインに煙るマウンテン、そこで「キンブ・オブ・ホビー、ライブスチームはOSです」とナレーションが入れば完璧だ。

どちらも可能性はまったくないわけでもないが、きわめて確率が低い。何とかならないものかと思うがどうにもならない。加山雄三がライブスチームをやりたがっているという話は聞いたことがあるが、加山雄三では女子高生に「らいぶすちいむ」と言う単語を植え付けるには役不足である。30年前に「若大将シリーズ」でやっていればもう少し今の世の中も違っていたかもしれないが。(例えば”ライブの若大将”とか”工作の若大将”でよかった)
仕方なく私は細々と「ライブスチーム界のキムタク」と呼ばれるよう日々努力している。

そして「趣味は何ですか?」と聞かれるたびに「あぁ・・・・・・・・・・・・音楽鑑賞です。」と答えてしまうのだ。

 


2002.3.5   メダリスト

オリンピックが夏季、冬季と2年ごとに行われるようになってから、しょっちゅうオリンピックをやっているような気がするが、それぞれの種目は4年に一度しか行われていないことは間違いない。私はスキー好きだったこともあり、もっぱら冬季オリンピックのほうが見ていて楽しい。

スポーツで頂点を目指すものにとっては、オリンピックでメダルを取るということはちょっと他の大会とは違う。歴史、一般認識度、価値、どれをとっても世界最高の大会であることは疑いがない。大会が最高であるならプレッシャーも最高である。だからこそオリンピックには魔物が潜むといわれているのだ。

たとえばアルペン競技のダウンヒルなどはわかりやすい。要するにその年に世界で最も早く山を滑り降りることができた人が金メダルをとるわけである。夏季オリンピックの100mであれば、世界中の人間を横一列にならべてヨーイドンで走った場合に一番最初にゴールできるひとが金メダルということである。

私が何をいいたいかというと、メダルを取ることができるひとはたった3人である。しかし3番と4番ではあまりに差がありすぎるということだ。世界で4番目にはやく100mを走ることができるひともかなりすごいと私は思うのだが、メダルを取った取らないというだけで、その差はチョモランマより高く、マリアナ海溝より深い。今回のオリンピックで日本選手は銀1個、銅1個で「惨敗」などと言われているが、日本人入賞者の数はどうなのであろう。わたしは個人的に金メダル10個で、後の参加者がみな入賞すらしなかったという大会より、金メダルがゼロでも、日本人参加選手が全員入賞したという大会のほうがよっぽど価値があるように思うのだが、どうやらそういう考え方をする人は少数らしい。結果的にメダルの数だけで判断されてしまうわけである。

だれが金・銀・銅という3種類のメダルを思いついたか知らないが、できればあと3つぐらい、昔から合計6個くらいのメダルがあったらもう少しメダリストと入賞者の立場も変わっていたかもしれない。例えば、金・銀・銅・真鍮・アルミ・鉄とか・・・・・「やりました日本のタマイ、アルミメダル獲得です・・・・」と声が上ずったアナウンサーの実況が聞けたかもしれない。

まあ、アルミメダルや鉄メダルをもらって嬉しいかどうかは競技に参加した人にしか分からないが。

 


2002.4.10    よみがえれ、汽笛

2001年9月14日に北海道勇払郡穂別町にある富内という小さな集落で、とてもビッグなイベントが開催された。私はそのイベントをどうしても見にいきたかったが、結局それはかなわなかった。

富内には、昭和61年まで、国鉄富内線というローカル線が走っており、その終着駅が富内駅であった。廃線後は富内駅とその設備が鉄道考古学上貴重なものとして町で保存されてきた。

そのビッグなイベントとはは富内駅そのものを復活させるイベントだった。「よみがえれ!汽笛」というスローガンでキャンペーンは計画されていた。内容は1日だけ蒸気機関車機関車を走らせ、汽笛を町に響かせたいというものだった。

このイベント企画を私はあるホームページで知ったが、それは開催予定のちょうど半年ほど前であった。しかし、正直な話、その企画を読んで、「このイベントはいくらなんでも成立しないだろう・・・」と思った。夢は夢で終わらせておいたほうが・・・と余計な心配をしていた。保安上の問題、機関車の問題、資金の問題、挙げたらきりがない。

富内線は、すでに一部のレールが撤去されており、鉄路で機関車を運ぶことは不可能だった。資金調達も大手企業のスポンサーがあるわけではなく、町民の細々とした人海戦術によるものだった。かなり後になって松本零次氏がテレホンカードに図案を提供し、その売上で資金をまかなうというものがでてきたが、私にはそれすら、焼け石に水に思えた。機関車もJR北海道にC11をレンタルできないかと打診したが断られ、また日本各地の動態保存機関車に打診したらしいが、実際かなり難航したようだ。

しかし、結果的にこのイベントはちゃんと当初の目的を達成して大成功で終った。機関車は国鉄型ではなく、伊予鉄道のコッペルを走らせたのだ。蒸気機関車が富内駅を何回も往復し、地元で廃線になった後に生まれた子供は大喜びでこのイベントを楽しんだようだ。

全く、人の熱意というものは無限の力を生み出すものだ。絶対に不可能と思われることでも、熱意で乗り越えてしまう。とても教訓を獲ることができたイベントだった。

「よみがえれ汽笛」について詳細を知りたい人はここを見てね。