2000.7.25    キックボード

近所のディスカウントショップで「日替わり特売」が行われており、その日の商品「キックボード」を購入した。すでに、ブームも下火になっており、あえて並ぶ必要もなかったのだが、意外と購入していた人が多く、また年齢層もさまざまだった。

キックボードキックボードについて知らない人はいないと思うが、知らない人でも名前を変えて説明すると理解してもらえるかもしれない。ようするに「スケーター」である。スケーターでもわからない人は、高校生に聞いて欲しい。一時期、新聞やニュースで良し悪しを報道されていたが、はっきり言ってこの商品、とても便利である。私はブームが過ぎても乗りつづけたいと思う。

キックボードはあちこちのメーカーから発売されているが、私の購入したキックボードは大して高級品でもなんでもない。しかし、よくできている。

キックボードは軽量で折りたたみができて、持ち運びが簡単であることが最重要だが、私のキックボードは携帯ストラップがついていて、重量3キロ弱、しかもフロントサスペンションがついている。ブーム当初のものから比較するとかなり品質は向上しており、特にフレームで行われているアルミの溶接は見事としか言いようがない。剛性感たっぷりの高級車だ。

では、なぜこのキックボードが便利なのか?その用途は計り知れない。たとえば、私が車をとめている駐車場は自宅からやや離れているが、トランクにキックボードを乗せて、帰りにキックボードで帰ってくることも可能だ。

私はアウトドアが好きでよくあちこち旅行するが、自転車を持っていくにも困るようなところ、たとえば飛行機を使うとか、電車に乗らなければならない、船にも乗らないといけない、というところは、たとえ折りたたみ自転車であってもやはり大変だ。しかし、キックボードならどこでも持ち運べる上、特別運賃もとられることはない。強力な交通手段なのだ。ぜひ、試して欲しい。

しかしこのキックボード、欠点もある。先日会社にキックボードで乗りつけたところ、

「大人でもこうゆうの乗るんですね・・・」

と女子社員から冷ややかに言われてしまったことだ。「本当は自分も乗りたいくせに・・・乗せてやるもんか!!」と心の中で叫んでみたが、誰もその魂の叫びを聞いてはくれなかった。

今度買うときはエンジン付にしよう!!


2000.8.10    フラメンコギターリスト・池田浩

池田浩と言って「ああ、あいつか」とすぐにわかる人は、まだほとんどいないであろう。池田浩はギターリストで、現在31歳になる。彼の音楽経歴は華やかだ。幼少よりギターの英才教育を受けて、17歳でスカウトによりプロデビュー。某有名芸能人(デビュー曲はスローモーションという曲を歌っていた。誰でしょう?)のバックバンドおよびソングライターとして、20代前半まで活躍する。

池田浩不思議なつながりで現在私は彼と交流を持っている。彼は、7月まで、スペインのヘレスにすんでいたのだが、うちの嫁さんがヘレスにフラメンコを勉強しに出かけたところ、町で日本人らしき外人を見かけたので、「ARE YOU JAPANESE?」と変な英語で話し掛けたら「YES」と答えたのが彼だったのである。変な日本人に英語で話し掛けられた彼も迷惑だったかもしれないが、そのおかげで私との付き合いも始まった。

池田浩は現在日本に帰国していて、スペインで得たフラメンコギターのコンサート活動を全国に展開しているのである。彼は私のところに遊びに来ると、ギターを惜しみなく教えてくれる。私も長い間、プロミュージシャンとして活動したいと熱望していた時期があり、細々とラジオやインディーズでCDのプロモーションをしてきたのだが、彼のギターを聞いて自分に足りなかったものは何かということがはっきりわかったのである。これはもしかすると、全国のプロになりたがっているミュージシャンすべてにいえることなのかもしれない。

それは、ある種の「集中力」みたいなものなのだと思う。早くに両親を無くした彼は、デビューが早かったこともあり、生活すべてがギターだった。

彼は、あまり多弁ではない。しかしギターでうるさいぐらいしゃべるのだ。その弾き方は半端ではない。もっといえば、「フロ」以外どこでも弾いている。本人はフロでも弾きたいらしいのだが、「湿気がね・・」ということらしい。私は今まで車の助手席に座って窓からギターのネックを出して走りながらギターを弾いている人にあったことがない。

そのくらい彼はギターに集中しているのだ。家財もない、車も持っていない、あるのはギターだけ・・と言う生活を何年もしてきている。当然そこに蓄積された彼のギターテクニックは半端じゃない。

本当にいいのだ。

フラメンコの世界はかつてに比べればメジャーになってきてはいる。しかしまだまだマイナーだ。そこできっと彼は「フラメンコメンコギターの金字塔」になることは間違いない。だから、池田浩が近くでコンサートを行うことがあれば、ぜひ見ていただきたい。きっとすばらしいギターを聞かせてくれるはずだ!

池田浩フラメンコギターコンサート情報はこちら↓

フラメンコギタリスト池田浩 公式ホ-ムページ

チケット等取扱いはホームページまで!


2000.8.15    軽井沢万平ホテル

お盆を利用して、碓井鉄道文化村へ行った際、もう一箇所どうしても訪問してみたいところがあった。それは、「軽井沢万平ホテル」だった。いまから23年程前、半年ほどの間、ここに一人のイギリス人スーパースターが滞在していた。

万平ホテルその人はジョン・オノ・レノンである。ジョンレノンについては説明は不要だと思うが、あのビートルズのリーダーである。世界を沸かせ、平和にして、1980年12月9日、自分の死を持って世界を一つにしたあの男である。

ジョンレノンは1970年のビートルズ解散後、75年まで音楽活動を続けていたが、オノヨーコとの間に生まれたショーンレノンの誕生を期に一切の音楽活動を中止し、世間からその姿を消したのであった。その後、どこにいたのか?

少なくとも、1977年から1978年前半までは日本にいたようだ。夏から冬にかけてレノンはこの「万平ホテル」に滞在して日本人とともに生活していたのだ。

万平ホテルは旧軽井沢通りの側道をしばらく歩くと見えてくる。深く生い茂った木々が、直射日光をさえぎり、表通りのすでに「原宿」化した軽井沢とは違って現在でも「避暑地軽井沢」を堪能できる数少ないところである。万平ホテルの外観はウッディな外観と、和洋折衷した内装が独特な雰囲気を感じさせ、所々古さを隠し切れないところはあるにしても、歴史の重みを感じ取ることができる。「名門ホテル」という言葉がぴったりである。

私は、前日、「碓井鉄道文化村」の駐車場で野宿した翌朝早く、万平ホテルを訪問したのであった。全く万平ホテルの宿泊者と生活レベルが違いすぎる私が、名門「万平ホテル」に乗り込むことは、まるで、「ルール違反」のような気がしたが、朝食ぐらい許されるだろうと訪問したのであった。
朝10時にカフェがオープンするということなので、しばらくロビーで新聞を読みながら待っていたが、ここにはレノンの気配が特に見当たらなかった。安物ホテルでは「ジョンレノンが宿泊したホテル」とでかでか宣伝して、集客に利用するものだと思うのだが、このホテルに限ってはその必要はないようだ。

10時の時報が聞こえてカフェに入る。ここのカフェのドアに「レノン」の写真があった。カフェでヨーコとショーンと食事をしている写真のようである。

私は、嫁さんと左側のずっと奥に進んで、その席に座った。この席はレノンが毎朝必ず座ってコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた席なのである。座ってみて気が付いたが、ここはオープンデッキで外の風を感じることができる。しかもその席は一番景色が美しく見える場所でもあった。

私と嫁さんはモーニングを注文してゆっくりと朝食を食べた。しばらくすると、「待ち」が出るほど込んできたので、カフェを出た。タブは古ぼけた木製の札でできていて、それをレジにもっていくと精算してくれる。

ホテルの中を見て回ると、途中のガラスケースにレノンの愛用サングラスと、レノンがニューヨークに戻ってからリリースした最後のシングル「STARTING OVER」の12インチシングルが置いてあった。このサングラスは写真でよくレノンが着用していたもので、日本にあることが驚きだった。

レノンはひっそりとその存在感をこの「万平ホテル」に残していた。あれから23年も経つにもかかわらず、レノンが好んだ万平ホテルはその存在感を失わず、当時と同じように「万平ホテル」であった。

万平ホテルは私たちに、モーニング代2人分3,200円という領収書を残した。


2000.8.29    忘れ去られた機関車

大井川鉄道といえば全国SLファンで知らない人はいないというくらい有名だ。ここで活躍している蒸気機関車はみんな知っている。C11227・C11312・C12164・C5644の動態保存機と千頭に保存されている49616が、まあメジャーといえるだろう。

C12208しかし、じつはひっそりとたたずむもう1台の機関車がある。それはC12208。かつて九州最後の現役蒸気機関車として、高森線でSLマニアの熱い視線を浴びていた機関車でもある。引退後はどういうわけか、三重県松坂市のドライブインで静態保存機として眠りについていたのだが、数年前に大井川鉄道の新動態保存機として大井川鉄道に鳴り物入りで引き取られたのだ。去年くらいまで新金谷車両所で足回りだけ整備されている姿を確認することができた。外観はそのままの姿だったため、きれいではなかったが、動態保存機関車に囲まれて機関区にたたずむ姿は来るべき復活の日に向けて否が応でも期待が高まらざるを得なかった。

しかし、その後彼(208号機)の姿を見ることができなくなった。私はてっきり分解整備を受けている真っ最中だと思っていたのだが、実は部品取りになっていたのであった。取られた相手はC5644。このところ調子が悪かったらしいのだが、みごと部品を取り替えて今では調子よい姿を見ることができる。

現在208号機は新金谷車両所から遠くない留置線に放置されているが、その姿は「トワイライトゾーン」マニアにはタマラナイ姿になっている。夏も終わりに近づき、生い茂った夏草に左半身をすっかり覆われてしまっている。それ以上に目に付くのがはずされてしまった部品である。足回りの部品は動輪を除いてほとんど取り去られている。ピストンも抜かれてしまっているため、めったにお目にかかれないシリンダーの中まで、じっくり観察できる。

おそらく彼はここで朽ち果てていくに違いない。すでに錆はガンのごとく機体を腐食し始めているし、部品取りとして使用する以外の待遇はどうみても受けていないからだ。

機関車にも運命があるとすれば、208号機は幸せなのか不幸なのか?臓器移植としてパーツが生きつづけることは、少なくとも静態保存のときより世の中の役に立ってはいる。

しかしきっと、208号機は「そりゃないぜ」と思っているに違いない。すくなくとも大井川鉄道に来ることがなければ、解体されることだけは避けられたはずだ。

お金がとても必要な動態保存を4機も所有している大井川鉄道にこれ以上望むことは、バチがあたるかもしれないが、あえて言いたい。せめて交換した余剰部品をつけて静態保存として整備するか、このままなら、屋根つき車庫に移してやってほしい。

208号機の高森線時代の姿を覚えている人なら、よりそう思うに違いない。


2000.9.2    俺の塩!2000GT

このタイトルを見て、このネーミングがいったい何の商品の名前なのかズバリ当てることができる人はまずいないだろう。

俺の塩2000GT私は、仕事の関係で100円均一店に出入りすることが多いのだが、先日棚卸の際、商品棚に「俺の塩、2000GT」という商品を見つけた。ちょっとアウトオブデイトなパッケージ、派手に、しかもずうずうしく商品棚を占領していた。じつはこの商品、インスタントヤキソバなのだ。「日清ヤキソバUFO」や「ペヤングソースヤキソバ」はすでに確固たる地位を確立しているが、新参の「俺の塩!2000GT」はいったいどこまで有名になれるであろう。

100円均一店は、このところ商品の品質向上が目覚しいが、食品にあたってはちょっとした工夫で商品を仕入れているらしい。あのお菓子メーカーの明治製菓が実は薬品で「イソジン」を作っているのと同じように、いわゆる「一流メーカー」が「他の分野」へ進出を図った場合に出る商品を中心に仕入れをしている。

たとえば、カンヅメで有名な「はごろも」は、カンジュースも出しているが、カンヅメほどメジャーではない。技術的にはほぼ同格なので簡単に進出できたパターンである。当然品質も一流である。しかし、ジュースのメーカーから見ると、「よそ者が・・」となるわけだ。

私は、仕事の最中にその商品をちらと見ただけであったが、その日の夜どうしてもその商品を忘れることができなかった。考えてみるとすごい名前である。ちょっとまてよと・・・


通常、こんな名前の商品を出すことは難しいと思うのだ。「ペヤングソースやきそば」は発売当初、顔の四角いおじさんをだして「四角い顔」と宣伝し、「ソースヤキソバ」とあたりまえのネーミングをつけた。逆に「UFO」は四角いヤキソバに対抗してケースを丸にしてUFOのネーミングをつけて個性を出した。商品に特殊要素を加えて売り出す戦法である。

しかし、2000GTである。かろうじて「俺の塩」がついているからいいものの、ちょっとはずしすぎている。

わたしは、もしかして「トヨタ自動車」がヤキソバに進出したのではないか、そうすると日産は「俺の味噌、GT−R」と言う商品で対抗するかもしれないな・・・と考え出して眠れなくなってしまったのである。

翌朝、休みだったこともあり市場調査した。しかしこの商品なかなかお目にかかれない。棚卸のお店に連絡して詳細を聞いた。

じつは、「トヨタ自動車」ではなく「まるちゃん」だったのだ。「まるちゃん」というと私は即座に「赤いきつねと緑のたぬき」と出るが、きっとラーメン部門から、ヤキソバ部門に新規進出が行われたのであろう。本当のところは「まるちゃん」に聞かなくては分からないが、そんな気がするのだ。あの大手の「まるちゃん」がこんな名前を付けたのだ。商品開発会議はきっと徹夜だったことだろう。

だから、私は言いたい。「俺の塩、2000GT」を有名にしよう。みんなで買いに行こう!!

追記:この後、まるちゃんから第二段商品として「昔ながらのソースヤキソバ」という、ごく当たり前のネーミングで新商品が発売された・・・


2000.9.10.    あしたば

今年の夏はとても暑かった。特に8月中旬から9月初旬にかけての暑さは雨が少なかったこともあり、「からっ」とした日本らしくない夏をわずかながら体験できた。

つい先日、自動販売機で「ウーロン茶」を買おう、とお金を投入したとき、一瞬私の脳裏にフラッシュバックした日本語があった。それは「あしたば」と言う単語だ。この文章を読んでいる人で「あしたば」について、「ああ、あれね」と言えるあなたはすごい。ほとんど「何じゃ」というのが普通であろう。

明日葉茶「あしたば」は漢字で「明日葉」と書き、お茶っ葉なのである。それもごく限られた地区で。私がこの明日葉と関係を深めたのは1999年夏のことであった。

その年、(去年だったね)私は八丈島で野宿していたが、この明日葉は、島中の、どの自販機を見ても必ず並んでいる「お茶」だった。そのシェアはほぼ100%といえた。あのウーロン茶が、自販機のガラスの後ろで窮屈そうに、しかも申し訳なさそうに並んでいる姿はきっと八丈島でしか見ることが出来ないだろう。

「あしたば」は島の主要産業のひとつで、数少ない八丈島の特産品となっている。これは、ずっと昔からそうだった。しかし、なぜここまでマイナーなのか?

それは簡単だ。「まずい」のだ。もちろん、人には好みと言うものがある。しかし、このまずさを実は島の人も認めている。これには、ちゃんと証拠もあるので後ほど紹介するが、うまいといって飲む人はきっと少数派と思えるのだ。(好きな人ごめんなさい)

それでも、明日葉は販売されている。なぜか?それは「あしたば」は大変体に良いものだからだ。科学的にも裏づけられており、健康食品の本などにも必ず紹介されている。だから、販売されつづけている。ちょうど「あおじる」みたいなものなのかもしれない。

私は、このお茶を「ここでしか飲めない」という単純な動機ではじめて飲んだが、やはり「美味く」はなかった。昔から「郷に入れば郷に従え」と言う言葉もあるので、島に滞在している間はずっと飲みつづけたが、最後までなじむことは出来なかった。いや、少しはできた。

そこで、この明日葉興味のある人はチャレンジして欲しい。ここにひとつのHPを紹介しておくが、ここのリンク先にある「あしたば商品案内1」の「あしたば茶」の欄を読んで欲しい。「のんで決してうまいといえなかった明日葉茶・・・」という地元の人の評論がある。(クリックしてね。みんなで買いましょう!体にいいよ!)

久しぶりに、明日葉と言う単語と関わったが、八丈島では相変わらず「あしたば」の新製品が生まれているようだ。このHPによると「あしたば荒引きポークウインナー」や「あしたばスコーン」という新製品がうまれている。商品開発の印象派といえる。

「あしたばスコーン」は私に過去のある出来事を思い出させた。それはアサヒスーパードライが発売された80年代末期、「DRY」と言う名前がついた商品が乱発されていたが、ついに、コンビニの弁当にも「ドライ弁当」というものがでたときのことだった・・・。


2000.9.20    たかがシャベル、されどシャベル

片手シャベルここに一本のシャベルがある。全長およそ60センチ、何の変哲もない普通のシャベルのように見える。普通のシャベルと比べて少し違うなと思われる点は、「すくい」が長いことと、「柄」がT字型になっていることだろう。

このシャベルは1983年に私が購入したシャベルだった。しかも朝から並んで。当時で確か1000円だったと思う。普通の人は「高いシャベルだなあ」と感じるかもしれない。

このシャベルは、特殊用途で使われている。いや、使われていた。これは、蒸気機関車へ石炭をくべるときに使う投炭シャベルなのだ。当時、私はシャベルと同時に、両手で使う「両手シャベル」と石炭を均すために使う「ポーカー」(トランプではない)と3点セットで購入した。写真のシャベルは「片手シャベル」と呼ばれるもので、もっともポピュラーなシャベルだ。記憶ではポーカーは2000円、両手シャベルは500円だったと思う。

浜松駅のコンコースで「鉄道部品即売会」は行われていた。朝から並んだ私は、普通のガキが喜んで買うような「ヘッドマーク」や「時刻表」には目もくれず、この3点セットを購入した。私は3人目に並んでいたのだが、前の二人が「シャベルを買うのではないか?」と不安で不安でしょうがなかった。私の番になって、「おりゃ」と3点セットを手にすると当時の販売員「国鉄職員」が「ボクはツウだねえ」と頭をなでて誉めてくれたことを思い出す。

「国鉄のおじさん」は私に「ポーカー」を渡してくれて「これを使っている奴はうまくなかったね」と誇らしげに言っていた。私は、おじさんにこの3点セットの出所を聞いたところ、「遠江二俣機関区のC58」で使用されていたものだと教えてくれた。

現在「天竜浜名湖線」と名前を変えている「二俣線」で使用されていたのだ。特に写真を良く見てほしい。柄の右上の所に「焦げ」が見えるはずだ。これは鉄棒をあてたような「こげ」に見える。これでぴんと来たあなたはエライ!紛れもなく現役時代にポーカーがあたった跡なのである。

私は当時これを見つけたときは嬉しかった。確かに本物の蒸気機関車で仕事をしていたシャベルを手にしたのだ。私はホクホクで家に帰った。(ただし、このころはガキだったため、帰りのバスで2本のシャベルを抱えて、さらに鉄棒を抱えてにやにやしている私は奇妙に映ったに違いない)

私は、この「焦げ」のついた片手シャベルが好きだった。T字型の柄も長く酷使されてきたため、磨り減って両端が細くなっている。おそらく、かなり長期にわたって使われて来たのだろう。

その後月日が流れ、私の蒸気機関車に対する興味は次第にロックミュージックに移り、いつしかこのシャベルのことは忘れかけていた。

しかし、1992年に実家に戻ったとき、私は「ポーカー」が「物干し」に、「両手シャベル」は「ドブ掃除用」に、そして「片手シャベル」は「家庭菜園とネコのうんち」用に変わっていたのを目撃したのであった。私はお袋を責めた。「なんでネコのウンチなんだ」と!

お袋は言った。「だって大きさも丁度いいし使いやすいから・・・」

私はずっと放っておいたことを「片手シャベル」にわびた。幸い、柄の部分はそれほど汚れていなかった為、「すくい」の部分を良く洗い、大切に自分の部屋へ持ち帰った。

そして2000年、シャベルは私にとってまた「大切」なお宝になった。人によってはただのシャベル、されどシャベルなのだ。

今回の「独り言」は、このシャベルにささげられている。ちなみに「両手シャベル」は行方不明、「ポーカー」は実家で物干しを続けている。

2000.10.4.    パソコン

PC自作王先日、しばらく訪問していなかったパソコンショップに顔を出したら、「ついにここまで来たか」とため息混じりに感心してしまったことがあった。

それは、「自作ノートパソコン用のケース」だった。実は私が使用しているパソコンは、自作パソコンなのだ。製作したのは1999年12月だったと思う。自作パソコンを使用している人は多いが、私は全く知識も技術もないまま、書籍を読みまくり、頭でかちんでいきなりスーパーハイエンドマシンにチャレンジしてしまったのだ。(ライブスチームのようだ!)

そもそも、自作などというものにはまった理由は、97年からずっと使用している   NECノートパソコンのHDが満タンになってしまったことにあった。「メーカー製ノートは対応しようがない」と言われつづけたが、結局2.1GBのHDから、領域なしの8.4GBにHDの改造は問題なく終了し、現在でもこのマシンは会社で使用している。

その成功に自身を持ち、静岡のパーツ屋を回り、書籍で情報収集して集めた部品でいきなり製作したのが、現在家で使用しているこのパソコンなのである。しかし、はっきり言って大変だった。書籍にも「自作パソコンは問題なく動くことが稀」とはっきり書いてあったが、本当にそのとおりで、実は今でも「電源が不安定」という問題を抱えている。

部品購入に要した費用は11万前後だった。現在ではメーカー製パソコンも価格破壊が進み、安くなってきたため、11万も動くかどうか分からないパソコンにお金を掛けるのはリスキーという考えもあるが、自作パソコンにはメーカー製パソコンに絶対に与えられないメリットがある。

それは「常に新しいマシンでありつづける」ということだ。パソコンはハイテクの集合体であるがゆえに、新旧交代が著しい。昨日50万だったPCが来年には3万ほどの価値になってしまう。メーカー製のパソコンの場合は、「買い換える」しか方法がないが、自作パソコンの場合には「時代遅れの部品だけを交換すればよい」のだ。

これは非常に大きい。5年スパンで考えると、この差はとても大きい。もちろん、5年後の私のパソコンがどうなっているか想像してみても「中身総入れ替え」になっていそうな気がする。それでもはるかに金銭的に負担が少ないはずだ。私はここに自作パソコンの魅力があるとおもう。他にも「余計なアプリケーションソフトがはいっていないためソフト代がお得」という面も捨てがたい。

かといって、やはり自作パソコンは動作が不安定な上、動かなかった場合は、自分の能力で何とかしないとならない、という大きな欠点もある。

そこでお勧めは「ショップオリジナル」パソコンだ。これはパソコンショップが「手ごろな部品」でくみ上げて「動作チェック」をした上で販売している為、「自作パソコン」と同じで、しかもちゃんと動く。万が一動かない場合にも「おねがいしまーす」といって預けてしまえばいい。これは便利である。このような「ショップオリジナル」パソコンを販売しているメーカーは「オーダーメイド」や「改造」にも対応してくれるのでこの上ない。

そして、時代は「自作ノートパソコン」にまで及んでいる。ぜひ挑戦したいと思うが、「必要がない」ので見送るしかない。これからパソコンを購入する方、購入を考えている方は是非「自作パソコン」か「ショップオリジナル」をお勧めする!


2000.10.11    とうふ屋のおじさん

私は18歳まで静岡県の浜松市に住んでいた。自宅は市の中心部からずいぶん離れたところに建っていたが、分譲住宅地だったこともあり比較的住宅密集地だった。

ここには、私が「物覚えがついた頃」から火曜日と金曜日に巡回して売りに来る豆腐屋さんがいた。夕方、日が暮れるとどこからともなく「プープー」と真鍮製のラッパの音が聞こえてきた。豆腐屋さんはこの時代なのですでに自転車で売りに来ていたわけではなかったが、ラッパを吹いて売りに来ることもあり、なんとなく郷愁をさそう豆腐屋さんだった。
豆腐の積んである軽バンは食材がぎっしりで、豆腐の匂いもあり、なんともいえなかった。軽バンはいつもきまって私の家の前に止まった。そこで近所のお母さん方が集まって世間話をして豆腐を買うのだ。

たまには私がボウルをもって豆腐を買いに行くことがあったが、豆腐屋のおじさんは気さくで「おつかいか!えらいねえ」などといっていた。しかし、ある日を堺に、ただの豆腐屋さんが豆腐屋さんでなくなった。それは私が大学受験を控えた秋のことだった。

その日は、「豆腐屋さん」が私の母に頼まれた豆腐を届けに私の家の玄関に入ってきたのだ。この頃、私は知人に頼んで作ってもらった「蒸気機関車D51のナンバプレート」を玄関の下駄箱の上に飾っていた。

私は豆腐の代金を払いに玄関にでていったが、「豆腐屋のおじさん」は「D51」のプレートを見ながら時間が止まったように固まっていた。私は「豆腐代」をおじさんに差し出したが、豆腐屋のおじさんはそんなものには興味がないような感じで「D51」のナンバープレートに見入っていた。

豆腐屋のおじさんは言った。「この機関車のプレートはヒロ君(私のこと)の物なの?」

私は答えた。「そうだよ、だけどレプリカなんだ!」というと、豆腐屋のおじさんは「実はおじさんは蒸気機関車の機関士だったんだよ」と突然言った。

おじさんはゆっくりと蒸気機関車の話を始めた。おじさんは浜松機関区所属特級組の機関士で、最年少で特級組にはいったそうだ。戦前の話で、当時は沼津の機関車を浜松で付け替えていたこともあり、浜松には本線用の大型蒸気が集中配備されてた。

C5345私は、「好きだった機関車は何だったの?」と聞いた。おじさんは答えた「C53だよ。音が良くてね。足も速かった。」
しばらく豆腐屋さんは豆腐屋であることを忘れて熱く「蒸気機関士」であったときのことを話してくれた。おじさんにとっては戦前の「特級組機関士」だったことは輝かしい栄光の時だったに違いない。

一度「電気機関車」について質問したことがあったが、「蒸気機関車がいちばん!」といって話にならなかった。

その後、豆腐屋のおじさんは私に「C53と一緒に映っている赤茶けた写真」を持ってきてくれたり、前述の「投炭シャベル」の使い方を教えてくれたりと、私にとってもっとも身近な「蒸気機関士」となった。おじさんと私はお互いに会おうとして会うことはなかったが、豆腐のラッパの音が聞こえてくるときには努めて私が「豆腐」を買いに行った。

その後、私は大学に進学し、浜松に帰省するときだけは「豆腐」を買いに出た。最後に会ったのはいつだったか定かではないが、「D51498」を大宮に見に行った話をした記憶がある為、10年は過ぎていないことは間違いない。近所の人の話では、「だんだん不定期」になり、いまでは「豆腐屋さんを廃業した」らしいということを聞いた。

私は、今でも浜松に戻るとあの「真鍮製のラッパ」の音を求めてしまう。夕方、日が沈む頃になるといつもどこからともなく聞こえてきたあの「プープー」という音を。


2000.10.20.  さよならレビン・トレノ

つい先日、トヨタから新型カローラが発表され、大々的にCMが行なわれた。その裏でひっそりと「カローラレビン」と「スプリンタートレノ」が息を引き取っていた。「トレノ」に関して言えば、その「親」モデルとも言える「スプリンター」自体が形式消滅してしまったため、完全に消え去っていった。

長らく、28年間もトヨタ「ライトウェイトスポーツカー」部門の代表として君臨していた形式としてはなんとも地味な最後だった。だいたい、「レビン・トレノ」が何なのか知らない小僧もいるくらいだから。

しかしまあ、しょうがないと言えばしょうがない。私は「間違いなく」消滅すると思っていた。なぜなら「ハチロク」が最後のレビン・トレノだったからだ。

私が免許を取った頃(1990年)は、バブルもバブル、日本は凄いことになっていた。ホンダの「NSX」、日産の「スカイラインGTR」、三菱の「ディアマンテ」が発表されたのもこの頃だった。高級大型スポーツカーがもてはやされ、BMW3シリーズにいたっては「六本木カローラ」とまで呼ばれていた。

私も小僧の一角を担って、ブリブリやっていたが、当時を思い返してみるとすでに「ライトウェイトカー」と言う言葉が「死語」になっていたような気がする。すでに一部の金持ちを除いて学生の興味は急速に「クロカン4WD」に移っており、スポーツカーは「使えない車」としてイマイチ学生から人気がなかった。この年のトヨタのレビントレノはハチロクの次の世代、AE92が最初のマイナーチェンジを迎えたところで、この車は「ミニソアラ」とも呼ばれていた。

AE92スプリンタートレノこの「ミニソアラ」と言う言葉は、当時のレビントレノをよくあらわしていると思う。要するに、「スポーツカー」ではなくて「ラグジュアリーカー」としての「レビン・トレノ」だったと言うことだ。ハチロクの生産が終了してたったの2年かそこらしか過ぎていなかったが、大学の「自動車部」の連中は「ハチロク、ハチロク・・・」とお経のように連呼していた。当時の私は「ハチロク」に対してあまりいいイメージはもっていなかった。だいたい、リアサスが「リジッドアクスル」だなんて、まるで「観光バスかトラック」じゃないか!と車について詳しくもないくせに力説していた。(今は観光バスも独立懸架らしい・・・)

その後はご存知のように、時代は「クロカン4WD」から「ワゴン」に移り、スポーツカーに乗る小僧はますます少なくなっていった。

トヨタは AE92→AE101→AE111とモデルチェンジを繰り返し、レビン・トレノを生産してきたが、売れない車は作ってもしょうがない、と言う理由であっさりと生産を打ち切ってしまった。

しかし、あえて言いたい。売れなかったのは「車に魅力がなかったからだ」ということを!レーシングドライバー土屋圭一はビデオでAE111のレビンを見てこういった。「あらあら、お母さんの買い物車がやってきた!」

そのとおり!お母さんの買い物車が小僧に売れるわけがない。ましてやお母さんが乗るには使いにくい。そんな車にレビン・トレノの名前は付けてはいけない。

私個人はこのレビントレノの最終形式「AE111」は大好きでFF車として完成されていると思う。とくにエンジンは素晴らしい。だけど魅力がないのだ。

次にトヨタがレビン・トレノの名前を使って車を発表するときは「車重1000キロ以下」「当然FR」「2ドアクーペ」と言う条件であってほしい。そうでなければ本当に「レビン・トレノ」は失われてしまう。復活を祈る。


2000.11.1.    ケルン石塚

先日、鉄道雑誌「とれいん」を購入するため本屋に出かけた。ライブスチームに足を突っ込んでから、車雑誌から遠のいていたが、車コーナーに「Old-timer」が並んでいるのをみて、思わず立ち読みした。

Old-timer「Old-timer」は旧車のレストア専門雑誌で、非常にマニアックな本だ。鉄道雑誌「とれいん」のように、置いてある本屋が限られている。毎月発行だが、私が目にした号は「臨時増刊号」だった。前回の「臨時増刊号」も購入していた私は、その内容のレベルが高いことを知っていたため、「ちょっとよんでみるか・・・」とページを開いた。

この号はすごかった。目的である「とれいん」を購入することも忘れて読みふけった上、購入して家に帰ってしまった。

なぜなら、この「Old-timer臨時増刊号」は「今私が一番読まなければならない本」だったからだ。内容は「ケルン石塚」とよばれる人の「技術と知識」をまるまる一冊にまとめている。ケルン石塚氏は「ローバーミニ」のレストアラーで、私から見ると「天才」とも言えるアイデアと知識を持った人だ。その技術と知識は車のみならず、ライブスチームにも十分応用できるものだった。

どのくらいすごい人かというと、重さ34キロあるアルミ半円柱から、ミニ用ツインカム4バルブエンジンヘッド(このような物はこの世に存在しない)を削りだして作ってしまうような人なのだ。

本にある「金属の性質を味方につけること、そうすれば金属は粘土になる」は私の心を動かした。実際、この本の内容の半分以上は「金属の性質と加工」についての記述で、けして車の雑誌ではない。蒸気機関車は内燃、外燃の違いはあるにしろ、「エンジン」には違いない。当然、内容は応用できるものばかりだった。「金属加工」という未知の世界に踏み入れるための「バイブル」として申し分ないものであった。

さらに、雑誌は「ケルン石塚」に対し、「特殊工具を使わずに加工する」という無理難題を突きつけても、ケルン石塚氏はアイデアでクリヤーしてしまう。「定盤を使うな」という課題に対しては「墓石」をコンパウンドで磨き定盤にしてしまう。金属よりも優れた素材であればプラスチックでも木材でも、パテでも平気で使用する。それもちゃんと「テスト」を行なって「優秀であること」を証明してから使用するのだ。アルミ缶を集めて「自作廃油ストーブ」で「鋳造」までしてしまう。

衝撃だった。世の中には本当にすごい人がいる。さらに、面白さに拍車をかけているのが、その文章だ。本は「ケルン石塚氏の作業」を編集部の「渡辺明彦氏がレポート」するという内容になっている。10年以上にもわたる彼らの関係は「お互いの信頼」を感じさせる息の合ったものだ。本の内容も「10年にわたる取材」で構成されている。次に紹介する文章は、「ケルン石塚氏」が自動車塗装の下地処理である「サーフェイサーを研ぐ」という作業にあたっての導入文だ

「〜前略〜サーフェイサーを研ぐという作業は単調であり、時間のかかる作業である。「邪念を捨て無心に研ぐ」のがよいとされているが、実際にはペーパーを当てながら、作業者はいろいろなことを考えているものである。私の場合は「裏庭のフキノトウはもう顔を出しただろうか?」とか「今年こそは鹿に先を越されないようにタラノメを採ろう」などと、世俗にまみれた他愛もないことを考えていることが多い。はたして石塚さんはこんな場合、何を考えているのだろう?以前からちょっと気になっていた。ケルン石塚氏によると、地球上には24時間絶え間なく一定の力で働きつづけているエネルギーが2つあるという。ひとつは重力であり、もうひとつは地磁力だ。一方太陽光は夜失われてしまうし、風力や水力は不安定である。地磁力は北に向かってひかれる力であり、重力は下に向かって働いている。つまりそれぞれのベクトルの方向は異なっているのである。ということはこの2つの力を上手く取り出してやれば、物体を永久に回転させる運動エネルギーを作ることができるのではないか?それをうまく使うことで発電が可能となれば、化石燃料を燃やす必要もないし、核廃棄物をこれ以上増やさなくてもすむ。しかし、地磁力の電気的性質をうまく使ったとしても、装置が大掛かりになる割に発電効率が悪そうだ・・・・という結論を導き出した頃、フェンダーが一枚研ぎあがるのである。〜後略〜」

この本を目にする機会があればぜひ読んでいただきたい。おすすめ!!


2000.11.13    なぜ、蒸気機関車がすきなのか?

私が日本中の蒸気機関車をもとめて旅をする中で、いつも必ず質問されることがある。それは「どうしてそんなに蒸気機関車がすきなの?」という言葉だ。

ライブスチーム関係の人、蒸気機関車関係の人、それ以外で私が蒸気機関車を好きだということを知っている人は必ずこの質問をする。しかし質問をよく分析すると2種類あると思う。蒸気機関車を良く知っている人は「どうして現役を知らない世代がそこまで好きなのか」というナゾから、それ以外の人は「そのようなものがなぜ好きなのか」ということである。

この質問に対して「いやあ、好きなものは好きだからね」と答えていたが、理由があるはずなので、よく記憶をたどり、答えを出してみた。

D511私にとって直接「蒸気機関車」という物を印象付けたものは2冊の本だった。一冊は「栄光の機関車D51」という本。もうひとつは「驀進の記録、蒸気機関車」という本だ。現在探しているが、絶版になっているようで見つからない。あまりに昔のことなので明確に覚えていないが、「栄光の機関車D51」はデゴイチ誕生から引退までを「愛吉」と言う一人の人間を通して捉えた物語本だった。当然、内容は昭和11年から昭和47年頃までの話で、特に「D511」が題材になっている。この主人公は母親が生活を苦に機関車へ飛び込み自殺を図り、そのとき一緒に飛び込んだ赤ん坊が「愛吉」で、母親を轢いた機関車がD511で、さらにその遺児を育てることになった人がそのD511を運転していた機関士というところから話が始まる。

物語ではあるものの、デゴイチがいかに優秀な機関車であるか、機関士の会話という形を取り説明されている。私の蒸気機関車の基礎知識はここから得たものだ。

もうひとつの「驀進の記録、蒸気機関車」は短編の寄せ集めでどうしてこのようなタイトルがついたのかやや不思議な点は残る。なぜなら、その短編の中に「蒸気機関車」は直接出てこないからだ。この本の内容は鉄道と、それを取り巻く人間模様をドキュメンタリーで文章にしたものだ。

この短編集の中では「親子機関士」という話があり、退職間際の父親とその息子が題材になっている。ある日ダイヤの乱れから息子が本務機、父親が補機に乗務することになる。父親は「蒸気機関車運転の名人」で機関区の指導機関士を努めている。一方息子は電気機関士で、この物語の重連では2人ともED16型電気機関車で峠に挑む。しかし物語全編でテーマとなるのは下りの「ブレーキ操作」である。父親が開発したとても難しい「補給制動」をいつのまにか息子が「補給制動を身につけ」それを補機に乗る父親が目の当たりにし、感動の涙を流す・・・という内容である。

そのほかにも面白い短編が含まれていたような気がするが、それ以外覚えていない。

これら2冊の本を読むまでは私はごく普通の「ブルートレイン」や「EF65」が好きなガキだった。電車を見ていたのは専ら山陽本線で祖母の家へ行くたびに踏み切りに立って通り過ぎる電車を眺めていた。しかしこの本を読んでからは、「やまぐち号」へ乗るために小郡まで足を伸ばしたり、梅小路蒸気機関車館を訪問したりという活動が始まった。資料を読み漁り、実物を見れば見るほど、現役時代に蒸気機関車を見られなかった悔しさが現在の私を作り上げたといってもいい。それは、私が目にすることができた保存蒸気機関車が、現役時とは程遠い、妙にウソっぽい装飾が施されていたからだと思う。

浜松から大井川鉄道まではあまり遠くないのだが、当時こちらはあまり興味がなかった。なぜなら、大井川鉄道の機関車はC11で、「蒸気機関車の魅力」を感じるには役不足と考えていたからだ。

大学生から社会人になり、まわりまわって静岡県に帰ってきて、大井川鉄道を訪問にしたとき、大井川鉄道は日本で残された唯一の「現役蒸気機関車」であることに気づいた。今でも暇があると大井川鉄道には見学に行くことが日課になっている。

現役時代の蒸気機関車を「大井川鉄道」という形で感じることができた今、次の目標で蒸気機関車を自分のものにしてみたいという欲望が生まれて、「ライブスチーム」に入れ込んでいる。

蒸気機関車がなぜ好きなのか、私にとってそれは確かに2冊の本がきっかけになっている。しかし、「良いもの」は誰が見ても「良いもの」であるし、蒸気機関車は「良いもの」としての資質を十分備えている。ライブスチームの運転会で「目を輝かせて」機関車に触りたがる小さい子供を見ていると、やっぱり「良いものは誰が見ても良い」ということになるのである。

 


2000.11.18    アムロ・レイ

今から20年ほど前、「機動戦士ガンダム」というアニメが一世風靡していた。このアニメーションは、「モビルスーツ」と呼ばれる戦闘兵器がプラモデル化され「ガンプラ」と呼ばれるようになったこともあり、アニメに興味がない人でも知らない人はいないだろう。

「機動戦士ガンダム」は、現在でも大変な人気を誇っており、名前を変えて続編がビデオ等で発表されつづけている。しかし、なんと言っても初代の「機動戦士ガンダム」はすごいアニメだった。

それまでの、フィクション丸出しのアニメから、一転して非常にシビアで現実的な内容だった。いかにも将来起きそうなテーマで話は展開していき、人間の核心(革新かな・・)に迫る、少年にはやや難しい内容のアニメだった。

私は「再放送時代」の「機動戦士ガンダム」の大ファンで、テレビ、映画だけでなく、雑誌を読みまくり、とりこになっていた。私を取り巻くガキどもは、「シャア専用ザク」「リックドム」「ゲルググ」といった専ら「モビルスーツ」のとりこになっていたが、私はその人間模様やニュータイプ(懐かしい言葉だ・・・)に対する憧れを持っていた。

アムロ レイこの「機動戦士ガンダム」の主人公は「アムロ・レイ」とよばれる若干15歳の小僧だった。アムロの父「テム・レイ」は「連邦軍の軍人」であり、「ガンダム」を開発した天才であった。

当時、アムロは人気がなかった。アムロはそれまでのヒーローとは明らかに違い、「軟弱」「すぐ逃げ出す」「上司であるブライトから殴られる」と、モビルスーツの操縦が上手いというところをのぞけば全くカッコ悪い存在だった。女の子には専らジオン軍の「シャア・アズナブル」がアイドルであり、人気もすごかった。今でも「シャア」が主人公と勘違いしている人は多いし、敵でこれほど愛された存在もそれまで皆無だった。

最近この「機動戦士ガンダム」の映画版を購入して、懐かしく鑑賞したが、どういうわけか「アムロ・レイ」はかっこよかった。小学校5年生の私と違い、多少なりとも人生の苦肉を味わってきた私は、内容を理解するにつれて「ああ、だからアムロは逃げ出したのか・・・」「なるほどね、アムロがキレルのも無理ないね・・・」と次第に「ガンダム」のより深いところを理解することができたのである。

当時のテレビ版「機動戦士ガンダム」は一週間に一回の放送で、話の進行がとても遅い気がしたものだ。しかし、たとえば第一話から第五話までは、ストーリー上、たった2日しか経っていない。この間に、ごく普通の少年だったアムロは、偶然ガンダムに乗り込み、仕方なく戦争に駆り出され、「プロフェッショナル」シャアと一戦交え、なおかつ「もう怖いのいやなんだよ!」とガンダムに乗ることを拒否したところを「なぜ貴様は自分の任務を果たそうとしないのだ!!」といわれて往復ビンタを食らうのだ。しかもアムロは民間人でブライトから「任務」などと言われる筋合いは全くないわけだ。

これはひどい。金目当ての傭兵だって、「2日間で5回の出撃」は断るだろう。しかも、死んでも恩給は出ない上、結果を出しても「戦いで勝つことだけが生き延びること、ゆえに当たり前」と解釈されてしまう。

アムロを含むホワイトベースの乗組員はほとんど民間人で、連邦軍本部であるジャブローで「辞令」を受けるまで(かなり後のほう・・・)はまったく「軍」とは関係ない人間だ。「辞令」をもらったアムロはこうつぶやいた「こんなものがなんになるんだろう・・・」

真実である。アムロは「戦争」にむけて心がすさんでいく「軍人」たちのなかで唯一「冷静」を保っていたヒーローだった。20年近くの年月が過ぎてやっと「アムロ・レイ」が「冷静に自分を見失わない人間」であることが理解できたのだった。

 


2000.11.29.    オークション

私の知人が最近オークションにはまっている。それは「ヤフー・オークション」で、インターネットを使用したオークションである。私も、見る人が見ると「お宝」という代物が沢山あるので、いちど見てみようと思い覗いてみた。このヤフーオークションはちょっと前に事件があり、某女子高の体操服が盗難に合い、その盗難にあった体操服がオークションに出品されていたことでマスコミで取り上げられていた。

私もさっそく、オークションアイテムをチェックするため、まず、ライブスチームに夢中で買い損なってしまった「ビートルズアンソロジー初版」を探してみた。すると初版はなかったが「第二版」は出品されており、出品者のコメントが書いてあった。「私は初版を予約したが、どういうわけか第二版がとどいてしまった。珍しくも何ともない」と書いてある。「それじゃ自分とおんなじじゃないか・・・・」などとつぶやきながら今度はカテゴリーでアイテムを探してみることにした。

当然次は「蒸気機関車」と検索に入れてみた。鉄道モノはアイテム数が多く5000点以上出品されている。Nゲージやら、「アリイのC57プラモデル」もある。いずれも落札価格が高めに設定してある。アイテムをチェックしていくと、ただ単に「蒸気機関車・最低落札価格2,000,000円」というものがあった。私は「きたぞ、来たぞ・・・ライブスチームだ・・・、ベルメックスでなくてもあるところにはあるんだなあ・・・」と先走りながらその200万という価格を「ライブスチーム」と決め付けてクリックした。

私はそれが最初何なのかよく理解できなかった。そこにはこう書いてあった。

「C型蒸気機関車・1944年製 立山製作所製造、全高3.8m・全長9.5m・重量29t、北海道茂尻炭鉱で使用。北海道江別市、現地渡し、倉庫内保存、保存状態良好。」

本物

ライブスチームにしては大きいな・・・と思いながら、体に電流が走った!ちがう、これは本物だ!なんと言うことだ。本物の蒸気機関車が「ヤフー・オークション」に出品されているのだ。これには「ベルメックス」も開いた口がふさがらないというものだろう。

私は、かつて本で読んだことがある。昔読んだ本で記憶が正確ではないが、「北海道江別市在住の個人が、夕張の蒸気機関車を個人所有して倉庫に複数保存している、一般公開を望む声が大きい・・・」と言うような記事だった。もしかするとその中の一台かもしれない。

本物の蒸気機関車を個人所有する・・・これは究極の夢だ。私の場合どんなに頑張っても「本物の蒸気機関車を保存する」などということはできない。私は「200万じゃあセントラルの8620と変わらないじゃないか!」と感動しながら細かいところを読んでみた。「現地渡し、送料買主負担・・」

残念ながら、私には到底無理だ。入札はされていないが、もしこの機関車が前述の本の機関車だとすると、状態は大変よいはずだ。

このような機関車は貴重な文化遺産でもある。ただでさえ保存機が少ない「産業用蒸気機関車」だ。私は落札できないが、蒸気機関車を愛してやまない超お金持ちの方が落札されることを祈ることしかできない。残念ながら現状ではそれが一番良い。間違っても買い手が付かずに解体・・・ということだけは避けて欲しい。

 


2000.12.13.    俺のしょうゆ

嫁さんが買い物に行った際、お土産を買ってきた。タイトルをみて「またかよ」と思った人はこのHPを相当熟読している人にちがいない。

俺のしょうゆ「俺の塩2000GT」で独り言に登場したまるちゃんの新製品は、ついに第3弾へと発展した。まるちゃんは「俺の塩 2000GT」で華々しくヤキソバ界にデビューした。そしてネーミングの問題かどうかは定かではないが、第2弾商品はごく普通の名前で「昔ながらのソースヤキソバ」だった。これはネーミングというより、むしろジャンルが「ヤキソバ」であったため、番外編の要素が強いと思う。

そして、今回の第3弾は「俺のしょうゆ」だった。真打登場である。しかしお察しのとおり、私は落胆した。なぜなら「俺のしょうゆ・・・・」としょうゆの後に続く言葉が何もなかったからだ。そこから想像できることは、「2000GTのネーミングは失敗だった」とまるちゃんが判断したのではないか・・・ということだ。

私はそんなことはないと思っている。あのインパクトは凄かった。私ははじめて「俺の塩2000GT」に出会った日、その商品の名前に取り付かれ、さらに飲みに行ったジャズバーのマスターにその話をしたところそのマスターも取り付かれて、少なくとも地球上で2人は強いインパクトをうけた。

第3弾は「俺のしょうゆ」だった。できれば「GTR」とつけて欲しかった。2番煎じではあるが、「俺の塩」を知らない人がその名前を見たらきっとインパクトを受けたはずだ。しかしメーカーが判断したのならしょうがない。このままでは「俺の味噌GTR」も拝見できそうにない。

そこで私がいかにも「独り言」らしい提案をしたい。次の商品が味噌系だったと仮定して、ネームミングは「俺の味噌 BMW」とする。さらに3シリーズ、5シリーズ、7シリーズとつけて、3シリーズなら、300ccの内容量で具が20グラム、5シリーズは500ccで具が25グラム、そして7シリーズは、700ccで具が35グラム入っているという商品はどうだろう。(当然、具は乾燥重量)値段もシリーズが大きくなるにしたがって高くなり、クオリティーもあがる。

面白くないか。やっぱり。

 


2001.1.1 20世紀デザイン切手

20世紀デザイン切手新年になって最初に書くことになったテーマはこれだ。20世紀デザイン切手である。すでにご存知の方も多いと思われるが、1年ほど前から、郵便局で定期的に発行されてきた切手シリーズである。私はこれが発行されたときニュースか何かでその存在を知り、「また郵政省が資金集めに走ったなあ」と、あまり気にかけてはいなかった。

私が小学生の頃「切手集め」は超メジャーな趣味でトレンドの最先端を行く趣味だった。今では考えられないことだが、郵便局の窓口に置いてある記念切手発売予定表をもらい、発売日には並んで購入する。その頃は小学生だったため、1シートまとめて購入するような粋な買い方はできなかったが、できる限りたくさん購入するよう努力したものだ。

購入した切手は切手帳と呼ばれる専用のファイルに保存し、切手は専用のピンセットで扱い、決して素手で触るようなことはしなかった。小学生仲間の間でもこれは常識の範囲で「モラル」として受け止めていた。これは本当の話で、漫画家の「さくらももこ」のエッセイでも語られているので参考にしていただくとよいと思う。当時は「趣味は切手集めです!」と発表できることは素晴らしいことだったのだ。

昨年の夏、とある理由により、私は日本各地を旅することができた。私は北海道に長期滞在してフラフラしていたが、洞爺湖の郵便局で暑中見舞いを書いていたときに「20世紀デザイン切手第2集発売」というポスターがはってあることに気がついた。そこでちょっとした決意をした。「最後まですべて揃えよう!」ということである。

早速、窓口で「20世紀デザイン切手の1集と2集をください」というと、なんと「ごめんなさい、1集は売り切れでもうないんですよ」といわれてしまったのだ。

ないといわれると手に入れたくなるのがコレクターの悪いところである。私はムキになって探すことにした。旅をして訪れる町にある郵便局を必ず訪問し第1集を探す。見つかれば「最後まで集め」駄目なら、「集めない」ことにする。私は訪問するたびに郵便局を訪れ探したがなかなか見つからなかった。しかし、「遠軽郵便局」でようやく第1集を手にすることができたのだ。

その後、順調に購入を続けていったが、だんだん遅れがちになり、最後には嫁さんに買いに行ってもらって集めることになってしまった。嫁さんは「お金がもったいない」と不満をぶちまけていたが、「ここで辞めたらもっともったいない」とわけのわからない言い訳をして何とか最後まで集めようと努力した。

そして、今日何とか最後の第17集を購入した。最後に購入した郵便局は「金谷郵便局」だった。大井川鉄道の金谷である。

20世紀デザイン切手は専用のファイルがあり、これに集めた切手を綴じているが、こうして集まったものを眺めると、確かに楽しい切手である。20世紀の大きな出来事が年表のように切手にデザインされている。第7集では「蒸気機関車D51誕生」と大きく写真が取り込まれている。第13集では「ウルトラマン」や「バルタン星人」が、第15週では「機動戦士ガンダムとアムロ」など、今までの堅苦しい切手のイメージが払拭されている。切手の形状も楕円であったり、円形であったり、めがね形であったりとても楽しい。

嫁さんは「嫌な仕事が終わった」とまだブツブツ言っている。しかし私はそのうちどこかの切手コレクターが「ヤフーオークション」で高値で競り落とすところを見せて「ほら!集めてよかったでしょ?」と反撃したい気持ちでいっぱいなのである。


2001.1.7    FR車の時代

昨年限りで私は国内B級ライセンスとコースB3の資格を失った。1993年にライセンスを獲得して以来、少なからずモータースポーツに関わってきたが、競技に参加できる車を手放したこと、チーム監督で車の面倒を診ていただいてた方が亡くなってしまったこと、そのほかいろいろな理由で更新手続きをしなかったためだ。ちょっとさびしい気もするが、モータースポーツも環境が整わなければ継続することが難しいスポーツである。

JAFのライセンスを所有していると、毎月送られてくる「JAFF MATE」に加えて「JAF MOTOR SPORTS」が送られてくる。この雑誌はライセンス所有者に国内、国外の競技報告をするための雑誌で、写真入の楽しいものだ。私は、当時「ジムカーナ」という競技に参加していた。準国内格式の競技で、パイロンを立てたコースを何秒で走ることができるか?を競う競技である。

このジムカーナと言う競技は車を速く走らせるための技術を磨くには申し分ない競技であった。それゆえにレベルが高く、また車のもつポテンシャルが重要な競技でもあった。全日本クラスになると、300万近くする車を半年で買い替えたりすることはしょっちゅうで、お金がかかることも特徴であった。

HONDA S2000その当時から、今までずっと負けなしのチャンピオンがいる。A3というクラス(2000cc以上の2輪駆動車のみ)に参加している山野哲也氏である。彼は昔から信じられないくらい速く、テクニシャンだった。モータースポーツの世界ではかなり有名な人なので知っている人も多いと思う。その彼が、今年素晴らしいことをしてくれた。

それは私がずっと夢見続けてきた「FR車で優勝」(FR・・・フロントエンジン・リヤドライブの意味)という事だ。彼は優勝だけでなく「総合チャンピオン」になってしまったので、もっと素晴らしいことをしてくれたのだ。

自動車業界では1985年を境に急速にFF化が進み、FR車は、「コストが高い」「スペース効率が悪い」という理由から、一部高級車を除きごく少数派になってしまった。モータースポーツの世界でも1986年を境に次第にFF化していき、90年代に入ってからは4WDの時代へと変化していった。私は「速く走る」ということよりも「車をコントロールすること」に楽しみを見出していたので、車を買い換えることはせず、ずっと日産のあるFR車に頑固に乗りつづけていた。どこの競技に出ても、FR車は私1人で、大抵はミッドシップの車であったり、4WDであったり、FFであった。

すでにFR車は時代遅れで、モータースポーツの世界では「勝つことができない駆動方式」と言われていた。残念ながら私自身もそう感じていた。「FRは運転を楽しむためのレイアウトで、速く走るためのレイアウトではない」そう理解していたのだ。

しかし、2000年、FR車はおよそ20年ぶりにモータースポーツの世界で脚光を浴びることになった。しかも、最も勝つことが難しいといわれた「ジムカーナ」で、だ。山野哲也氏のドライブした車は「HONDA/S2000」だ。最終戦で優勝を決め、今年チャンピオンを獲得した。素晴らしい。

3位には「マツダRX7」が入り、貫禄も十分だ。80年台後半から90年代後半にかけてFRは不遇の時代を迎えた。しかし1999年、トヨタからアルテッツア、ホンダからS2000と楽しい、新開発のFR車が生まれた。ここにきてやっとFR車が見直されてきたのだ。私はモータースポーツから離れてしまったが、今後のFR車の活躍に期待したい。


2001.1.20    カービングスキー

衛星放送である「スカイパーフェクトTV」では、地上波では見ることができない番組を見ることができる。関東に住んでいた頃、フジテレビでは日曜の深夜にほぼ毎週「ワールドカップ・アルペンスキー」をみることが出来た。これは、F-1放送の時間帯をオフシーズンの間利用していたもので、もしかしたら現在でも放送されつづけているかもしれない。

スキー今回私が衛星放送で見たものは、2000/2001シーズン、スイスのウェンゲンで行なわれた「アルペンスキースラローム第4戦」だった。今年は、木村公宣・皆川健太郎とも、第2戦からポイントを獲得しており、順調な滑り出しだ。残念ながら、ウェンゲンの第4戦では、両者ともポールを跨いでで途中棄権という残念な結果に終わってしまった。

私は、アルペンスキーが大好きだ。日本人選手は、ノルディク系で強く有名選手が多いが、アルペンスキーでは、残念ながらまだまだとしかいえない。1987年に、岡部哲也が2位を獲得したのが、最高位である。その岡部哲也はすでに引退して解説をしている。

昨年からの傾向で、ワールドカップアルペンスキーでも、カービングスキーが主流になってきている。学生の頃、私はスキー用品を毎年買い替え、ブーツ以外はニューモデルを追いつづけていたが、最近はからっきし駄目である。経済的理由というよりも、興味の対象の問題で、「お金をかけてまで新しいものを追う必要はない」と、使えるものは使うという姿勢で買い替えずにきていた。(ということは経済的理由・・)

特に、「スキー板」は、かなり特殊なスキーをしていない限り、あまりすべりに技術的影響を与えるものではない。というのも、スキー板のトーションやサイドカーブを使い分ける必要がある人というのは大抵競技スキーをやっている人か、プロだったからだ。

しかし、気が付いてみれば、板は90年モデル、ブーツは91年モデルと、すでに一昔前の世代になってしまっていた。自分では見慣れているせいか、ちっとも古く見えないのだが他人が見ると「博物館でしか見られないような一品」になってしまっているようだ。新しいカービングスキーは滑りに大きな影響を与えるという。「簡単にスキーを上手にすべることができる」ということが売りで開発されている。ワールドカップアルペンで使用されているということは、良さが認められて良いものと証明されたということだ。影響を受けやすい私は、早速「カービングスキー」をチェックするために「スポーツ用品店」に向かった。

カービングスキーは高かった。関東に住んでいた頃は専ら、神田のスポーツ用品店街を流して、並行輸入品や、キズものばかり買っていた。だからニューモデルの板はとても高価に思えた。ライブスチームの今後を考えるととてもニューモデルは買えそうにない。仕方なく旧モデルのコーナーへ向かった。すると、そこには1万円以下で、ビンディングもついた「いいかんじ」のスキーがたくさん並んでいた。競技系のモデルもちゃんとある。かなり良い品に見えた。

「安いなあ・・バブルもはじけて、ココまで値下げを断行しないとうれないのかなあ・・・」と思いながらそのうちの一本を購入しようかどうか考えた。わたしは店員さんに声をかけた。

 

「随分斬新なモデルが安く売られているけど、これ去年のモデルですよねえ?」
店員 「いや・・・斬新ということは・・あの・・これは最低5年以上前のモデルばかりなんですけど・・・」
「・・・・・」
店員 「どうされます・・・?」
「ちょっと考えるわ・・」
私は自分がもうろくし始めていることを知った。そして昔大学スキー仲間で後輩だった女の子に電話をした。
「あのさあ、○○チャン、新しい板を買おうと思っているんだけど、カービングスキーとノーマルのスキーとどっちがいいかなあ」
彼女 「先輩なに言ってるんですか?カービングに決まっているじゃないですか、私は一昨年からはいてますよ!」
「でもさあ、滑り方も違うって言うじゃん?」
彼女 「でも、もう普通の板なんてめったに売ってないですよ!まさか先輩あの頃の板をずっと履いてるんじゃないですよね、ブリ×ードの・・・・」
「ははは、そんなことあるわけないじゃん・・・じゃあね」

危なかった。うっかり「そうだよ」というところだった。しょうがない、今年はまたブリ×ードで行こう。来年は貯金をしてカービングスキーを買うことにしよう。

私はある人のことを思いだした。それは94年までワールドカップスラロームに参戦していたドイツのピーター・ロートという選手のことだった。彼は94年当時、20年以上前のブーツ(1971年製)を履いてワールドカップに参戦してた。『精密機械』と呼ばれた彼は速かった。

やれやれ・・・あんたはえらいよ・・

 


2001.2.15    「レコードとCD」

レコードという言葉が久しくなってずいぶん経つが、かつてCDが出始めた頃、「レコードとCDとどちらの音が優れているか」という質問が音楽ファンやオーディオ雑誌を賑わしていた。もちろん、「良い」ということと「優れている」ということは違う意味だが、大抵がおなじ意味で使われていた。CDのシェアがレコードのシェアを超えたのは1986年だったと思うが、私はその過渡期に丁度音楽に対しての目覚めが始まった頃であった。

初めてCDを聴いたとき、あなたはその音をどう感じたか?私に関して言えば「ちっとも良くない」と感じた。確かに「好きな曲だけ選んで聴ける」「オートスタート・オートストップが常識」「針飛びがない」「選曲ができる」という点では、LPを圧倒していたが、肝心の「音」については「ノッペリとして」「響きがない」と感じてしまった。当時このようなことを仲間で話すと「懐古趣味」とか「デジタルだから良いに決まっている」とばかにされていた。

私が初めて聴いたCDは、弟が買ってきた「斎藤由紀」のCD(斎藤由紀は歌を歌っていたんですねえ・・)だったが、この音を聞いて先の感想を述べたのである。「音源がよくないせいかなあ・・」と疑ってみたが、最近あるCDを聞くことでこの問題が解決できたのである。

Walts for Debby/Bill Evansそれは、最近はやりのペーパージャケットで再発売されている50thプレステージ・ジャズシリーズの「Waltz for Debby / Bill Evans Trio」を聴いたためである。このシリーズはオリジナルジャケットを忠実に再現したペーパージャケットがウリであるが、それと同時に20bit DIGITAL K2と呼ばれる20bitマスタリングがもう一つの魅力であった。通常のCDは16bitでマスタリングされている。

レコード及びカセットテープなどの磁気テープに記録された音源は、収録された音源をほぼ100%記録している。ただし、その音源を再生する場合、レコードではスクラッチノイズと針との摩擦が、磁気記録においてはテープノイズやアジマスの問題が邪魔をして100%の音を再現不可能にしている。一方、CDはデジタル録音ではあるが、その代りに人間の耳で理論上聞くことのできない高音や低音をカットして収録している。

「Waltz for Debby」は1961年の録音で、当然アナログ録音である。これをCDにマスタリングする場合は先に述べたとおり人に聞こえない音はカットしている。しかし、人間の耳はそれほど単純なものではない。理論上聞こえないとしても、本当は聞こえているのだ。

私はこの20bitマスタリングのCDを聴いたときに、あのレコード時代の「やわらかさと臨場感」を確かに感じた。このアルバムはニューヨークに今でもある「ビレッジ・ヴァンガード」で収録されたライブ盤で、バックの会話やグラスの触れる音をより鮮明に聞き取ることがでる。シンバルにいたっては演奏中ずっと尾を引いているほどクリヤーに鳴っている。

私が初めてCDを聴いたときの「ノッペリ」とした厚みのない音はこれに起因していたのだと思う。同じCDの16bit盤も持っているので聞き比べてみたが明らかに違う。もちろんオリジナルマスターテープを使用していることも理由に挙げられるが、空気のふるえまで再現しているという点では20bitの恩恵を得ているのである。

人間の耳は正直だ。私は20bitのサウンドを聴いてやっとCDがレコードを超えたのだと確信した。今では24bitのものまで出ているが、このようなCDがより多く発売されて欲しいと感じる今日この頃である。

 


2001.3.6    FREE AS A BIRD

もう今から6年程前になってしまうが、1枚のシングルCDが全世界同時発売で発売された。それはとても待ち焦がれられていて、世界中の人から注目されて、しかも25年ぶりに発表される新作であった。そのCDのタイトルが「FREE AS A BIRD」だった。発表したアーティストはあの「THE BEATLES」だった。

ビートルズの元メンバーやマネージャーはこの年、1970年の解散以後ずっと続いていた「版権関係のトラブル」を25年かけて何とかクリアーにし、「ビートルズアンソロジー」と呼ばれる「自叙伝」を発表した。これは「ビートルズ自身が語る真実」が目的で、「2枚組・3セットのCD」と「8枚組みのビデオ」と「アンソロジー本」の3種類で完結となる。昨年の冬にアンソロジー本が出版され、すべてのプロジェクトがここで終了した。

Free as a birdその第一弾としてビートルズが放ったシングルがFREE AS A BIRDだった。死んだジョンレノンが1977年に自宅のピアノで弾き語りをしたラフな未完成デモテープに残りの3人がオーバーダビングして、「ビートルズの新作」として発表したものだ。FREE AS A BIRD は発売後ビルボードのシングルチャートで2位まで上がり、残念ながら1位になることなくチャートから消えていった。しかし、問題は売行きやチャートではなく「評論家」と呼ばれる方々のコメントだった。もちろん世界中の人からは絶賛されていたが、どちらかというと「ビートルズの出すものだから・・・」と同情的な絶賛が多かった。ビートルズファンでさえどこかで「やはりビートルズは60年代のもので、いまさら新作を出したところでどうにもならない」という本音が見え隠れしていた。音楽雑誌も好意的に書いているものがほとんどだったが、その評論は「話題性」にだけ触れていた。

もう6年もたって誰もFREE AS A BIRDについて語らなくなった今、私は冷静にこの曲を評論してみたいと思う。

あえて言おう、「すばらしい!」と。ではなぜ素晴らしいのか、それはFREE AS A BIRDが「本物のビートルズの曲だった」ということだ。ポール・マッカートニーはソロツアーでビートルズナンバーを演奏しているが、そんなものはビートルズと程遠い。ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターがビートルズナンバーを演奏しても然り。ビートルズは4人が演奏してビートルズなのである。そして、この曲ではまさしくそれが行なわれている。

この曲が発売された1996年私は仕事が大変忙しく、ビートルズが新曲を出すということは知っていたが、いつ発売で、どんな曲かもわからなかった。ただ「FREE AS A BIRD」という曲名だけはかろうじて知っていた。ブートレグの音源ではレノンのデモテープが流出しており、ファンの一部はそれがピアノを中心としたあまり「パッとしない」曲だということも掴んでいた。

私はFREE AS A BIRDを仕事に向かう車のラジオで初めてきいた。DJは何も言わなかったが、私はイントロの数秒だけでこれが今日発売になる「ビートルズの新曲」だとすぐに分かってしまった。そして、歌がはじまったとき、それが間違いないと確信した。

絶妙だった。リンゴのクセのある後ノリのドラム、ジョージハリスンの御家芸スライドギター、センスのあるベースライン。そして特徴あるハーモニー。そのハーモニーは紛れもなくビートルズのハモリだった。何よりうれしかったことは、途中でワンコーラスずつ、ポールとジョージがリードボーカルを分け合うところで思い浮かぶ2人の顔が、今の「おじいさん」顔ではなく、ビートルズ時代の2人だったことだ。ポールとジョージの歌うパートはそれぞれが詞を書き加えている。そして同じ様な繰り返しが続くようでいて同じフレーズはひとつとしてないというところもまさしくビートルズだった。しかも何度きいても飽きない。

ビートルズのヒットソングを並べるとき、この曲も必ず加えてあげたいものだ。大体、20年も前に死んでしまった人をリードボーカルにすえて、新曲を出して、ヒットチャートの2位を獲得できるバンドはビートルズ以外にありえない。それでも「FREE AS A BIRD」を認めないというなら、ポール・マッカートニーの次の言葉を引用して反論したい。

良いか悪いかは人それぞれさ、だけどビートルズの曲だぜ?黙って聞け!
(1994年ホワイトアルバムについてのインタビューより)

 


2001.3.17    突然の訪問客

私は賃貸マンションの2階に住んでいる。どんなマンションかというと、3階建てで真中に階段があり、一階につき右と左にそれぞれ一世帯づつ並んでいる。つまり合計六世帯で、隣同士のベランダは繋がっていない。なぜ、私がこのようなことを説明しなければならないかというと、先日我が家のベランダに招かざる客がやってきたからである。猫だった。

私はその日もライブスチームに没頭していた。ベランダは専ら、塗装したり、酸洗いをするための場所で、すぐにその作業にかかることができるように、新聞紙、洗面器-1(サンポールが入っている)、洗面器-2(酸を洗い流すため)、各種工具が用意してある。だから、2日前から、新聞紙がカサカサしていてもべつに不思議ではない。しかし、風がないにもかかわらずその日は特にカサカサうるさかった。

ネコベランダに出てみるとそこに猫がいた。ネコは一瞬「ヤベェ」というような顔をしたが、どうしてこんなマンション2階のベランダにネコがいるのか私は不思議でしょうがなかった。はっきり言って私も「ヤベェ」と思ってしまったのである。中型で生後2ヶ月といったところである。猫は新聞の下にもぐりこんで私のほうをジッと観察していた。私は「ネコマニア」なので、久しぶりにネコと会話を楽しんでみることにした。

ネコは相手の目を良く見る習性がある。私も負けじと目を見つづける。そしてしばらく見詰め合った後、私は10秒間目をつぶり、またネコの目をみた。こうすることでネコは「自分に対して目をつぶるということは攻撃的な奴ではない・・」と理解する(らしい・・・)。その作業を3回ほど繰り返した後、私はネコに近づいた。ネコはベランダのコーナーに追い込まれて、じりじりと後退したが一瞬の隙を突いて私の横を通り抜け、先ほど追い込まれたコーナーから逆方向のコーナーへと逃げた。私は、台所へ行き、昨晩のおかずの残りだった「ゲソ揚げ」を一掴みして、ベランダへでた。ネコは「ゲソ揚げが好き」という根拠ないことを信じて、ネコの前にそれを差し出した。私が昔飼っていたネコはこんなことをされたら見向きもせずに食べ始めたものだが、このネコにはあまり効果がなかった。ちょっと匂いをかいだだけで、また目をそらせてしまった。私は「腹減ってるんだろ、おいしいよお〜」などと心につぶやきながら、どうやってこのネコを無事下界へ下ろすのか次の対策を練った。

再び、「目つぶり作戦」を遂行したが、ネコは飽きてきたのか、顔などを洗い始めた。完全にネコは自分を取り戻していた。私はじりじりとネコに近づき、一気に「がばっ」とネコに飛びついた。するとネコは逃げることもなく、「しょうがないなあ」という表情で私の手に乗り込んだ。

ネコは軽かった。きっと2日は何も食べてなかったのだろう。私はふと酸の入った水を飲んでしまったのではないかと心配になった。洗面器-1のほうはどんなアホネコでも、飲む気はしないと思われるが、洗面器−2のほうは、迷いネコの頭では飲んでしまった可能性がある。

私は玄関までネコを連れて行き、ドアを開けた。ネコはピョンと飛び降りて、階段のピロティーのところで座って夜の景色を眺めていた。私はほっとしてドアを締めて、中断してしまった製作活動を再開した。

工具を手に取ったとき左手に激痛が走った。左手を見るとそこには明らかに「後ろ足でケリをいれた後」が残っていて、血が吹き出ていた。私は「ネコの奴・・・」と反撃するために玄関を開けたが、そこにはネコの姿はなかった。

「洗面器-1の水を飲んでいますように」と願ってみたが、それは今さらありえないことだった。


2001.4.3    黒岩保美の「蒸気機関車時代」

蒸気機関車時代 第3巻 本州篇「蒸気機関車時代」という5本組みのビデオをご存知だろうか?最近、鉄道関連雑誌でよく広告掲載されているあれである。5本はそれぞれ北海道上巻、下巻、東本州、西本州、九州とシリーズで分けてある。1本5000円で、全部購入すると25,000円もするビデオだが私は思い切ってまとめて購入した。

何度もこの「独り言」に書いているが、私は現役の蒸気機関車を見たことがないため、実際どんなものであったのか少しでも知りたいといつも思っている。その思いはビデオや写真集を購入するという行動に変わり、性懲りもなくこのようなビデオを購入することになる。だいたい鉄道関連グッズは価格が高めで、雑誌、写真集、ビデオなどを発売されるたびに購入していると本当に破産してしまうほどになる。しかし、そうせずには居られないのだ。

はっきりいって、この黒岩保美氏の「蒸気機関車時代」は買いである。このビデオは私がいままで購入したどのビデオよりも良かった。5本で25,000円なら安いくらいである。

このビデオがいままでのどのビデオとも違う理由は何か?まず挙げられるのは、カラー映像であるということ。この時代の写真やビデオが発売される場合は大抵白黒である。元はカラーだったとしても、経年変化による変色やカビのため白黒にせざるを得ないことが多いようだ。ホームページで蒸気機関車のフォトギャラリーを掲載している人の話を聞くと、「ほとんどカラー」であったものが「一部カラー」としなければならないほど痛みはひどいらしい。しかし、このビデオはほとんどカラーフィルムで見ることができる。
次に挙げられる理由は、音声が入っていること。解説によると、これはアフレコで、デジタル編集の賜物らしいがそんなことは微塵も感じられない。8620の時には三気室の汽笛がちゃんと鳴っているし、エアコンプレッサーからの排気もタイミングがきっちり合っている。もしかすると、これを撮影された黒岩氏は録音テープもある程度回していたのかもしれない。
もうひとつは、彼が車輌デザイナーだったことから、鉄道施設への立ち入りがかなり自由であったことが挙げられる。C62重連をキャブから撮影したり・・・ということは黒岩氏でなければできなかっただろう。

しかし、いままでのビデオと最も違う点は、「蒸気機関車を風景としてとらえている」ということだ。黒岩氏はすでにお亡くなりになっているが、彼は画家として、車輌デザイナーとしての独特な視点から蒸気機関車を捕らえている。それはあまりに日常的な風景で、あえて記録に残す必要がないほど自然に蒸気機関車がそこにいる。蒸気機関車はドラマチックでなくただもくもくと生活の一部として活躍している。そこがほかの「蒸気機関車」だけに的を絞って撮影されたものとの決定的な違いである。
このビデオは1巻から5巻まですべてのオープニングに共通の説明がある。それはこんな言葉である。

「〜彼が残した数百点にのぼる鉄道絵画と数十時間に及ぶ8ミリフィルムは、
私たちが失ってしまった蒸気機関車の時代と風景を今に伝える・・・」